捨てた恋人
>>男性プロデューサーがいます
北斗、まだ帰って来てないのか。雑誌を読んでいた冬馬くんの声を聞いて俺は慌てて時計を見た。北斗が事務所を出て少し散歩してきますと言ってから1時間近く経っていた。なぜ気づかなかったのか窓の外は1時間前とは打って変わってたたきつけるような雨で、ちらりと傘立てに視線をやると北斗の大きい傘はまだそこにあった。
「傘、忘れて雨宿りしてるのかな」
「連絡も来てねえし……どっかで時間潰してるのかもな」
「うーん……息抜きがてら傘持って迎えに行ってくるよ。雨、弱まらなそうだし」
冬馬くんにそう告げて、北斗の大きい傘と自分用のすぐに盗まれて買い直す羽目になるビニール傘を引き抜いた。事務所を出たところの階段もじっとり濡れていた。
出た時からなんとなくやな予感がしていて、頼りないビニール傘をさして道の両脇の店にあの目立つ姿がいないか探して回った。たまに入ると言っていた喫茶店にも仕事の合間に3人を連れて行ったレストランにも姿はない。焦りが出てバシャバシャと水を跳ねながら走った。通りの向こうに黒いジャケットと、目立つ色の頭が見えた。
「北斗!」
傘は当然のようにさしておらず、ジャケットで雨を避けることも、屋根を求めて走ることもせずに北斗はただ呆然とスマホと何かもう1つ握りしめて道の端に立っていた。
「……プロデューサー」
「北斗!びしょ濡れじゃないか!」
ビニール傘をつかませ、北斗の馬鹿みたいにごつい傘を続けて開いた。これだけ濡れていたらもはや意味なんてないのかもしれないけど、とりあえずささせた。
「何やってるんだ、こんなとこで傘もささないで……」
「すみません」
北斗と傘を交換しようとしたら、あなたがこれを使ってくださいと止められてしまう。北斗の声が弱くて俺は何があったんだと北斗に尋ねた。北斗は困った顔で笑ってびしょ濡れのつま先で路面を蹴った。
「俺には誠実さが足りないんだそうです」
「は?」
「そう言って、怒られてしまいました。もしかしたら泣かせたかもしれない」
「……恋人か?」
「ええ、もしかしたら彼女の中ではもう元、かもしれないですが」
今更気づいたが、北斗の手元にあったのは先日の結婚式場PR撮影を大きく取り上げた雑誌だった。強く掴んだのか、表紙は折れ目がついて、湿気で大きくよれていた。これを巡って一悶着あったのだろうか。北斗の顔を見れば一目瞭然で彼女なし歴数年の俺は気まずくなった。仕事とわかっていても撮影で永遠の愛を囁いている恋人というものはきっと、いい気はしなかっただろう。北斗のインタビュー内容を思い返せば、余計に。恋愛感情で永遠に誰かを愛することは……。俺に向けられたその言葉を思い出して北斗の顔を見た。北斗は傷ついた顔をしていた。
「嘘でも永遠に愛すると言った方がよかったんでしょうか。でも、自信がないんです。俺はいつかまた、今度は彼女のことを諦めるのかもしれない」
北斗は顔を隠すみたいに俯いて、びしゃびしゃに濡れた毛先や顎からぼたぼたと雨だか何だかわからない水が落ちていった。ジャケットも重く濡れ、中のシャツもすっかり水を吸って体に張り付いていた。いつもならこんなところを見たらセクシーだなあとか若いくせに色気がとか思うのに、今はただただかわいそうだと思った。
「北斗、事務所に帰ろう」
「……」
「びしょ濡れじゃないか。早く乾かして着替えないと。な?北斗」
「……はい」
俺は北斗の肩をたたき、わざと早足で歩き出した。後ろからのろのろとついてくることをちらりと確認してため息をつきたくなった。北斗が不規則に息を吸うのがバケツをひっくり返したような勢いの雨の中で少しだけ聞こえた。
「傷つけたくなかったのに、」
傷つけたくなくて、実際北斗が傷ついてるんじゃあ意味ないだろ。お前は大事なアイドルなんだから。水が入った革靴がごぽごぽと間抜けな音を立てた。
「プロデューサー、1番幸せになるにはどうしたらよかったんでしょう」
北斗の吐息に消えそうな言葉に、見も知らぬ北斗の恋人を思い浮かべた。が、知らないので結局もやもやとした影で終わった。
「北斗が望むようにすればよかったんじゃないかな」
ふ、と北斗が息を吐く気配がして俺は慌てて振り返った。
「だから、俺、ダメだったんですね」
安っぽいビニール傘をさしたびしょ濡れの北斗が静かに呟いた。先日撮影したカットのどれよりも綺麗な顔をしていた。名前ちゃん、と小さく呟いた声は今まで聴いた中でいちばん甘かった。
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