君のはいた甘い溜息
ただいまと、言って玄関を開けるとそこは合戦の後だった。
まず、床が汚い。今朝家を出た時はきれいだったのに、たった12時間でこんなにするのは才能だと思う。落ちている紙切れだとかシャツを拾いながらリビングに向かうが、途中のゴミ箱は満杯で紙ゴミの入る隙間もなかった。
「ただいま」
リビングのど真ん中、大の字で放心している純に声をかける。
「…おう」
緩慢な動作で純が私に視線を合わせた。しわの寄ったシャツ、半分脱げた靴下。デジタル作業のくせにたくさん散らばった紙。
「間に合った?」
「余裕」
くしゃりと前髪を掴んであー、と意味もなく純が呻く。
「ごめん、ご飯今からになっちゃうんだけど」
「キッチン」
締め切り明けの純はほんっとうに必要最低限しか言わない。指一本動かすのもしんどそうだ。高校の頃も遅くまでノックくらった日は辛そうだったなぁと思い出す。私も監督ノックくらった翌日ほど朝日が恨めしかった事はない。
キッチンの洗い物は解消されていた。
「洗いものありがと!」
「おう」
そして鍋には味噌汁が満たされ、炊飯器はアツアツになっている。
完成後に夕飯の支度をして、部屋の片付けまでは至らずに力尽きたらしい。脱稿後に米を炊けるなんてすごすぎる。あとは冷蔵庫の作り置きのおかずをあたためるので今日は我慢してもらおう。
「ご飯、あったまったよ」
ほら起きて起きてと体を揺さぶると純は意外とあっさり起き上がった。
「悪ぃ、全部そのまんまだわ」
「ううん、ご飯ありがと」
脱げた靴下を履き直して、純はダイニングへ向かった。
「いただきます」
「…そういや、いつ帰ってきたんだよ」
「帰ってきてすぐ声かけたでしょ。どうして?」
「服着替えてねぇから、」
じっと純は通勤服のままの私を見つめる。
「…社会人女子は”純向き”じゃないんじゃない?」
でもそこに恋人同士の心温まるような事情はない。少女漫画家のネタ探しに過ぎないことを知っているから、自分から否定をする。どうせいつまでも青春してる女子高生でいられなかったのはわかりきった話だ。
「やってみねぇとわかんねーだろ」
「なにそれ」
むきになって手元から目線を上げると反対に純はさっと目線を逸らした。その首が薄赤くなっていたので私もはっとして再び目線を下げた。
お互い社会人の端くれとなった。とうに青春からは卒業させられたくせに純は確実にツボを押しに来る。何を考えてるんだこの乙女思考め、と内心何度詰ったことだろう。そもそも純と私では読み込んだバイブル量が圧倒的に違う。純の乙女思考は長年の積み重ねの賜物だから筋金入りだ。
純の吐いたため息が妙に甘ったるくて、ああ、本当に、だからもう、何なんだと問い詰めたくなる。わからない気持ちそのままに吐いた私のため息も同じように甘ったるくて私は苦い笑いを味噌汁ごと飲み込んだ。今日も純の作った味噌汁がおいしい。
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