海水浴にはまだ早い


海に行きたいの、とかわいい恋人が膝の上でごねるのだから断る選択肢などなかった。オフの日に車を出して、とっておきの人気のなくてきれいな海へ2人で向かう。俺の、とっておきというよりは古論のとっておきだが。

海の匂いがする、と車を降りた途端に上に着たものを脱ぎ捨てて走り出した恋人に呆れつつ事故に気をつけろよとその後ろ姿に声をかけたら「雨彦さんが来るまで、海入るの待ってる!」なんてかわいいことを言う。ビーチパラソルにレジャーシート。気温は高いが海水浴の時期には少し早いから砂浜ではしゃいでいるのは名前ひとりだった。全く元気なことだ。
「はあ、はあ……すごい、砂浜走るのって疲れるね」
「まああれだけはしゃぎまわれば疲れるだろうよ」

俺がパラソルを立てている間に名前は走り回るのに疲れ、息を荒げて膝に手をついた。水着でなんていう格好をしてる、とため息をつきたくなるが他に見る人もいないので黙ってペットボトルを渡してやるとありがとう、とそのままこぼしそうな勢いで中身を煽った。

今年はこれを着るの!と見せびらかしてきた水着は心配してたような布の少ないようなものとかじゃなくてひらひらふりふりしている肩紐のない上部分(肩口と胸の下のゴムで留まっているらしい)と街で履くには短すぎるが水着ならまあ、許容範囲だろうという丈のスカートだった。案外子供っぽいのを着るんだなとか言ったらぷりぷり怒るのは目に見えているので黙ってかわいいなと褒めておいた。

「雨彦さんも海入ろうよ。日焼け止めは塗ったんでしょ?」
「ああ、そうだな。少しくらいは……」
「やった!……ねえ、ところで私、よーし海まで競争だ!っていうのをやってみたいんだけど、雨彦さんが本気出したら絶対圧勝だから5割くらいで走ってもらってもいい?」
「……お前さんがやりたいっていうなら付き合うよ」
「本当に?じゃあ海まで競争ね!」
きらきらの笑顔を弾けさせて名前はスカートをひらひらさせながら海へと走っていった。足をもつれさせる名前を言われた通りちんたら追いかけていっても、足の長さの違いで海に着くまでに余裕で追いついてしまう。息を荒げる名前を追い越しざまに見下ろすと真っ赤な顔で眉を寄せていた。ああ、その顔は悪くないな、なんてやましいことを考えてると名前はいっそう息を荒げて最悪!と俺を罵った。名前のほっそりとした顎から汗が滴って、砂浜に消えた。

「5割で走ってねって言ったのに!」
「5割で走ったさ。鍛え方が足りないんじゃないか?」
全然追いかけっこできなかった、と名前がまだ遠い波打ち際を見やり、俺がわざと煽るような口ぶりで嘯くと子供みたいに悔しがった。口元が緩むのを押さえ込んで手を差し伸べてやるとじろりと睨まれて、それさえも面白がったつもりが口をついて出たのは悪かったよ、という情けない声だった。

「雨彦さんが鍛えすぎなの。周りのおじさんたち、そんな体力ないよ」
「アイドルは体力勝負だからな」
おじさんという言葉にはあえて目をつぶってそう言えば名前はふうんと生返事をして俺の手を取りまた波打ち際を目指した。じっとりとかいた汗が名前の肌を濡らし、玉を結んではぴったりはりついた水着の隙間に消えていった。
「何みてるの」
「……」
えっち、と小さな声で咎められたがそんなの見るに決まってる、と心の中で開き直った。名前は大学の友達と夏は3回プールに行くだのなんだの言っていたが、頼むからほかの男の前でそういうことはよしてくれと思う。可愛くて肝心なところで頭の弱いお前なんてすぐに食われてしまう、という俺の心配をよそに名前はつまらなそうに繋いだ俺の手を揉んだ。頼むからそういうことをほかの男に、と続けたくなったが名前がこれだからおじさんは〜とでも言いたげな顔をしていたので呆れた顔をするにとどまった。

「じゃあ雨彦さんがプールも連れてってよ。私あれ行きたい。あのナガシマってやつ」
「芋洗いでいいなら、俺の帰省のついでにいくらでも連れてってやるよ」
「ほんとに?私ウォータースライダーも10回は乗るよ」
「その前にきっとお前さんが列に飽きるよ」
「ええ、そんなに混むの」
「やめとくか?」
名前はちょっと躊躇ってからうん、と大人しく頷いた。もう少し粘ると思っていたから意外で片眉をあげると、名前は「ナガシマより楽しいところ連れてってくれる予定でしょ?」と期待するみたいに俺を見上げた。心臓のぐらつく音が聞こえたような気がした。

「……8月なんてどこも暑くて混んでるだろうよ」
「えーっ結局クーラーの効いた部屋でゴロゴロする未来が見えるんですけど」
「冷えた畳でだらだらして昼に素麺食べてまたごろごろして腹が減ったらスイカ切って、夜はビールに枝豆つけるのが夏の楽しみだからな」
「おじさんじゃん!それに素麺は茹でる人はめちゃくちゃ暑いんですけど!」
「わかった、わかった。俺が茹でとくからそう怒りなさんな」
「もう!」
拗ねた名前は絶対連れてってほしいところを羅列し始めた。水族館、プラネタリウム、夏祭りと花火大会、デパートの催事、ひまわりの迷路と続々とあげられるそれらはまるで小学生の夏休みみたいなラインナップだったから笑ってしまう。小学生に振り回される周りの父親たちに混じって名前に手を引かれる自分の姿が見えるようだ。

「楽しみだなあ、雨彦さんとのお出かけ」
そのくせそう言って笑う顔だけはちゃんと年相応の女の顔をしている。また顎から首、鎖骨を伝って消えていく汗に視線が奪われた。こういうところばかり大人ぶってて全く嫌になるな。

/Pon De Beach


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