花より


レッスンを終え極力時間をかけずにシャワーを浴びたところでスマホを見ると名前さんから講義終わったので今から行きますと3分前にメッセージが入っていた。慌てて服を着て、電車に乗った頃には着いたので入って待ってますとメッセージが続いて頭を抱えたくなる。まだ梅雨も来ていないというのにこの炎天下、彼女を待たせぬようにとレッスン前には分かっていたのにいざ始まると相棒に負けじと張り切ってしまい時間も忘れ、気づいた時にはスタジオを出る予定の時間だった。

毎週木曜、名前さんは午前で大学が終わるので俺がテスト休みで仕事の入っていないときは午前にレッスンだとか事務所による用事を入れて昼から出かけるのが定番になった。「玄武くん、こっちこっち!」小さい白い花の挿してある店の入り口を抜けて奥まったところのテーブルから名前さんが俺を呼んだ。遅れたことを謝れば名前さんも私も帰りに教授に呼び止められてあの後ちょっと学校出るの遅くなったからさっき来たのと言った。

汗臭いからとシャワーを浴びたのに駅を出てから少し走ったから意味がないかもしれない。名前さんはきょう、暑いねと俺の心配をよそににこにこしている。名前さんが髪を流そうと首をかしげた拍子に花みたいなあまくてさわやかな香りが立ちのぼり、半透明のガラスでできた花の形のイヤリングがきらりと光った。

日替わりランチのパスタとリゾットの盛り合わせをそれぞれ頼んでそれを待つ間に軽いサラダとスープの前菜が出てきて名前さんの今日講義がどうだったとか朱雀がどうしたとかいう他愛のない話をする。話題は日常に流される些細なことばかりだが、名前さんが相槌を打ちながら聞いてくれて楽しそうに話すものだから、俺はたまに来る木曜日の休みを結構気に入っていた。

サラダを口に運んだ名前さんがああっと悲しげな声を出したのでハッとして顔を上げると、名前さんはからし菜食べちゃった……と眉を下げた。名前さんがわさびもマスタードも癖の強い匂いのものも食べられない子供舌の持ち主なのは知っていたので大きな白い皿を名前さんの方に寄せれば名前さんは眉を寄せたままに「ごめん……ごめんね……私の方が大人なのに……」と呻きながらフォークとスプーンで器用にからし菜だけを俺の皿に移した。それから苦手な食べ物の話になり、名前さんの方が圧倒的に食べられないものが多くて名前さんが「好き嫌いないのえらいね」と言うから柄にもなく照れてしまう。肉の脂身、カリフラワー(でもロマネスコならブロッコリーの味がするから食べられるのだと言う)、大きく切ったねぎ、ピーマン、練り物、牡蠣と次々に挙げられるそれを覚えておこうと脳に書きとめると名前さんは「覚えておかなくていいから……」と恥ずかしそうに俺の腕を軽くたたいた。

名前さんの嫌いなものも好きなものも全部知りたいと正直にいえば名前さんは「そんなこと、私だって玄武くんの好きなものも嫌いなものも全然知らないもん……」と口を尖らせた。可愛い、才色兼備、解語之花、花で繋げて天香国色、それからまさにふさわしいのは純情可憐、自分の例えにも使われることのある氷の一字も入った一片冰心も捨てがたいと思うのはどうなのか。顔をしかめた。こんなにも容易に彼女を褒める言葉は思いつくのにいちばんに出てきたのは可愛いという暴力的なまでの感情で、そのことに気づいて一層頭が痛くなる。水を飲んだ。番長さんや事務所のアニさん方に冷静さを買われることも多いというのに情けない。しかし俺を見てぱっと頬を染めて拗ねる姿はまさに花の如く……

「あんまり自分のこと聞かれるの好きじゃない?」
そんなことはないと首を振ると名前さんは良かったと言って掴んだままだったフォークを下ろした。俺ももっと名前さんに知ってほしいと思う。俺の好きなものも嫌いなものも、全部。正直にそのまま言うのは気恥ずかしくて、言葉に詰まったり濁したりしたがなんとか名前さんにそう言えば名前さんはほうと小さく息をついた。

「嬉しい。私玄武くんのお話聞くの好きだから、玄武くんから聞けるのがいちばん、嬉しいよ」
そっと視線を逸らし、名前さんの長い髪が肩にかかり、花のイヤリングがまたきらりと光った。タイミングを見計らってくれたのかどうかは知らないが皿を下げられ、リゾットとパスタの盛り合わせがそれぞれ並べられた。オリーブオイルを垂らすとそれだけではない華やかな香りがしてこれは何かと首をかしげれば名前さんは「ローズマリーだよ。わたし、この匂いすきなの」とすぐに答えが返ってきた。これで名前さんのすきなものをまたひとつ知れた。

俺の顔を見て名前さんはそれに気づいてはっとして「これじゃあまた、玄武くんばっかり私の好きなもの知ることになっちゃう……」と眉を下げた。たった今、俺も好きになったといえば名前さんはどんな顔をするだろう。きっとまた、俺の好きな花の綻ぶような笑顔だ。これからパスタを食べる間にも、それからデザートと飲み物もあるからいくつだって聞いてほしい。名前さんが俺が話すのが好きだと言うのなら俺はいくつだってそれに答えるし、それと同じだけあなたのことを知りたい。


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