冬馬と悪い大人
「君に、人生を賭けてもいい」
今でも覚えている、夜も明るい渋谷の街を背景にそう言ってのけた姿を。
「だから君の人生を私に賭けてほしい」
この人についていけば大丈夫とかそういうのじゃなくて、この人となら何かが変わるんじゃないかと思った。
「……俺は、今でもトップアイドルを一切諦めてねえ」
「知ってます」
思わず顔を見た。事務所を飛び出したばかり、1からのスタート、むしろゼロからのスタートを覚悟していたのにあんたは微塵も疑わず明日から仕事に行きましょうとでも言わんばかりの態度だった。
「知ってるから、君に声をかけたんです」
差し出された手をおずおずと握ると女とは思えない力強さで握手をされた。
「君の力で、君たちの力で。トップアイドルに返り咲きましょう」
アイドルになって握手なんて散々してきた。出された手をしっかり握って、目を見て言葉に答える。握られる側になって初めて気づいた。血の通った人間の、自信のある握手はこんなにも何かを与えるのだと。
「君を、信じています」
「……ああ」
初めて会った時にあんなにも嬉しかった信頼の言葉に後ろめたさを感じるようになったのはいつからだろう。
あんたは後々あの時の言葉は全部勧誘のためのカッコつけたものだったと恥じるように回想した。パタパタと独特の音を立ててキーボードを叩く姿はあの時見た強そうな大人らしさは全くなくて、残業代だけが唯一の楽しみだと語る普通の社会人だ。
「天ヶ瀬、そういえばCM出演した時の商品いっぱいもらったから好きなだけ持ち帰っていいよ」
「あっビンもあるじゃねえか!」
「出演した時の商品持って帰りなよ!それは原液でしょ!持ち帰りは水入ってる方にして!」
早速事務所に積まれた段ボールを1つ開けるとみっちりと詰め込まれたペットボトル、それからその上に1つだけ置かれた贈答用の箱。苗字は途端に目を釣り上げた。小学生の時はやたらと液を多めにして、濃く仕上げるのが父のいない幼い頃の夏休みの楽しみだった。今は甘すぎると余計に喉が渇くから液は適量でいいと思っている。
「そっちは事務所に人が来た時用だから置いといて!いいじゃん、ウォーターの方ならどこでもCM再現できるよ」
「ったく、わかったよ。これあんたも飲むか?」
「飲みたい!コップ取ってくるね」
水色の爽やかなパッケージをちらつかせると苗字はパソコンを素早くスリープ状態にして給湯室に去っていく。
以前に撮影した清涼飲料水のCMはテレビだけでなく、駅の大きな広告や女性向けの雑誌、インターネットなど様々なところに展開されていた。冬馬自身もテレビを見たり駅を利用する際に汗を垂らし淡く微笑む己と目があって妙な気持ちになったことが数回ある。
「……あんたのこと好きになったみたいだ」
事務所のやつらが手荒に扱うせいで4年目にしてくたびれてきたソファにもたれてCMで幾度となく繰り返した台詞を呟く。脳裏にまっすぐこちらを見てくる苗字の姿が浮かんだ。
夏のせいかもしれない、と台詞を続けると妙に気恥ずかしくなり大声を出したくなった。頭からつま先まで血が沸騰したみたいにぞわぞわとした妙な感覚がした。
「お待たせしました、氷3つで足りる?」
地味な色のマニキュアを塗った指先と、カランと鳴る氷の音にはっとして顔を上げる。
「お、おう」
「どうかした?顔真っ赤だよ」
熱中症かなあ、と苗字は呟いてエアコンの温度を一度下げた。たいしたことねえよ、とペットボトルを開封してそれぞれコップに注ぎ乾杯をしてから口をつけた。撮影中何度も飲んだ甘い味が喉を通る。
「……よかったよ、CM」
「?ありがとな」
「最寄りにあれの大型広告貼ってあるんだけどね、お姉さんも女子高生もみんなあれ見て冬馬だ!かっこいい!って言うの」
誇らしかったなあ。あまりにも嬉しそうな顔をするから俺はたまらなくなって、不自然に見えない程度に一気にコップの中身を煽った。
「あんたはどう思った?」
「わたし?」
聞いていいのか、と胸の内で声がした。俺はあんたから向けられた信頼が嬉しかった。いつのまにか俺の信頼が別のものに変わって、それを知らずに変わらずに信頼を寄せてくれる苗字に対して何度も後ろめたさを感じた。あのCMを撮った時、カメラを見ててもその先に間違いなくあんたを見ていた。
あんたのこと、好きになったみたいだ。あの台詞にはやたらと気持ちが入ってしまって、未だに自分で見るのが気恥ずかしい。苗字はまだ悩んでいる。地味な色の爪がコップの水滴を拭った。
「かっこよかった。世界一、かっこよかったよ」
あの時と同じ声のトーンだった。がつんと頭を殴られたみたいな衝撃でこいつの本心じゃないんだと知った。このトーンは、初めてあった時と同じ俺たちをアイドルにするための、トップアイドルになる夢を強調するためのものだと覚えていた。
「なら、次は世界に見てもらえるくらいでかい仕事取ってきてもらわねえと」
「うわー……じゃあ世界を見据えた冬馬くんに1つお知らせです」
あの時と同じ表情だと気付いて、自分の心臓の拍動が不自然にきこえた。にこやかな笑顔の中にまっすぐな視線。俺たちをアイドルとして見る目だった。
「人気アイドルが参加する巨大オーディションイベントへの参加打診がきてる。決勝は全国同時中継、ただし負けたら即敗退。ここで優勝したら間違いなくトップだよ……どうする?」
「……出るに決まってる!」
「だよね。後で2人にも話してスケジュール伝えて作戦立てよう」
全部、仕込まれたことなのかと疑いたくなるくらいだ。こうして俺たちをアイドルとして扱って、タイミングよく的確に奮い立ててはトップアイドルへの道を歩かせる。アイドルに自分の意思で歩いてるように思わせて、ちゃんと先回りしてレールを敷く。
もしかしたら、俺が苗字のことを信頼した末に好きになったことも、アイドルに敷いたレールを歩かせていると知られることも、全部苗字の予定通りなのかもしれない。
「冬馬くんのこと、信じてるから」
思考をやめさせたのは打って変わって甘い声だった。優しく溶ける瞳に反して膝の上の手はかたく握りしめていた。
「絶対に勝とうね」
その言葉だけで俺は心臓が縛り付けられる感覚に陥って、指の先までどうにもならなくなって、あんたから目が逸らせなくなる。黙って頷くと苗字は信じてるよと甘い声で繰り返した。
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