ラブ・ラ・シックスティーン
>>紅井朱雀が吸血鬼
吸血鬼が血を吸う怪物なのはよく知っているけどその血にうまいまずいがあるなんて知らなかった。私の前でうずくまる朱雀くんはそろそろ死んじゃうんじゃないかってくらい苦しそうに息を荒げて肩を大きく上下させていた。きっと簡単には死なないだろうけど。
「ねえ、どうしてそんなに嫌がるの?同意が得られてるんだから吸ったらいいじゃない。ほら、美味しそうでしょ?」
ベッドから降りて朱雀くんの前でしゃがみこみ、優しく髪を撫でてあげるとその肩は面白いくらいびくびく震えた。あーあ我慢しちゃって。血が欲しくてたまらないのに自分の腕に爪を立てて、”わたし”を一生懸命無視しようと頑張っている。馬鹿だなあ、私はいいよって言ってるのに朱雀くんは絶対にわたしのからだに触れようとしない。
キャミソール姿で長いこといたからか嫌な咳が出た。朱雀くんは腰を上げて私の背中をさすった。手が暖かくて、それでもなかなか咳が止まらない。優しいね、と微笑むとぎろりと睨みつけられた。恋人に見せる顔じゃない、と笑ってしまって余計に咳が出た。
朱雀くんのことは、最初はただ、女の子がとびきり苦手なだけだと思っていた。気恥ずかしくて、どうしていいかわからない気持ちを女子が苦手って言ってるんだと思ってた。
実のところ、紅井朱雀はなんと本物の吸血鬼である。正義を語るその口には牙が隠されているし銀に弱い。人間の首筋に牙を突き立て溢れる血を啜り、夜には何者にも負けず、朝陽が登れば冷たい石の城の棺桶の中に帰っていく。銀の十字架を心臓に突き立てるか降り注ぐ太陽の光を浴びる以外に死ねないはずの、あの吸血鬼だ。
朝陽を嫌がらないのは人間の中で生きるうちに血が混じり、人に近い生活ができるようになったからだという。数ある弱点の多くは長い歴史の中で克服したものの、その名の通りに血を吸って生きることからは逃れられなかった。
今、朱雀くんにとっては目の前においしいエサがとびきり無防備に座り込んでいる状態だ。ようやく止まった咳に肩を上下させ、絶好のチャンスだなと勝手に思う。飛びつきたくて仕方ないだろうに、朱雀くんは抑えこんで我慢して、我慢して、我慢してるのにおいしいエサはエサの匂いをこれでもかと振りまき、剰え唆してくるのだからたまったものじゃないだろう。まあ、私がやってるんだけど。
「どうしていやなの?朱雀くん、私のことなら気にしないで。きっとすっごくおいしいよ」
ね?と自信満々に微笑むも、朱雀くんは自分の指を噛み、ぎろりと私を睨みつけた。余計なことすんじゃねえと荒い息の間に吐き捨てる。
「どうして?朱雀くんが言ったんだよ。生き血は処女に限るって。肌が白くて柔らかであたたかな処女の血がいちばん甘くてうまいって。ね、その通りならきっと私すごくおいしいよ」
「黙ってろ」
えーつまんないの。いつもだったら処女なんて聞いた途端に卒倒しちゃうだろうに、吸血鬼モードの朱雀くんはそんな言葉もへっちゃらどころか平気な顔して自分で言う。処女の血がいちばん甘ぇだとか吸うときくらいは優しく吸ってやるよとか普段からは想像できないようなことを言う。まあ、吸血鬼モードの時は女の人も女と思わず単なるおいしいエサとして見てるからっていうのが大きいんだろうけど。
ようやく目が合ったのでキャミソールの肩紐を落として首筋を見せつけると、朱雀くんの視線が痛いくらいそこに注がれた。そんなに見るくらいなら、その牙を刺せばいいのに。焦らしあいにも飽きた風を装いながら朱雀くんを観察した。朱雀くんは指を強く噛んで、もう我慢ならないという顔をしていた。
「悪いことじゃないんだよ。私たちがご飯とパンと肉とか野菜を食べなくちゃ死ぬのと同じ。朱雀くんは血を飲まないと死んじゃうんだもん。悪いことじゃないよ」
「だって朱雀くんは吸血鬼なんだから」
余裕ぶって追い討ちをかけた直後に、タックルの衝撃、視界がぐるっと回って天井が見えて、ぼすっとベッドに背中から着地して、それから視界があかく染まった。ぐう、と唸る声が肩のところで聴こえてそのあと必死に息を吸って吐いている音がした。
前に吸血鬼モードの朱雀くんが教えてくれた。いちばんおいしいエサは熟れて腐り落ちる寸前の甘い果物の匂いと刺激的なスパイスの香り、それらをグツグツ煮詰めたような、めちゃくちゃうまそうな、誘うような、そういう匂いがするんだって。
「いけないことじゃあないんだよ」
顔をあげさせて目を見て言い聞かせれば、途端に目が甘い欲に融けて、きつく噛んでいた口元が緩む。いけないことじゃないよ、いいんだよ、悪いことは何にもしてないよ。私のせいにしていいのよ。いいじゃん、吸血鬼なんだから。緩んだ口元に唇を寄せて言葉を浴びせかければ、朱雀くんはついに耐えかねたようにキャミソールの肩紐を千切った。抱き抱えられてあつい荒い息が鎖骨のところに当たって、思わず身震いしてしまう。
「あは、そんなになるまで我慢してたの……?」
我慢をすっかり諦めて、爛々と目を光らせ、夢中になって血を貪る朱雀くんを他所に私はぼんやり彼の紅い髪の先を眺めた。必死になってるところを見るのが好き。生きるために、死なないために本能のままに血を貪る姿がいちばん好き。食らう時くらいは優しく、なんて自分で口にした言葉をすっかり忘れて理性吹っ飛ばして本能剥き出しなところにどうしようもなく興奮を覚えて、首を絞められたみたいに視界が霞む。絞められたわけじゃないのに重い咳が出た。
興奮しすぎてどんどんお互いの息が荒くなって、その一方で私の視界が狭まっていった。指先から水に浸かったみたいに冷たくなっていってじゅるじゅる、ぴちゃぴちゃと唾液と血の混じり合った液体を啜る下品な音しか聞こえない。ドキドキが弱くなっていく心臓の音を聴かせるみたいに私は朱雀くんの頭を抱きしめた。また、咳が出た。全然力が入らなかったけど朱雀くんは夢中になっていたはずの吸血行為を静かにやめた。
「美味しい?」
この世でいちばんうまかったと朱雀くんは震える声で吐き捨てた。よかった、不治の病に冒された血でも、ちゃんと美味しいのねと私はちょっとほっとした。生きてる間に一度くらい、と考えたこともあったけど清い身でよかったなあと心の底から思った。朱雀くんに喜んでもらえたならこの短い人生、処女貫いた甲斐があった。ついに力の抜けた両腕がずるずると落ちて、朱雀くんの唸り声が耳に届いた。
「……泣いてるの?」
「泣いてねえ」
「泣かないで。大丈夫、私が死んでもこの血はあなたの中を巡るよ。死なない朱雀くんの中でずーっと生きてるんだよ」
吸った血がそのまま体を流れるかどうかはわからないが、私はあなたの一部になった。すっかり乾いてひび割れた唇で笑うと朱雀くんの目から落ちた大きな一滴がひび割れにしみた。
「お前が死んだら、意味がないってことくらい分かれよ」
「意味なくないよ」
朱雀くんは優しいから、私を吸血鬼にしようとしなかった。何回頼んでもお前はダメだって言ったし、エサにするのもダメだって言った。腐り落ちる寸前の、甘くておいしい死の匂いをさせた私と一緒にいるのは辛かっただろうなと今更ながら申し訳なく思う。余命、1ヶ月だってと伝えて今日が28日、今宵の私からはさぞかしいい匂いがしたことだろう。
朱雀くんが吸うのをやめた傷跡の血がゆっくり固まっていく。息をするとポンコツの喉がぜえぜえ鳴った。暗く落ちた視界では真っ赤な髪が見えない。残ったのは耳にいやでも入ってくる押し殺した朱雀くんの嗚咽と、抱きしめられた熱だけだった。唸るような嗚咽を聴きながら私は死ぬのを待っている。
*前次#TOP