お化粧SS
「嫌!絶対に嫌!」
私の必死の拒否にキリオはしょんぼりしてたちまち小さくなってしまった。かわいそうに、水をかけたわたあめなみにキリオの元気がしぼむ。でも嫌だ。無理、キリオが私にマスカラを塗るなんて絶対に嫌。勢い余るか何かを受信するかでブラシが目に突き刺さる可能性を否定できないから嫌。
「前はぱふぱふしてたでしょ。そっちでいいじゃん」
「名前ちゃんが楽しそうに塗ってるの見たらワガハイだってやってみたい!」
キリオはばんばん私の膝を叩いて毛を逆立て抗議した。キリオの膝下には私の集めたマスカラがいくつか落ちてる。きれいにセパレートになるやつ、よく伸びるやつ、ネイビーのやつ、ブラウンのやつ、黒……
「絶対刺さない?」
「刺さない!」
「なんか受信してもテンション上がらない?」
「あげない!でにゃんす!」
仕方ないなあというふうにもったいつけてため息をつくとキリオはたちまち元気になってウキウキしながらひとつひとつ取り上げてこれは?これは?とどのマスカラを塗るのか私に提案してきた。ふんふん鼻歌を歌いながら私にビューラーを手渡し、私は塗りやすいよう念入りにまつげを持ち上げた。
「名前ちゃん、これを塗るからさあさあ上の方を見るでにゃんすよ〜」
キリオがぐねぐねに見えるくらい勢いよくマスカラを揺らし、くるくるっと蓋を回した。クリニークのそんなに高くないのに驚くほど伸びるやつだ。
「それでは失礼して……」
ピントが合わなくてキリオがどんな顔をしてるかはよく見えなかった。右目から丁寧にブラシを当てられてゆっくり動かして静かに離れる。キリオのほう、という満足げなため息の後に塗りきれなかった目の端にも丁寧に塗り直される。
「楽しい?」
「それはもう!」
キリオはにこにこして左目に取り掛かった。
「名前ちゃんの目を覗き込めば見えるものは、まさに摩訶不思議!ワガハイ楽しくて仕方ないでにゃんすよ」
キリオは全くたまらないと言わんばかりにまた深いため息をついて目尻のまつげもしっかり伸ばした。
「私の目の色、別に面白くないでしょ。本当に真っ黒なんだから」
キリオは明るくてきれいな色の目をしてるけど、私の方は黒すぎて青く見えるくらいには黒い。
「いやいやつまらないなんてことは!名前ちゃんの目は覗けば宇宙が見えてきらきら〜の夜空にぴかぴか〜っと流れ星が光り……神秘でにゃんす」
キリオはくるくるっと蓋を閉めてニコッと笑って私にそれを返した。
「宇宙ねえ」
真っ黒のそこに星が映るというのなら、宇宙遊泳する猫の姿もそこに映るんじゃなかろうか。さあ名前ちゃんご覧あれ!キリオの差し出した手鏡を覗き込めば真っ黒の目を囲む長いまつげが確認できた。上手に塗ってくれたなあ。
/キリオ 真っ黒のマスカラ
ため息をついてリップを塗り直すと翔真くんから名前、せめて鏡を見て塗り直しなよと呆れた声をかけられた。
「筒のところが金色だからそれ見て塗ればだいたいはみ出ないよ」
「全く、ものぐさもほどほどにしなね」
翔真くんはそれからため息なんてついてどうしたんだい?と優しく尋ねた。
「えっとね今年の流行りについて不満がある」
「ん?」
「シアーな口紅流行ってるよね?たぶん」
「ん〜まあグラデーションもしばらく続いてるねえ」
「あんなん塗ったら血色死んでる私みたいな人は死人だよ!リビングデッド!普段から口紅ないと顔色が死ぬのに!早く流行終わってほしい!!」
「はは、色が白くても悩みもんだね」
私の恨みつらみを聞いて翔真くんは苦笑し、どんなに食べても色が落ちない上にコスパもバッチリな私のリップを取り上げて蛍光灯に当てた。柔らかいピンクのかかったゴールドがきれい。
「はやりなんて無視して好きな色塗ったらいいのさ。名前が一番似合う色が名前のはやり。好きな色纏って生きてくのが一番だよ」
翔真くんはそう言って私の顔に手を添えて薬指でちょいと唇の端に触った。
「ちょっと翔真くん!」
「あはは、盛大に口紅はみ出してる子がなんか言ってるねえ」
「げっ!ほんとに?」
たしかに翔真くんの左の薬指にちょっと色が付いている。それを拭わずに適当に口に塗りつけるのがなんだかいたたまれなくて目線をそらしたら「肝心なとこで名前はいっつも抜けてるんだから」とど突かれた。ど突いた割に私を見る目は優しい。目を伏せて適当に塗りつける姿にベッドの中の色っぽい姿を思い出したなんて絶対に言えない。翔真くんにはバレてるみたいで名前の夏服見たら今日はさっさと帰ろうかとまた苦笑した。
/翔真 リップティント
ついに!と九郎さんが歓喜の声をあげたので私は慌てて漫画を読んでいたスマホを置いて振り返る。九郎さんはおうちだというのにきっちり正座をしていて背筋が伸びていた。
「どうしたの?」
「見てください、これを」
九郎さんが見せてくれたのは和菓子をモチーフにしたカラーリングのコスメが近々老舗の化粧品メーカーから出るという記事だった。色も落ち着いていてかわいいし名前が九郎さんには馴染み深い和菓子ともあって心がくすぐられた。かわいい、と口にすればそうでしょう!と満足そうに九郎さんが頷く。
「私が求めていたのはこれです!」
「そうだね、若い女の子ももちろん九郎さんのファンの人たちもきっと喜んで即完売の未来が見えるよ」
「ふふ、名前には必ず私が一揃え用意しますね」
「また?もう、九郎さんが楽しいならいいんだけど……無理しなくていいんですよ」
「楽しくて選んでますからどうぞお気になさらず」
九郎さんはつんとして、手元の一筆箋に発売日や名前、メーカーや取り扱いのあるお店を書き留めた。スマホを持ってるはずなのに変にアナログなところが九郎さんらしい。
前にお化粧品の仕事をした九郎さんはその後私に熊野の化粧筆を買ってきた。私たちが学んだその素晴らしさを名前にも感じていただきたいのですなんて目をキラキラさせて言うのだから断れず、挙句その年のクリスマスはどこで覚えてきたのか即完売だったクリスマスコフレをにこにこしながらくれた。ネットでは買えなかったので当日に並び整理券をもらったのだと聞き、私は女性に混じって真剣な表情で並ぶ九郎さんを想像して頭痛がした。美形だから違和感なく並んだことだろう。それから気に入ったものがあれば九郎さんはどの店のものでもこまごまと色々買い集めた(収集癖が強いわけではないと思うのだけれど良いものだと思えば九郎さんは惜しみなくお金を使う)。初めてデパートのコスメ売り場に行った時は一通り見て回り(てっきりディオールとかシャネルの人気どころを眺めただけかと思っていたら、アナスイだとかルブタンみたいな黒くて尖ったブランドもシュウウエムラとかmacみたいなのとかも果てはジルスチュアートまで値段も傾向も問わずくまなく見て回ったと聞いて私はすぐにその様子が想像できた。興味深そうに真剣に見て回る九郎さんの姿が)、その勉強熱心なところはさすがとしか言いようがない。そして念願の老舗の出す和モチーフ、しかも馴染み深い和菓子ときては九郎さんの瞳の輝きも増すというものだ。
「きっとこの水色は、名前の爪にのせたら綺麗でしょうね」
九郎さんがガラスの器に注いだ冷茶を手にして微笑む。私も九郎さんのいれてくれたそれをありがたくいただき、何色だって九郎さんの方が似合いますと言えばそれでは意味がないでしょうと窘められてしまった。
/九郎 和菓子イメージのコスメ
目が覚め、隣を見るとタケルくんはすうすうと寝息を立てていた。もう8時、決して早い時間ではないのに私が先に起きるなんて珍しい。疲れてるのかな。それなのに寝顔までかっこよくて、いつもより可愛く見えるからずるい。起こさないようにベッドからそっと出ると、タケルくんはめずらしくタオルケットを蹴り上げ、くたくたの抱き枕に巻きついて寝ていた。パジャマにしてる短いジャージが上まで捲れ上がっていたので黙って下ろしてタオルケットをかけ直した。
着替えてリビングでメイクをしてたらタケルくんが寝ぼけ眼で寝室から出てきた。ちゃんと着替えてきたけど靴下の履き具合が左右で違う。靴を履く時に直すだろうしまあいいか。
「おはよう」
「ああ……」
ぼんやりしながら私の向かいにすわり、半分閉じたような目で多分よく見えてないだろうに私のほうを見ている。珍しいな、早く寝て朝から早起きしてランニングしてる日の方が多いのに昨日遅くまで起きてたからかな。悪いことしたなあ。ぐう、とタケルくんのおなかが鳴った。今日は近くのカフェで遅めのモーニングする約束だったから顔を洗って着替えてきたら?と提案すれば首だけで頷いて洗面所に消えていった。寝返りをたくさんうって後頭部を枕に擦り付けまくったからか後ろだけ派手な寝癖がついていた。
私の方は下地にかるくフェイスパウダーをたたき、眉を書きアイメイクも軽めの簡単メイクにしたのですぐに終わった。適当に寝癖を直し、顔を洗ったからか少ししゃんとしたタケルくんが戻ってくる。
「タケルくん、ご飯行こう」
「それ、何のにおいだ?かいだことがない」
「今日は香水も何もしてないけど……」
タケルくんが不思議な顔をしている。何もつけてないし、臭かったかなあと鼻をすんすん鳴らした。私がどの靴を履こうかなあと悩んでいるうちにタケルくんは昨日履いてきたスニーカーの紐を結び終え、私がようやく選んだ靴を床に下ろせばドアノブに手をかけた。
「……多分化粧品の匂いだ」
「くさい?」
「いや、なんだろう……」
パンプスにつま先を突っ込みながらタケルくんの顔を伺うとタケルくんは考え込むような表情を見せ、ドアを開けた。9時前だから空は清々しいほど青く、風が気持ちいい。
「なんだか懐かしい匂いだと思って……変なこと言ったか?」
私の顔を見て、タケルくんが眉を寄せた。映画のワンシーンみたいにかっこよかったので言葉に詰まった。
「ううん、私も化粧品の匂い嗅ぐとそう思うからびっくりした」
そうか、とタケルくんが言って部屋の外に出る。それでどこにいくんだ、と聞かれ私は慌てて地図アプリを起動した。
/タケル フェイスパウダー
今家にいるか?と一希くんが急に電話をしてきた。いるよといったらこれから行くから待っててくれと言われ金曜ロードショーを見ながら待っていたら一希くんはすぐに来た。それで、玄関先で小さめの白い紙袋を渡された。思い出すのはあのお高い青い化粧瓶。
「ら、ランコムじゃん!」
「嫌いか?」
「えっ手が出ないだけですごく好き!」
「なら良かった。もらってくれ」
一希くんは黒い薄手のカーディガンを羽織り金のふちの細いメガネ、中は白いTシャツに黒い細身のパンツを合わせるという変装ファッションだった。お顔を隠すマスクは必需品で黒いのをするとすぐばれる、とかいって花粉症予防みたいに白いやつをいつもしている。ぱっと見いつもの一希くんとは服の系統が違うように見えるけど何を参考にしてるんだろう。前にいつもの一希くんと系統違うねって言ったらだから変装なんだって返された。なるほど。
中身の黒い筒には見覚えがある。トップにあしらわれた金のバラ、一番人気の口紅だ。開けてみると、口紅の赤はみずみずしく派手すぎず、わたしでも使えそう。大人っぽくておしゃれな服を着た時につけよう。一希くんにもよく見てもらいたくて手渡すとくるっと回して玄関のオレンジ色の明かりに翳し、慎重に蓋を閉めた。
「これどこで買ってくれたの?」
「帰りに伊勢丹を突っ切ろうとしたら化粧品のフロアで見かけたんだ。似合うだろうと思って……」
一希くんが名入れもあったんだがあまり好きな感じじゃなかったから入れなかったよと言ってわたしに返す。たしかにこの綺麗な黒い体に無遠慮な文字が入るのはいただけない。
「前のは名入れしてくれたもんね。ありがとう、すごく気に入っちゃった」
前にイブサンローランのめちゃくちゃかわいいリップをネットで頼んだ時は一緒に見てた一希くんが(私1人では迷いすぎて永遠にどの色か決まらなかったため)名入れのサービスに気づいてそれを提案してくれた。私はその文字を中学校英語の記憶のままに親愛なる名前へ、と思ったのだけど一希くんはちょっと微妙な顔をしてもう少し恋人らしい意味で受け取ってくれないかと言ったのが懐かしい。恥ずかしかったけど嬉しかった。
「明日一限からか?」
「ううん。午後に研究室に資料もらいに行くだけの予定。一希くんは?」
「夕方から」
「そっか……」
帰らないでほしいなあと思ったけど言い出し難く、一希くんも同じ気持ちだったらいいのにな。せっかく一希くんが来てくれてこんなにすてきなプレゼントをくれたのに玄関で話しただけでお別れしなくちゃなのは寂しい。
「あの、一希くん、今日は……」
ぎゅうと抱きしめられて言葉が途切れた。中途半端に持ち上げた両手の行き先に困り、おそるおそる背中に手を回し返す。
「帰らない」
「うん」
「そんなに可愛い名前を見たら、帰れないよ」
「えっ!」
どんな顔をしてたんだろう。一希くんは外したメガネをそっと玄関の鍵を置いてるスペースにのせ、帰りに忘れそうだとちょっと笑った。
汐さんが長い遠征から帰って来て久しぶりにデートした。土産だと渡されたたくさんのお菓子に目を輝かせる。郁には別で渡してあるから強請られても渡すなと疲れた顔でそんなことを言う。菓子の中に1つ、黒い漆ぬり入れ物が入っていた。フタを開けるとほんのりピンク色の固いクリームが入っている。
「リップクリームですか?」
「?練り香水だが」
「……?香水なんですか」
「知らんのか?これだから最近の若いもんは……」
そんなこと言って、一歳しか変わらないじゃないですか。不満を口にすると余計に日本の文化はどうたらと面倒なことになりそうなので黙っておいた。
「首筋や手首に薄く塗り広げで使うものだ。足首や毛先につけてもいいかもしれん。あまり強い匂いはしないから名前でもつけられるだろう」
「おしゃれですね」
漆に金の絵がかかれていて見るからに高級品だ。今回は京都まで剣道部の遠征に行って来たそうで結果を聞けば圧倒的な全戦全勝。あの超強豪の剣道部で副部長を務めるほどの天才的な剣の腕なのは知っていたけど、こんなに優しげな風貌の人が(ついでに言うと背もあまり高くない)ばったばったと切り倒すのはなんだか不思議だ。相手の部活の稽古に参加し百人斬りを遂げたそうだが見に行きたくてもスライヴセントラルの出入りはそこそこに厳しいために汐さんが本領発揮しているところをあまり見れないのは残念。剣道部のマネージャーにでもなれば部活動ポイントの恩恵も受けられていいのだろうが、超強豪だけあって相当仕事もきつそうだ。
「これ桜のにおいなんですね」
「ああ、そうだ咲いている桜の方も見事だったぞ。葉桜も多かったが、山桜が見事に咲いていてな……」
汐さんの機械音痴は知っているので写真は期待してないし美しい顔に笑みを浮かべる姿が見れたので満足した。山桜はちょっとわからないけど一面の桜ならこの第7学区でも見られたし。桜餅のにおいだなあと思ったけどそんなことを言えばまたくどくどと情緒うんぬんについてお説教をくらうので黙っていた。
「本当にいいにおい。汐さんが歌っていたのを思い出します」
「ああ、あれは……」
あれは楽しかったな。もちろんほかの皆も楽しそうにしていて、皆がそれぞれ本気の歌で競い合って……汐さんが懐かしむような目をした。近頃はあまり歌の練習をしているところを見ないけど、汐さんは剣道部にそれから自ら立ち上げた日本文化研究部に忙しくしているからこれくらいが忙しすぎなくてデートしてくれる余裕もあったりしてちょうどいいのかもしれない。でも。
「また、聴きたいです」
「そうか?名前がそう言うのならまた考えてみよう。日研の3人でコンテストに出る夢も叶っていないわけだしな」
手に取っていないのに練り香水の匂いはふんわりと香り、思い出されるのはやはり昔のコンテストの光景だった。そうだ、新木くんに頼めば山桜や遠征中の写真を送ってもらえるかもしれない。
「次のデートの時は、これつけてきますね」
汐さんはそうしてくれ、良いものは使ってこそだと日本文化の探求者らしくしっかりと頷いた。
/汐 練り香水
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