素晴らしき日々
いらっしゃいませ!ご来店を告げるベルを聞いて入り口を振り返ると同時に心臓が止まった。顔もぎこちなくなってるかもしれない。こんにちは!入り口の咲ちゃんに笑顔で挨拶するお客様。俺にも挨拶をしようとする笑顔からそっと顔を背けて席に案内した。大事なお客様なのに、俺はこの人のことがあまり得意じゃなかった。
「ご来店ありがとうございます。本日のケーキは……」
咲ちゃんオーダー行ってくれないかなと思ったけど咲ちゃんは他のお客様に新作スイーツを運んでいて、神谷さんも紅茶を選んでいるのか姿が見えない。重苦しいため息を堪えて心臓がどきどきするくらいすてきな本日のケーキを紹介する。清潔なテーブルクロスをかけた席では例のお客様は目をキラキラさせてケースの中のケーキを見つめていた。このお客様は名前さんという。
「それをいただこうかな。紅茶は……それと合うものをいただけたら」
「オーナーに伝えておきますね」
神谷さんの名前を出した途端に名前さんの顔がぱあっと華やぐ。この人がケーキも好きでこのお店も好きで、紅茶も好きできてくれているのは知ってる。でも、多分彼女がこのお店に来る一番の理由はきっと我らがリーダー、神谷さんだと思う。荘一郎さんのこんなにステキな極上のケーキがおまけ扱いだなんて、なんだか腹ただしい。神谷さん当然お客様の名前さんに接する態度は優しく、それで名前さんは余計に……ああ本当に嫌だなあ。こんな時は一刻も早く荘一郎さんの美味しいケーキを補充したい。
「荘一郎さん、甘夏フロマージュひとつお願いします!神谷さん、いつものお客様が紅茶の相談を……」
俺のオーダーに荘一郎さんは手で丸を作り、冷蔵室のドアを開けた。フロアの壁に並べる缶を選んでいた神谷さんは甘夏?と俺に再度確認をしてから紅茶のセットに向かう。
「ロール、ここ下がってるよ。ケーキ足りてない?」
お皿を下げにきた咲ちゃんにもここ、と口の端を指して心配されてしまう。担当場所を代わってとも言いづらくて言い淀むと、荘一郎さんがこれ出してきたら崩れてしまった分で悪いですけど同じの食べて休憩しましょうかと綺麗にお皿に乗せられた本日のおすすめケーキ、甘夏のフロマージュを差し出してくれる。芸術作品並みのこれは名前さんの分。荘一郎さんの新作!焼きたてという言葉の次くらいに好きな荘一郎さんの新作の言葉を聞いて俄然やる気が出た。お皿を手にフロアへ歩き出す。戦場さながらのランチのピークタイムを終えて休憩中のアスランさんも心配そうな顔をしている。よし俺もケーキはまだだけど元気出さなきゃ!
「今日は暑かったですね。よろしければアイスでお淹れしても?」
「わあ、嬉しいです!」
荘一郎さんの作るふわふわのシフォンケーキくらいに膨らんだ気持ちも、フロアに出た途端に萎んでしまう。名前さんのテーブルでは神谷さんが紅茶の用意をしていた。背の高いグラスに氷が半分近く入っているそれは、これからの季節大活躍するアイスティーのセット。
「すみません、もうすこしお待ちいただきますね」
アイスティーは氷が溶けるから紅茶も濃いめに入れる必要がある。神谷さんと名前さんはあのケーキが美味しそうだとかテーブルの花がすてきだとかそんな話をしている。嫌だなあ。でもせっかくの冷やしたお皿がぬるくなってしまうからと言い聞かせてテーブルにケーキを送った。
「失礼いたします、ご注文のお品をお持ちいたしました」
「すてき!ありがとうございます」
「このケーキはうちのウェイターも自信を持っておすすめしてるんですよ」
ね、巻緒。神谷さんはぱちんとウインクをしてそれから飛沫が名前さんにかからないようクロスを広げてからゆっくり紅茶をグラスに注いだ。
「本当?オーナーさんからケーキのことならなんでも卯月さんに、と聞いていたんですけど今日のこれは本当に美味しそうですものね」
「は、はい……」
名前さんのきらきらした笑顔が向けられて言葉に詰まる。ぎこちなさの隠しきれない俺を置き去りに紅茶を注ぎ終えた神谷さんはケーキ談義で盛り上がれるお客様と出会えてよかったねとあっさりティーセットを片付けに向かってしまう。そんな!俺はこの後ケーキが待ってるのに!
「卯月さん、いつも熱心にケースを磨いてるでしょう?」
「それは、ケーキが曇って見えるのが許せなくて…」
「初めてお店に来た時に、本当に真剣に磨いていたからとても気になってたんですよ。やっぱりケーキのことを大好きな方は違いますね」
「名前さんも、ケーキ、好きでしょう?」
「もちろん。特にこちらのものは……いくつだって食べられちゃう気がします」
「そ、そうですよね!」
って喋りすぎてすみません、どうぞ召し上がってください。とケーキを示すと名前さんはではお言葉に甘えて。と綺麗に練られたクリームチーズより白い指先でこれ以上なく綺麗に切り取られた1ピースにフォークを下ろした。ここで離れようとケーキに視線を奪われつつ横に一歩ずれると名前さんのラズベリーよりも赤い唇が開く。
「ああ、口に入れる前なのにおいしいってわかるわ」
名前さんが甘夏のふんだんにあしらわれた一口を前に感嘆のため息を漏らした。うっとりとした声にどき、と心臓が軋み俺は慌てて服の上から胸を押さえた。ケーキ好きな人に悪い人はいない、他のお客様が喜んでくれる姿を見てもこんな気持ちにはならないのに、どうしてだろう。どうしてこの人だけは違うんだろう。ようやく気づいたけどほんとうはこの人のことが嫌いじゃないんだ。それなのに。
「おいしい!チーズの酸味と甘夏の組み合わせが最高……!!」
ケーキを口に運んだ名前さんの表情は今日1番の輝きを見せた。その顔を見るとなんだか力が抜けてしまうし笑いそうになる。ああ、やっぱりケーキの力って偉大だなあ。
/in fact
*前次#TOP