花薫る傍らにて


>>玉さまが碧州臨時州牧した後にまた工部侍郎に戻れた話

「名前、名前。起きなさい」
公休日だというのに揺り起こされる感覚。眠たくて仕方ないけど起こし方が優しくて目を開けたくない。ああ、貴方もせっかくの……毎日狂ったように働いている貴方のせっかくのおやすみなのだからもっとゆっくりしていればいいのに。
「名前、いい加減に起きなさい」
「はあい、旦那さま……」
寝ぼけ眼を擦り身を起こせば髪こそ結い上げていないものの、すでに身支度を整えた彼の姿があった。使用人もいるのにわざわざ起こしてくださる、優しい旦那さま。お休みの日は普段の3割増でしゃらしゃらしている旦那さまは、そのお姿の通り美と工芸を司る工部侍郎をつとめておられる上にその生まれは芸術で名高い碧門筆頭欧陽家。碧州にてその芸を高めるのではなく王都で芸術の発展と守護のために政治的手腕をふるい、日々上司とばちばち火花を散らし、尚書の飲酒を咎めつつ酒を喰らい、美を愛し、時には甘っちょろい使者を追い返し、じゃらじゃらと官服に過剰なまでの宝飾をまとい、魑魅魍魎と名高い他部と争いながら予算を掴み、その傍らに妻を愛し、碧州が大災害に見舞われた折には誰よりも心を痛めその故郷を愛する心と手腕を買われ臨時ではありながら州牧もつとめられた自慢の旦那さまだ。

「さあ支度をしますよ」
欠伸を噛み殺しながら返事をして、裸足のまま床に降りると冷えた石の感覚に思わず身震いした。寒い、まだ夜も明けぬというのに完璧に装った(むしろ完璧を上回って過剰なまでに……)旦那さまの美意識は全くたいしたものだ。籐の椅子にかけると旦那さまは背後に回り、わたしの寝癖のついた髪を梳る。寝癖を伸ばす温めた石の感覚があたたかく、とろとろと眠りそうになるわたしを見かね旦那さまは「顔を洗って目を覚ましたらどうですか」と呆れた声を出した。

ぼんやりとした姿の映る鏡を見れば、髪をひとすじとっては真珠を編みこむという途轍もなく時間のかかる(そして途轍もなくお金のかかる)髪型を旦那さまは試みていた。
「名前、ちゃんと前を向きなさい」
「はい」
日頃一分の隙もなく巻かれた旦那さまの前髪を見ればわかることだけど、旦那さまの美に対する過剰なまでの(決して異常ではない)執着は日頃後宮でつとめている私から見ても、後宮の女たちに引けを取らない。私は紅貴妃や多くの女官たちのような真っ黒のまっすぐな髪をしていないけど、旦那さまは柔らかでうねりやすい私の髪を丁寧に丁寧に扱い、うねりはなおらないとわかれば私に編み込みを駆使した髪型を教え、工匠に作らせた豪奢な髪飾りを挿し、美麗な刺繍の施された絹を結び、こうして休日には楽しそうに私の髪をいじった。無数の真珠を編むこの髪型も旦那さまが私のこの髪質のために考えぬいた愛の結晶、芸術作品のひとつといえよう。


旦那さまに合わせてお休みをいただき家に戻る、この公休日が私は何より好きだった。たとえ冬のまだ日の上らぬ早朝に起こされようとも、着飾り私を着飾らせて満足そうな顔をしている旦那さまを見られることが何よりの幸せだった。旦那さまは仕事の話は愚痴ばかりになるからといってあまり私にすることはなかったけれど旦那さまの口からたまに出る、腕のいい工匠を見つけたとか今年はどこそこの修復に予算を割くことができるだとか新たな製法が医療技術への応用に繋がりそうだとかいうような頑張っていらっしゃるお話を聞くのが好きだった。ときたま街に出たり、あるいは仕官しているときに宮中で旦那さまのご活躍が人々の生活に繋がったことを知るのが幸せだった。

「さて、できましたから出かけましょう」
途轍もない数の真珠を編み終えた旦那さまはついでとばかりにさらっとご自分の髪を結い上げてしまい、私に外套を着せ毛皮の襟巻きまで巻いて出かけの支度をした。こんなに朝早くからですか、という言葉はご自身もさっさと外套を身につける旦那さまには無意味なので黙っておいた。ぼやけて見える鏡に顔の白い、赤い唇の女が映った。
「どちらへお越しですの」
「山を回ったところに沼だか湖があるでしょう。白木蓮が咲き始めて、朝焼けと並ぶ景色が綺麗だそうですよ」
山!この陽の登る前から馬で山まで!私は衝撃で目を回しそうになったが旦那さまがしれっとしているので悲鳴を飲み込んだ。

「落馬さえしなければ眠っていても構いませんが」
「いえ、しっかりお供いたします」
私の内心の悲鳴を見抜いて旦那さまは愛馬の腹を撫で私をからかう。落ちないように、みっともない姿を見せないようにと気を張る私を見て旦那さまが呆れて笑い、私はだってだってと駄々をこねたくなった。以前は旦那さまだって特別乗馬が得意というわけではなかったのに、あの臨時州牧就任の際鬼気迫るご様子で馬を駆り立てて碧州に向かって以来、馬など容易く操るようになってしまった。
「そんな顔をしなくても、落としはしませんよ」
「えっ!」
あっという間に馬上へ引きずり上げられて視界が高く広くなった。武官でもないのに、私を引きずり上げる腕力に感心してしまう。碧州への赴任中はただ机で仕事を裁くだけでなくあちこちかけずり回って仕事をなさったと聞く。本当に串に刺した飛蝗も焼いて食べたと聞き私は耳を疑ったけれど、あんな挑発をされたら食べないわけにはいかないでしょうとこともなげに旦那さまは言う。臨時就任の折に行動を共にした羽林軍の方たちとも随分親しくなったようだし(旦那さまはお酒にめっぽう強く、あの方たちはお酒に目がない)きっとお鍛えなさったのだ。
「捕まっていなさい、それから舌を噛まないように」
「はい……うわっ」
馬上の経験があまりにもないために私は体を強張らせた。速度を上げるにつれて不規則な白い息がどんどんかき消えていく。
「何を怖がっているんですか。私がいるのだから任せていればいいんですよ」
「……ええ、その通りです。旦那さま」
鞍に触れる手だけは離さないようにして息を吐き、体の力を抜いた。旦那さまの装飾品がしゃらしゃら鳴る音と薫きしめた香の匂いがより近くになって涙が溢れた。
碧州に赴任なさった時、誇らしさよりも心配や心細さが遥かに勝った。危険だから連れていけないと装飾品のひとつもつけずに私に告げた、強張った顔が忘れられずひとりで毎晩泣いた。離れている間は公休日もあまり屋敷に戻らず泣いて暮らした。一時王都に戻られた時、無事を喜ぶべきかすぐさま碧州にとんぼ返りすることを嘆けばいいのかわからなかった。任期を終えた時、彼の約束された春がきたとき、言葉にできないくらい嬉しかった。
「あなたは本当に泣いてばかりですね」
「私は旦那さまがいるから泣くのです」
旦那さまの冷えた指が目元を拭って離れていった。こんなにも近くて、あなたを愛しているのになぜ泣くのかと旦那さまは不満げに言う。

その通りだ。愛する人が側にいるというのに何を嘆く必要があるのだろう。もう寂しくて泣きながら眠る夜はこないし、旦那さまの安否を知りたいのにそれを知ることが怖くて怯えることもない。同じ城にいるのだから会おうと思えば昼もお姿を見ることはできるし仕事が終われば旦那さまは私の室に足を向ける。私は旦那さまを愛していて、旦那さまも私を愛してくださる。その何も憂うことはないのだ。

黙ってるうちに馬の駆ける振動に遠ざかっていた眠気が誘われて目を閉じた。頬にあたる風は冷たいけれど後ろに座る旦那さまの熱が暖かい。
眠気に従った首がかくんと垂れ、旦那さまの「ここで寝ますか、普通……」という心底呆れた声を背後に聞いた気がした。ああ、こんなにも近い。こんなにも愛しい。私は幸せなまま、眠りの淵におちた。

*前次#

TOP