寄せては返す波の眠り
卒論が出た。怒涛の実験三昧を経て、結果のあるがままを書き、院生の先輩方に一緒に考察を考えていただき、印刷し不備を確かめようやく卒論が出た。
ある他学部友達は卒論がないゼミに入ったというし、別の友達はそんなんでいいん!?と絶叫したくなるような本と先行研究の切り貼りでさっさと卒論を出したという。なら難関の医学部医学科はと聞けば薫くんは学生当時、国試やら実習やら卒試やらをこなし卒論は書かずに卒業したという。その分医師になってからの短い間に研究アンド論文三昧だったらしく同情的な顔をして陣中見舞いを差し入れてくれた。リッチな名店の抹茶と白玉とあんこのゼリーだった。年の瀬に貪り食べたけど美味しかったな。
結局、卒論困難仲間は心理学科の友達とカビの培養と大腸菌の遺伝子組み換えに精を出す同回たち、それから毎夜ついたままの理学部棟の誰かしかいなかった。心理の彼女が夏から繰り返している終着点のわからない思考実験は先日やっと終わり今はそのまとめに頭をかかえている。が、私は一足先に終わった!口頭試問のことは今は忘れたい!!
それで、北斗が久しぶりにラインをよこしたのは今朝のことだった。昨日は卒論を出して各所にお礼を言って、陣中見舞いをくれた薫くんに無事終わりましたと連絡して、おいしいご飯をたらふく食べさせてもらった。お酒も解禁ししこたま飲ませてもらって帰宅即爆睡したので北斗への連絡をすっかり忘れて、飲酒翌日の倦怠感とともに起床して通知に慌てた。
「元気そうなら遊びに行ってもいいかな?」
メッセージを挟むスタンプのセレクトといい、たぶんこれは嫌味でもなんでもなく、卒論修羅場期間は禁酒禁北斗を徹底すると北斗にも薫くんにも宣言していたので薫くんから連絡がいったのだと思う。どうせ暇しているから様子でも見に行ってやってくれと。私は慌てて無事卒論が受理されたことの報告と今から掃除するから部屋が汚いことを断って久しぶりに夜はごはんでも食べに行きましょうと返信した。北斗は割とすぐに来た。
「顔!どうしたの」
「はー寒かった」
車置いてきちゃったから今日電車だったんだよねと北斗が息をついた。鼻の頭が赤くて駅からここまで来るだけでそんなになるくらい寒かったかと首を傾げた。
「今日気温低かったっけ」
「昨日の方が寒かったんじゃないかな」
「?」
お土産、買ってきたからそれでかもと柔らかく笑ってパン屋さんの袋をくれた。
「これ!」
「食べたいかなと思って寄ってみたんだ」
「えっ並んでくれたの!」
「うん」
「嬉しい」
「そうだろうと思った」
前に北斗がくれたいいコーヒーを準備してる間に北斗は洗面所に消えた。私がもたもたコーヒーの準備をする間に北斗はオーブントースターでパンをあっためてまたリビングに消えた。
「大変だったみたいだね」
「……そうなの?」
気になっているしめじとベーコンのパイにするか、ほうれんそうのキッシュで野菜を取るべきか、真剣に選んでいたので北斗に呆れられた。北斗が黙って半分に切った。
「修羅場だったんじゃないの?」
「あ、それね……喉元を過ぎたので大変だったはずだけど何が大変だったかもう忘れた」
「適当だなあ」
「北斗もあるでしょ、そういう時」
「あるよ。全部大変だったから、何から話せばいいかわからないこと」
「重いなあ」
「結構人生経験積んでるからね」
キッシュが二口で北斗の口に消えてコーヒーを挟み、コップを下ろした。私もあったかいもの食べたら、なんだか眠くなってきた。
「卒論書けたら暇なの?」
「……試問がある」
「しもん?」
「教授たちにこの先行研究と比較した優位性だとか手技の未熟さをねちねち突かれるの……」
「ああ、大変なんだね」
途端に憂鬱になった私に北斗は苦笑して、私の目にかかる前髪をよけた。
「試問が終わったら暇?」
「うん……晴れて暇」
「なら旅行に行こうよ。卒業旅行」
「卒業旅行?」
「どこがいい?パスポート切れてるって言ってたよね?海外に行くならパスポート更新しないとだけど、国内ならどこがいいかな……名前、前に冬の牧場に行きたいって言ってたけど、温泉も行きたいなら神戸とか……北海道もいいな」
「うん、うん……」
ずるずると重力に負ける体を北斗は膝で迎え入れてタブレットを操作し始めた。
「ほ、北斗は仕事どうするの」
「もちろんおやすみもらうよ。俺が卒業するときは名前も俺も行ってる暇があるかわからないから行ける時に行っておきたくない?」
「い、行っておきたいけど……」
「じゃあ決まり。直前だからできるだけ早く決めておきたいんだけど……」
北斗はタブレットでいくつかの候補地を探して、私が大学の友達と行く旅行の行き先と日程が被らないように選択肢を絞っていく。それが決まれば宿も食事も観光予定も眠気とたたかううちにどんどん詰められて、私はついていけないままスケジュール帳を開かれ流されるままに予定を埋めてしまった。ペンも持てないまま北斗の字でスケジュール帳に旅行と書き込まれて、誰とどこへとも書いていないけどこの字を見れば絶対にわかるなと思った。
「……全部やってもらっちゃったあ……」
「卒論終わった直後だし、やるなら今かなと思って」
北斗は、卒論終わったばっかりで呆然としている今なら流されてくれる、と嬉しそうに自分の予定を記録した。たしかに私は旅行の計画とかいざ立てるとなるとめんどくさく感じるタイプだけども。言い返そうにもあまりに眠たくてうん、うんと唸るように返事をすると北斗の大きい手が視界をよぎる。撫でられてるとわかるのにもまた時間がかかった。ひとつき以上もの間会っていなかったから寝ていいよの声はとっても甘くて優しかったけど、眠気に抗って身をよじった。まだ、起きていたい。
「お疲れさま。起きたら、またね」
額に触れてすぐ離れていく感触にも反応できずに言われるままに大人しく目を閉じた。そういえば付き合ってそこそこ経つのに2人で旅行にも行ったことがなかった、それにこのひとつき連絡も入れなかったこともちゃんと謝れていない、言いたいことはたくさんあるのに優しく触れるてのひらは全部黙らせてしまう。甘やかされてばかりだ、それなのにお腹もいっぱいになり久しぶりに会えて安心したのかため息さえも出なかった。
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