B級1位 二宮隊


 午前五時。夜勤明けに数発調整をしてから帰ろうと思って狙撃訓練場へやってきた絵馬は、誰もいないと予想していたその場所に先客がいることに微かに目を見開いた。
「っ、…苗字さん?」
 黒いスーツ姿に一瞬、師匠である鳩原未来がいる錯覚に襲われたが、その背に短く整えられた濃いグレーの髪を見て絵馬は目の前にいる人物を正しく認識した。二宮隊のクロスレンジオールラウンダー、苗字名前がライトニングを構えている。
 トリガーが引かれドッ―と、絵馬にも慣れ親しんだ衝撃と共に銃口から発射された弾丸は、先の的に既に空いていた狙撃跡に重なってど真ん中を貫いた。その様子に少なくとも初心者ではないことがわかる。いつから練習をしていたのだろう。名前がオールラウンダーとしての役割を果たすところしか見たことがなかったが、絵馬の声にも集中力を途切れさせないその様子は既に狙撃手として成立しているように思えた。

 設定されていた回数の狙撃が終了し、名前はようやくスコープからその先の的に向けていた意識を移動させた。ずっと同じ体勢でいたからか、振り向こうとしただけで身体中が音を立てた。
「感覚無いけど痛い気がす…ん?絵馬、ってことは夜勤終わった?」
 肩や首を回したところで後ろに誰かがいることに気付いた。もしかしたらもっと前からいたのかもしれない絵馬の顔を見て、今日の夜勤が影浦隊と風間隊であったことを思い出す。絵馬がここにいるということは夜勤終わりの五時は過ぎてしまったのだろう。今日は一限から授業が入っている筈で、ほどほどで訓練をやめるつもりでいたのに。トリオン体の悪いところは身体の異常察知が異様に鈍いせいで集中すると時間の経過が一切気にならないところだなあ、ふうと思わず声が漏れた。
「なんで狙撃練習なんて…」
 ひと段落ついたと認識した絵馬が困惑した様子で名前に問いかける。本来の目的であった狙撃の調整については頭の外に投げ出されていた。そんなことよりも、今は名前がどうしてここにいて、どうしてこんな時間に狙撃訓練をしているのかが気になった。
 二宮隊の狙撃手は彼の師である鳩原だ。確かに彼女は隊の規定違反を犯して姿を消したけれど、彼の部隊はその後狙撃手を探している様子もなかった。鳩原を待っているのだと、眉を下げて笑いながらも二宮隊が好きだと言っていた鳩原を知る絵馬はそう思っていた。それなのに――
「ん?鳩原いないから、代わりの狙撃手がいるかなって」
 なんでもない様子でそう口にする名前に、絵馬はぐっと口から出てきそうだった言葉を飲み込んだ。そこは鳩原の居場所だったのではないのか、と問いただしそうになる。
「まあ、誰にも言ってないんだけどさ」
 ぐぐっと背伸びをして「トリガーオフ」と名前は呟いた。誰にもとは自分の所属する二宮隊に対してもなのだろう。だから本来夜勤出ないならば休むべきこんな時間に、隠れるように狙撃練習をしているのだろう。トリオン体をしまった名前の目元には微かに隈が見えた。
 彼の意志を行動を非難することなど自分には出来ないのだと絵馬はわかっていた。それが絵馬には残酷に見えてしまっても、結局のところ鳩原がいなくなってしまった今、名前と絵馬の関係といったらボーダー組織に所属する一員であるというそれだけなのだ。同部隊でも友人でもない、先輩後輩とも認識されていなそうなそんな関係性では何も言えない。
「…ねえ、鳩原先輩のこと、どう思ってるの」
 それでも絵馬は聞きたかった。絵馬の頭には、ずっと困ったように微笑む鳩原の顔が思い浮かんでいる。名前はその問いに返事をしなかった。


 訓練場を後にした名前は、一度家を経由して大学に向かう予定を立てながら本部の廊下を歩いていた。トリオン体でない肉体は眠くて仕方がない。足元がふわふわしているような徹夜独特の感覚。二日酔いってこんな感じかなあ、未だ成人していない名前は時々二日酔いになって死にかけている太刀川と思い出す。
 のろのろとした覚束ない歩みを止めたのは、目の前に見知った顔が見えたからだった。ぴょんと跳ねた茶髪の同級生。玉狛支部に所属している迅悠一は滅多に名前と顔を合わせない。それは迅が鳩原をわざと止めなかったことを、名前が知っているからだ。
「俺を避けなかったって事は何を言われるか、わかってるんだよな」
「うん。わかってる」
 いくらでも避けられた邂逅であるのは迅のサイドエフェクトからわかりきっているのに、彼はいつもそう確認する。迅が彼の前にやってくるのは揺らいだとき、サイドエフェクトの使い方に、自分の選択に迷っているときだ。
「お前のせいで俺達は傷付いた。東さんを理想としていた二宮さんの理念を、友を大切に思っていた犬飼の心を、役割を得ることができたという辻の安堵を、部隊の一員になれたのだという氷見の誇りを、お前は傷付けた。それでもそれをお前はその道を選んだ。その責任を負わなきゃいけない。お前はしょうがなかったと俺達も納得する未来に、皆を導く責任がある」
 その言葉に迅悠一は救われる。
 自分の決定を信じる嵐山も、迅の選択に責任はないという玉狛の後輩たちも。与えられる無条件の優しさが迅に迷いを生じさせる。彼らの狭い幸せのために、今まで犠牲にした全てを投げ売って彼らを彼らの心を救いたくなってしまう。
 そんな迅の気持ちを救うように、いつも彼は言葉を投げつける。最善の未来に導くのが、お前の役割なのだと、揺らいでしまう迅を彼が厳しい言葉で正してくれる。優しい同級生に迅はいつもの笑顔でへらりと笑った。
「うん。ありがとう」
「あっそ。じゃ俺帰るから。まあ、暗躍もほどほどにしろよ」
「うん。ありがとう、名前」
 ふあとあくびを殺して背を向けるこの優しい同級生が、ほど近い未来でブラックトリガーになる道だけが揺るがない事に迅は溜息を零した。


「っう、やっべ。ぐっすりだった」
 ぐっと背を伸ばす。大学が終わって直接作戦室にやってきた後、仮眠をとろうと自分の緊急脱出用の着地台に横になった瞬間記憶が途切れている。はあと息を吐き出す。
 正直、徹夜となった狙撃訓練のせいで授業には一切集中できなかったが、まあ今日の授業は過去問等で試験対策が可能な科目であるのが幸いだった。喉が渇いたと、給湯スペースに足を伸ばそうとして隊長がいることに気付いた。
「あれ、二宮さんなんでいるの」
「…起きたのか」
 テーブルに広げていた何かを手早く片付ける二宮。それを見たことはないけれど、およその検討はついている。二宮はあれから何があったのかを独自に調べているようだった。辛辣な態度を隠さないけれど、その実内に入れた者にはあまい。だから鳩原を切り捨てられない。
「なあ二宮さん、俺 狙撃手に移ろうか」
 けれど、東さんを隊長としてその下につき、彼を理想と掲げる貴方ならその穴の大きさがわかるはずだ。
「俺が狙撃手になれば元通りだよ」
「黙れ」
「ボーダーは規律違反した鳩原を戻したりしないよ、二宮さん」
「お前は、黙っていろ!」
 二宮の激情に名前はどうしようもないほどに切なくなる。
 部屋の隅に置きっぱなしになっている鳩原の私物は未だ処分される様子はない。痛みを捨てられず、皆が中途半端に後ろを振り返っては傷付いている。
「あいつ、なんで相談してくんなかったのかなあ」
 夜勤明けのあの日に顔を伏せてそう零した犬飼も、
「俺、隊の役にちゃんと立ててますか」
 B級ランク戦で那須隊に落とされて酷く落ち込んでいた辻も、
「ちゃんと皆のサポートできてるんでしょうか、私」
 不安を零した氷見も、そして理想と現実に絡まっている二宮も。
 名前を狙撃手に据えて、鳩原を捨ててしまいさえすれば二宮はまた理想を追い求められるのに。彼らは鳩原に、鳩原への後悔に苛まれたままだ。
 「ねえ、鳩原先輩の事、どう思ってるの」
 今朝の絵馬の言葉が頭の中で繰り返される。俺はお前が嫌いだよ、鳩原未来。よりによって未来を冠したお前が、俺達を過去に縛り付けるんだ。一人で勝手に決断した馬鹿なお前が大嫌いだ。
 名前は犬飼の誕生日、別れ際に見た後ろ姿を思い出して顔を歪めた。



執筆/公開 2018.10.23


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