ごっこ遊び後編
名前の態度がおかしかったのは、虎於が月雲了の元でアイドルになると決めたその晩だけで、翌朝にはいつも通りの「優秀でお節介なメイド」の姿を取り戻していた。
あの晩「本当にいいのか」と不安になって尋ねた虎於に、名前は「これが虎於様が最強になるために必要な試練だというのなら、名前はあなたの手となり足となり、あなたの望みを叶えるだけです」といつも通りの様子で言った。
いざデビューのためにレッスンを始めたら、歌もダンスも、虎於はなんでもすぐにできた。人の視線を集めることには慣れていたし、人を惹きつけるオーラが元々備わっていた。しかしその一方で月雲了が集めてきたメンバーは皆年下ながら芸歴があり、隣に並べば技術の差は一目瞭然だった。芸能界の先輩である彼らとの差を埋めるべく、虎於は一層レッスンに時間を費やした。最年長がそうやって人の目も気にせず必死になっているところを見て、3人も徐々に心を開いていった。
次第に3人それぞれが深刻な問題を抱えていることがわかった。月雲了は問題ごとを抱えた人間ばかり集めて何をしようというのだろう。父と慕う人間に裏切られたことも、仲間と夢を同時に失ったことも、恩人を救うことのできない苦しみも、虎於の人生にない困難だった。3人はそれぞれ苦しんでいるのに、揃って「虎於には関係ない」「これは自分自身の問題だ」「そもそもあなたを頼りにしてない」などとトゲトゲしていたので、元々素直な末っ子気質の虎於は頭を抱えた。
困り果てた虎於にできたのは、自分がどうして芸能界に入ることになったのか未だ解決しない悩みを話すことだけだった。3人とも意地っ張りの頑固者のくせに打たれ弱くて内向的でそれなりに泣き虫だったので、打ち解け合うのには時間がかかった。
虎於は兄や名前の振る舞いを思い出して「ただ喜ばせたかった、って気持ちは間違ってないよ」と悠を励まし、「誰が何と言おうとお前は魅力的だ」とトウマに説き、「全然解決策が思いつかない。もういっそ助けてほしいって、六弥ナギに言いに行こう」と巳波を説得した。
しかし虎於も虎於で人生初めての最年長的振る舞いだったのでなかなか順調とはいかず、「はあーーーー!?虎於全っ然わかってない!」「トラ、お前が何考えてるのかわからない!!」「……もういいです、頼る相手は自分で選べます」などと3人を怒らせては「お前らが俺を頼らないから俺も頼る気になれない!!!」と逆ギレして、感情のコントロールもできず年下に逆ギレした自分を恥じた。テレビに出れば尖った態度をよその先輩アイドルに怒られ、月雲了の思惑でとある人物が虎於を尋ねてきたり、順風満帆とはいかないものの日々忙しく新人アイドル業をこなしていった。
4人の力で解決できることもあれば、どうにもならないこともあった。特に桜春樹の件は「桜さんを助けて」「桜さんが病院にいかずにいるのはあなたのせい」「私にはどうにもできないのに、あなたなら助けられるのに!」と巳波がわんわん泣いて六弥ナギに訴えて小鳥遊事務所を動かすことができたが、その一方でŹOOĻは月雲了の計画に乗じて幾つも罪を犯した。一生消えない傷を他人に負わせたことに、「絶対に許さない」と虎於を見た燃える瞳に、虎於の罪に、虎於は死ぬまで苛まれる。虎於が犯した罪を一生かけて償えと、記憶の中のその瞳が責め立てることをやめない限り。
虎於がŹOOĻのメンバーと仲を深め、アイドル業に邁進するにつれて名前と顔を合わせる機会は激減した。最初の頃は虎於の不規則な生活に合わせて家事をしていた名前も御堂家で任せられる仕事が増えていってそうも言っていられなくなった。御堂邸で書類仕事に忙殺される姿を見かねて虎於が「無理にこなくていい」と告げれば、名前は「このくらい熟せずに虎於様のメイドは名乗れません」とパソコンから目を逸らさずに言い切った。御堂家の仕事を多く振られるようになってから、名前は社会人らしい綺麗なスーツ姿でいることが多く、虎於は幼い頃から知っているはずの名前がなんだか急に遠くなったと思った。
名前は忙しい御堂家の仕事の合間を縫って虎於のマンションを訪れるようになり、そのせいで虎於と顔を合わせることはほとんどなかった。綺麗に掃除された部屋に帰ってくると「ああ、今日は名前が来ていたのだな」とため息が溢れる。「虎於様にメイドの作り置きのお食事など……」と散々名前が渋ったのを説得した結果、冷蔵庫にはいつも何かしらの料理が入っているが、それを目当てに寂しがりのメンバー達が遊びに来るから大して虎於の口には入らない。
虎於にとって名前は幼い頃からすぐそばにいて、姿も見えないほど遠く離れるのは記憶にある限り初めてだった。大人になってそれぞれ家の中で別の仕事を任されるようになれば、それこそ名前が結婚などすれば名前が毎日虎於の元に通ってくることはなくなるのかもしれないが、あまりに急で、そしてそれが虎於にわずかな不信感を抱かせた。
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初めての海外公演、ステージの興奮冷めやらぬまま、虎於は名前に電話をかけた。日本は早朝のはずが名前はワンコールで電話に出た。
「俺だ」
「いかがでした」
「ŹOOĻとして、もっと頑張れると思ったよ。これこそが俺のやりたいことだと、俺の判断に間違いはなかった」
「ああ……」
「名前?どうした」
寝起きと思えないはっきりとした声、先程までの虎於の動向を全て見てきたかのようなもの言いだった。もしかしたらネット配信か何か見ていたのかもしれないが、たまに名前は全部未来まで見通すような、虎於が何をして何を考えているのかわかっているような反応をする時がある。その理由を名前は「あなたのメイドですから」といつもはぐらかすが、あまりに怪しいのでいつからか虎於は名前をサイキッカーか未来人だと疑うようになった。
「……ああ、何も仰らなくていいのです。あなたが今日何を感じて、何を考えたのか。言葉にして聞きたいわけではないのです。あなたがこの勝利を経て、今日ここで最強のアイドルに、史上最高の御堂虎於になったと……私はただそれだけで」
虎於は名前の言葉を黙って聞いた。ŹOOĻが出たのはフェスで別に勝ちも負けもなかったが、虎於にも今日のこの経験は死ぬまで忘れられられないだろうことはわかっている。名前の言葉は抽象的で虎於にその全てはわからないが、名前がただ満足して喜んでいるのがわかったから、それでよかった。
その日は心底満ち足りた気分だったというのにデンマーク、ノースメイアを経て日本に戻ってきた時、名前はどこにもいなかった。家族に尋ねても誰も名前の行方を知らないという。それどころか、虎於に付き従う3歳年上のメイドなど、これまでの21年存在したこともないという。
「父さん!兄さんもなんとか言ってくれ!名前はどこに行ったんだ!!」
「何度も言うが虎於、名前という使用人はうちにいないよ。誰かと間違えているんじゃないか」
「虎於、新しい使用人が欲しいのならすぐに用意しよう。明日にでも、新しい人間を探して……」
「……どうして?みんな俺をからかっているのか?」
虎於はこの21年慣れ親しんだ御堂邸のリビングで初めて誰も味方のいない孤独を、苦しみを、憤りを知った。家族の誰に期待されなくても、虎於にはいつも名前がいたのだと、虎於は名前がいなくなってから気がついた。
「俺が……好きなことをやって、わがままになったから、愛想尽かして出て行ったのか?」
可愛い末弟が呆然と口にするのを見て、長兄が優しく背中を撫でた。
「虎於、お前はわがままじゃないよ。お前が好きなことをして、好きなように生きて。それを見るのが俺たちの幸せなんだよ」
「兄さん……」
兄の手は温かく優しかったが、それでも父も兄も最後まで名前の行方を口にしなかった。
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名前は本当に、極秘任務を受けたエージェントだったのかもしれない。御堂虎於を「最強のアイドル」に仕立て上げてミッション・コンプリート。凄腕のサイキックは虎於以外の人間の記憶を消して立ち去った。
新しい年が来て、虎於のマンションには家族が手配したハウスキーパーがくるようになった。御堂家で名前が任されていた仕事は他の人間が担っている。虎於以外誰も、名前がいなくなっても困っていなかった。
(俺が最強になったから、いなくなったのか?)
虎於は自問自答しながら街中を歩き回った。あの日、月雲了に声をかけられたのと同じ街だった。
(なら俺は、ŹOOĻはどうしてブラホワで負けたのか?)
皆がイルミネーションに夢中になる中、それに見向きもせず歩く人影を見て虎於は目を瞠った。生まれてこの方、ほとんど毎日見ていた後ろ姿を見間違えるはずがない。
「名前!!名前、どこに行く!」
変装しているのを気にも留めず、大声を出した。名前は無視をして走り出す。虎於に気づかなかったわけでも、人違いでもない。名前の耳に虎於の声が聞こえないはずがない。名前はいつも都合の悪いことは聞き流すくせがあった。
虎於はイルミネーションを楽しむカップルの間を器用にすり抜けて、すぐに名前に追いついた。
「名前」
「離してください」
「おい、待てって言っただろうが。なんで逃げる」
振り向いた名前は、元気そうだった。急にいなくなって困惑したのは虎於だけだと突きつけられるようで、何か変わったところはないか上から下まで観察したが本当になんともなさそうだった。
「……お前、『ずっと傍にいる』んじゃなかったのか」
「……虎於様」
どうしてお前がそんな悲しい顔するんだよ、と虎於は舌打ちしたくなった。泣きたいのは、この年まで最強になれとお前に褒めちぎられて、甘やかされて育ち、21歳になった途端に放り出された俺の方だと訴えたかった。
「どうしていなくなった!いやいい、お前のことだからどうせ訳のわからない理屈を捏ねるに違いない。お前の言い訳は聞かない、戻ってこい」
「虎於様」
「命令だ」
父や兄のように重々しく命じたはずが、口から出たのは縋るような情けない声だったので、虎於は自分にがっかりした。
「虎於様が最強になったから、私はお役御免です」
「そんなわけあるか!」
父や兄のように、冷静に、名前の心に訴えかけるように落ち着いて話そうと思っていたのに、その決意は一瞬で破られる。名前の瞳を見れば、心の底からそうだと思っているのは疑いようもなかった。
「俺は……俺は、負けたんだぞ!!」
コントロールできずに虎於の目から涙が溢れた。全然最強なんかじゃない、IDOLiSH7には負けたし、桜春樹はノースメイアで死に、虎於も他のŹOOĻのメンバーも取り返しのつかない罪を犯した。虎於には、仲間の悩みも苦しみもすべては解決してやれない。感情のコントロールだって、同じ歳の頃には兄も名前も完璧だったのに、虎於にはまだできない。そういうところが未熟で、甘やかされて期待されずに育った三男だと思い知らされる。虎於は乱暴に目元を拭った。普段なら名前が綺麗なハンカチを差し出して虎於の頬に優しく押し当てただろうが、名前は動かなかった。名前はもう虎於のメイドじゃないのだ。
「……こんなに悔しいの初めてだ」
「それはよかった」
「何がだ?」
「間違えました。お労しく存じます、虎於様」
虎於は名前があっという間に真顔に戻ったことを惜しく思った。
「虎於様にはまだまだ、ご成長の余地があるということと存じます。その気持ちが先走ってしまいました」
御堂虎於には、成長の余地がまだある?兄達と同じく海外の名門大学が視野に入るほど賢く、父に望まれずとも交渉術の何たるかを有能なメイドから手ほどきされた虎於の優秀な頭脳が、その言葉に反応した。交渉の基本は堂々と、自信を持って。母譲りの美貌は自信たっぷりに微笑めば、交渉の場での切札になる。己の美しさに無自覚だった幼少期、それを指摘したのは他でもない名前だ。
「まだまだ成長の余地があるってことは、俺はまだ最強じゃないんじゃないか?」
「そう……そうなのでしょうか?」
大真面目に訊ねると名前はポカンと口を開けて虎於を見上げた。虎於はこれを機と見て畳み掛ける。
「そうだ。まずお前は何をもって俺が最強になったと見做したのか?」
「だって……虎於様やりたいことをやりたいって言えるでしょう?」
「……言えるな。それがどうした?」
虎於は何が言いたいのか分からず、名前を見た。名前はそれを見て優しく微笑んだが、虎於はそこに悲しみの色が乗っていたのを見逃さなかった。長い付き合いだから、名前が虎於の意思を汲み取れるように虎於にだって名前の気持ちはわかる。
「何がやりたい、か。お前は前にもそれを聞いたな」
「そうでしたっけ」
「そうだ。お前にとって、それは大事なことなんだな」
名前の表情に動揺の色が混じる。虎於は注意深く名前の表情を伺う。そんなに聞きたいなら教えてやろう、名前を喜ばせてやろうと思って。
「演技の仕事がやりたい。まだ演技の経験が浅いからってなかなか大きい役を任せてもらえないのが不満だ。ヒーローサイドがいいな、いずれアクションもやりたいし……歌だって今よりもっとうまく歌えるようになるし、人の話を聞くのも嫌いじゃない……むしろ結構得意だ。だからラジオのパーソナリティとか向いてるんじゃないか?リスナーからメールをもらって、俺の言葉で返事をしてやるんだ。ライブでもっといろんなところに行きたいし、ŹOOĻのやつらが困ってたら助けてやりたい。俺は最年長だからな」
虎於が指折り今後の展望を語るのを名前は黙って聞いていた。その頬を大粒の涙が伝ったので虎於はぎょっとして慌ててそれを拭ってやった。こんなことは初めてだった。
「あなたが傷つかないように、苦しまないようにと私がやってきたことが……あなたの人生において必要な困難や苦しみまでも奪ってしまった」
「何を言ってるんだ?」
「あなたがこれからするべき努力や葛藤を先回って私が摘んでしまった。小さい時はそれでいいって思ってたけど今になって怖くなった。自分のしでかしたことの重大さにやっと気がついた」
「先取り学習だって言って、1年生の間に高校数学全部無理に叩き込んだことを後悔してるのか?今更だろう」
名前が顔を真っ青にして泣くほどのことをされた覚えがなかったので、虎於は絶対違うと思いながら高校1年生の時の話をした。無理に決まってる、と喚いても名前は問答無用で数学ばかりやらせた。相当厳しかったがおかげで入学試験では高得点を叩き出し、大学入学後も経済学の単位は比較的苦労せずにとれた。あの時鬼のように厳しかった名前は今ここにいなくて、虎於の腕の中で後悔ばかり口にして震えていた。
「あなたの幸せを願ってしたことが全部間違っていたかもしれない」
「それが怖いのか?」
名前の色を失った唇が震えるのを虎於は冷静に見ていられなかった。名前はきっと虎於に怯えているのだ。虎於に最強になれと言って無茶ばかり強いて育てたくせに、現実名前の望む通りの最強になった虎於に怯えている。破綻している名前に腹が立つより先に優しくしてやりたい、と虎於は思った。思いの外優しくて穏やかな声が出た。
「何も怖くないよ」
名前がハッとして顔を上げた。見開いた目から大粒の涙が落ちて、震えた唇は何も言わずに閉じた。かけた言葉は虎於の本心だったが、名前の心のどこにどうしてそんなに響いたのかはわからなかった。
「ブラホワで負けたからって、アイドルとして終わったわけじゃない。休む暇もなく毎日仕事だ」
なるべく穏やかな声で、優しく、言い聞かせるように。名前は何も答えない。ただ虎於の顔を呆然と見上げている。虎於には、虎於の言葉の何が名前の心にそこまで響いたのかわからない。
「怖くないんですか、あなたは」
「逆に聞くが、何が怖いんだ?俺にはこれからやりたいことも、まだ知らないすごい仕事も、たくさん待ってるっていうのに」
名前はそれを聞くとついに顔を覆って泣き出した。立派になった虎於の姿を見て感動こそすれ、まさか泣かれると思わなかったので虎於はオロオロした。女性の扱いは上手いはずだが、名前は虎於の手に負えない。
虎於は名前を泣き止ませることを諦めて、名前を連れて家に帰ることにした。抵抗しない名前の手を引いて、虎於は夜の街を歩いた。名前は家に帰るまでずっとしくしく泣いていたが、もう逃げ出そうとはしなかった。
幼いころから雇い主の父にも臆さず怖いものなしのはずの名前が今更何を恐れているのか、虎於にはよくわからない。でも、虎於が何も恐れないことを名前が泣くほど喜ぶのなら、今度こそヒーローになるしかないと思った。幼い頃から虎於の夢も憧れもプライドも、名前が守ってくれた。年齢以上に大人びて何でもできて、虎於の家族からの信頼も厚い名前は、虎於の助けなど要らないのだと今までずっと思っていた。もしかしてそうじゃないのだとしたら、今度は虎於が守ってやらないといけない。名前がサイキックでも極秘任務を受けたエージェントでも未来から来たタイムトラベラーでも、普段は助けられてばかりでも、虎於は名前を守るヒーローになろうと思った。
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苗字名前は御堂虎於を知っていた。ホテルを経営する御堂家の三男、ŹOOĻのパフォーマー。肩書き以上のこともよく知っていた。ŹOOĻのメンバーを仲間と認めた後も自分の本音を口にせず、周囲の望む姿を見せようと足掻いて、世間のイメージから外れた言葉は正しく届かないと諦めて、仲間の力を借りてようやく己が「吠えることのできない犬」だと、自分を惨めで恥ずかしい人間だと打ち明けることのできた人。そこから頑張ることのできた人。名前の推しは虎於じゃなかったし、虎於の人生に共感できるところはなかったが、それを可哀想だと思った。
さて、健康には自信があった名前だが、ある時退勤中に突然死して、目が覚めたら小さな子供になっていた。
「名前、さあご挨拶して。眠っているから静かにね」
母親に促され恐る恐るベビーベッドを覗いて、名前は大きな声をあげそうになった。見たことある。後何年か経ったらあの「幼少期の写真そのまま」の顔になるに違いない。間違いなくそうだと言い切れる。あの21歳の面影を感じ取ることはいささか難しいが、いつかの3月に数日間、名前はこの面影のある幼児と「コミュニケーション」した記憶があった。間違いなく御堂虎於だ!
目を見開いてベビーベッドの中を凝視する名前に母は「虎於様が3歳になったら正式にご挨拶しましょうね」と言った。家族が名前をつれてほとんど住み込みの暮らしをしていることは知っていたが、名前はこの時自分が転生して御堂虎於のメイドになったことを理解した。思わず身を乗り出してベビーベッドを覗き込む。小さな呼吸音に耳を澄ませた。
こんなに可愛い子が、恵まれているのに苦しんで、自分を恥じて、傷つく前に諦める人生を送るの?これから先、仲間と出会うまでの21年ずっと?
名前の熱視線を感じとったのかベビーベッドの中身が目を開けた。名前が知っている色をしていた。瞳はこれまでに見た何よりもキラキラしていて、ベビーベッドを覗き込む名前を見てへにゃっと笑って、そしてまた寝た。
「あ……」
「あら、起こしちゃったね。そろそろ帰ろうか」
名前がベビーベッドの中身に釘付けになっていることに気づかず、母親は名前をベビーベッドから引き剥がした。
「お母さん、私……」
名前は心臓を抑えて母親を追った。社会性を得る前の人間の笑顔が何の意図もないものだということは、子供を産んだことのない名前でも知っている。なのに、「確かにあの一瞬自分を見た」という感動が名前の小さい心臓をこんなにも逸らせる。
「私……」
部屋の入り口からもう一度ベビーベッドを振り返る。身長が足りなくて中身は見えなかったが、名前は眩しい物を見るような気持ちでそれを見上げた。
「虎於様に幸せになってほしい」
運命を変えようと思った。彼が口をつぐんだ時には代わりに吠えて、我慢した時は代わりに暴れて、頑張った時は甘やかして、心無い言葉を跳ね返して、狗丸トウマや亥清悠や棗巳波が彼の人生に現れるまで、21歳の運命の日までに強く強く、彼を傷つける何者にも負けないように、ŹOOĻの最年長として自分も他のメンバーを守れるヒーローに育てよう。最強最高の御堂虎於を、芸能界に連れて行こう。やりたいことを彼の望みを本心のまま口に出せる人生を生きてほしい。「本編」の流れなんて変えたって構わない。御堂虎於が21歳まで誰にも言えずにひとりで抱えた苦しみを取り除いて、誰かに「君は不幸だ」って言われた時に「そんなわけないだろう」って笑い飛ばせるように。
自分の心を、仲間を守って、明るい道を歩くヒーローになってほしい。まずは名前が最強の虎於さまに相応しい文武両道の万能なメイドになろう。名前の二度目の人生を決定づけた、今日が運命の日だった。
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