北斗と悪い大人
残業を終えてスマホを見ると知り合いの男から「今夜9時」とだけメッセージが来ていた。まだ8時半前だから今出れば余裕で間に合うだろう。9時にもどるという意味なら夕飯を済ませてからでもいいかもしれない。伊集院とだけ表示されるようになってるそれにわかったと返信をしても結局何の返事も帰ってこなくて既読だけつけられた。
9時を少し回った頃に彼の家に着くと、電気も付いていないしダイニングやシンクにも食器はない。冷蔵庫の中はすっからかんとはいかないものの、充実してるとは言い難かった。
ぱっぱと服を脱いで洗えるものをネットに入れて洗濯機を回し、勝手にシャワーを浴び、私用に置かれているスウェットを勝手に着て、自分用のをポーチに取りに行くのも面倒で勝手に彼の保湿セットもバシャバシャ使い、五万くらいする風のいっぱい出るお高いヘアドライヤーをありがたく借りたところで寝室のドアを開けた。音もしなくて、真っ暗だった。
「北斗?」
やたら大きいベッドに長い足を投げ出して仰向けになっている姿を見て、まず息を確認して枕元を見た。死んでないみたいだ。そうしたら本人も気怠げに目を開けて名前ちゃん?とかすれた声で私を呼んだ。
「うん」
「早く、」
ぺろんとめくられたタオルケットに入り込むとすぐさま北斗の腕が背中に回った。つよく締め上げられてあつい胸におでこがごちんとぶつかった。北斗は深く息を吸って、吐いて、また吸ってをゆっくりと繰り返していた。
私たちはいわゆるソフレ、という関係だった。セックスフレンドじゃなくて、添い寝するフレンドでソフレ。北斗の気が向いた時にこうして呼び出されては添い寝して朝になったら起きて着替えてまた仕事に行ったり家に帰る。初めは添い寝だけ、同じ布団で寝るだけ、のはずが軽いスキンシップも含むのは想定外だったけど呼び出すときはいつもすごく疲れた顔をしているから黙っていいようにされている。
「仕事、そんな顔するならやめちゃえばいいんじゃない」
「本当にそう思ってる?」
思い切りバレていて私は不自然に息を飲み込んだ。その動作で動揺したのがまた北斗にバレて北斗は静かに笑った。やめてほしくないけど、本当に疲れ切った顔をしているから少しくらい唆してもいいかなと思ったのだ。
「はたちの顔じゃないよ。死にそうだよ」
「その言葉、名前ちゃんにそっくりそのまま返すよ」
「私はたちじゃないもん」
「四捨五入したら同じだよ」
「そしたら冬馬くんだってはたちだよ」
「冬馬は、まだ未成年だからね」
その通りなのでそうだね、と返したら北斗はまた静かに浅い呼吸を繰り返した。その通りだ。冬馬くんはまだ未成年で、私たちは大人だった。
「中学生の時とかって、20歳ってすごく大人に見えたよね」
「そうかな」
私の言わんとするところを察して北斗は曖昧にぼやかした。翔太くんからしたら、身近に北斗のような例がいるから昔の私たちほどそうは思っていないかもしれない。
「いざ越えてみると、思ってたのより大人って、全然しっかりしてないよねえ」
北斗は黙ってつま先の方のくちゃくちゃになったタオルケットを直した。その通りだと思ってるのか、それは私のようなちゃらんぽらんな人だけだと思ってるのかは分からなかった。かわりにぎゅうと抱きしめる力が強くなったので、その通りなのかうるさいから黙っていろという意思表示なのかは分からなかったけど息が詰まった。後頭部にため息の風を感じてくすぐったかった。浅い呼吸はすっかり止んでいた。
「大人って、こんなに弱くてもなれるんだね」
顔をあげてこんなにといいながらわざとらしい視線とともに言ってやると北斗は目を細めてそうだねと言った。毎度のことながら、本当にそう思ってるのかわかりづらい表情と声音だった。
しばらく私を湯たんぽがわりだか抱き枕の代わりにして寝返りも打たずにぼんやりしていた北斗は「寝てもいい?」と私に目線さえくれずに呟いた。私の方もうつらうつらし始めていたところだったので3秒くらいかかってようやく自分に向けられた言葉だと気付いて「聞かなくたって、好きにしたら」と返した。あまりろれつが回っていないのがぼやけた頭でもわかった。
「そうだね……そうだったね……」
寝るといった割に北斗が身を起こしたのがぼんやりし始めた視界の端に映った。いつも、こうだ。眠くてぼやけたのか欠伸をして溜まった涙でぼやけてるのかさえよくわからない。北斗がゆっくり手を伸ばすのを最後に、私は今日も眠るように気絶した。
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