傾く天秤
「お〜い!名前さ〜ん!!」
今日も懲りずに彼は来た。後ろから軽快な足音が大きくなるにつれ、逃げたい逃げたい逃げたい、と強く脳が訴え翔る。そんな気持ちはあっという間に体にまで伝染して、ほんの少しだけ足を速めるが、見つかってしまえば後の祭り。歩いている私の歩幅より、走る彼の歩幅が小さいわけがないのだ。無意味な行為だった。
かと言って、私も走ろうとはなれなかった。確実に"逃げている"というのがバれてしまえば面倒だから。というかあの子、別れるって言葉が何を指しているのかわかってないみたい。それとも理解したくないことは、無意識に放棄するタイプなのかも。
「にげたい……」
まあどっちのタイプだろうとどうでもいいけど、周りの目が気になる。なんてったってあのジョジョだ。引くほど容姿端麗なヤバめの不良、あの東方仗助が、大きな声で私を呼んで走ってくる。元彼に追われるなんて笑い話にもならない。
以前──彼と付き合っていた頃の私は、こんな風に仗助を最悪な化け物に変えてしまうとは思っておらず、ただ彼を好きでいた。しかし、今客観視して思う。付き合う前と明らかに変わってしまった彼は、その期間に連れ添った私が産んだも同然だと。セックスなんてしなくとも、生まれるものは色々あるんだと学んだ。マリアの受胎告知とはまた違うのかな?
現実逃避をしようと大して知らないマリア様を思い浮かべたが、背後の足音がゆったりとした音に変わった途端、マリア様は消えてしまう。行かないでマリア様。
「ちょっとちょっと!無視はないんじゃないっすか〜?」
肩に手が回って緊張が走る。
「……東方くん、やめて」
態とらしく苗字を呼んで足を止めた。すると乗っかっていただけの彼の腕が急に浮いた。離れてくれた…!と思った矢先、今度は肩を痛いくらいの力で握られる。
「いった……!ちょっとやめてよ!」
「じゃあその呼び方はやめてくれるよな〜?」
力で捩じ伏せようとするとこ、最低だ。前はそんな人じゃなかったじゃんか。どうして。別れた後もそんなんじゃ困るよ。
「おれ〜、今心臓ちょー痛かったなぁ〜……大好きな彼女の名前さんに、"東方君"なんて呼ばれちゃったらさ、なんつーか……マジで頭可笑しくなっちまうっつーかぁ」
もうとっくに可笑しいよ。こんな男とは話すのも面倒で、無視しながら足を進めることにした。やっぱり歩幅的に、すぐ追いつかれてしまうけど、顔も見たくなかった。なのに。
「やっぱ名前さんの手つめて〜!仗助くんがあっためてあげますよ〜!ほら、どぉ?きもちいっしょ!」
あっという間に手を繋がれ項垂れる。困ったもんだ。これほど執拗いのなら、まだ放任主義っぽい岸部先生の方がマシ。
ぎゅっと握られた手が熱い。けど胸は昔みたいにポカポカするわけでもなく、ただ離せよとしかならなかった。離せよ暑苦しい。
「ほんっと近寄らないでほしい。もう新しい彼氏できたし邪魔なんだけど」
ついていい嘘もあるよね?だってこの理由、厄介払いに最適だし。実を言えば仗助のせいで恋愛はもう懲り懲りって感じだから、暫くは独り身を楽しむつもりなんだけど、ただ今は、1ミリも仗助に気がないことをわかってもらいたくてそう言った。虚言の中の彼氏はどんな男にしようかな。アバター作りみたいで面白い。まず髪型はリーゼント以外で……。
ふと、静かになった隣に違和感を感じて彼を見ると、下を俯いて何かブツブツ呟いているではないか。だけど何を言ってるかも気にならないし、というか急に覇気のなくなったのを良いことに、早足で帰ることにした。
───翌日
「ヨォ〜〜ッ先輩!オメェまた仗助と喧嘩したのかァ〜?」
「あ、億泰。おはよ」
仗助と付き合っていた当時、男の子の中で唯一、会話しても怒られなかった為仲良くなった後輩の億泰に、後ろから声をかけられる。一緒に居るうちに段々と敬語が荒っぽくなるもんだから「タメでいいよ」と言えば「助かるぜ……」なんて言って喜んでくれたのを覚えてる。でも何でか私を呼ぶ時だけは、先輩とかさんとかの敬称をつけてくれる、礼儀のある子だ。
「どうしたの、突然。なんでそんなこと聞いてくるの?」
直球に聞けば、億泰は小さめな黒目をキョロキョロ忙しなく動かし、口をひょっとこのように尖らせ「えっと……エ〜ットォ……」と言葉を詰まらせる。……ふぅん。
「仗助から、 色々聞いて来いって?」
「エッ!!!いや、いやそんなわけないっすよ!ナハハハ!」
「あっそう」
「……ほっ」
「言われたんだね。……もう、本当に嘘つくのが下手。普通"ほっ"とか言わないし」
億泰が目も当てられないほど白々しい演技を初めたせいで、私の共感性羞恥が働いたが、年上としてぐっと堪えて大人っぽく返す。いつもなら外している敬語まで無理に使っちゃって、一種のエンターテインメントとさえ言えるお茶目さだ。
それにしてもやっぱり仗助かぁ。面倒だなぁ。ほかの女の子達に「仗助今フリーだよ」なんて流せば解放されたりしないかな。制服の皺を伸ばしながらため息をついて、彼に続きを促す。
「と、取り敢えずよ、仗助が先輩と話したいことがあるらしいぜ?おれもそこまでは聞いてねえからわかんねえけど……」
「無理って言っといて」
「うう〜ん……おれも名前さんの頼み事なら聞いてやりてぇんだけど、仗助が大事な話だからって、今すぐっつうんだよ」
……
ああもう!億泰は悪くないのが悔しい!億泰を使うなんて、本当に嫌な策士だあの男!
しょうがないから一時間目をバックれて、指定された公園まで、登校した道を戻ることにした。まだ空き教室じゃないだけマシだったのかなんなのか。嫌だなぁ。
もう数メートル先にある公園の木々から、見たくなくても見えてしまうあのリーゼント頭。この際髪型がダサいとでも言って……いやいや、ボコボコにはされたくないな。女の子をボコしているところは見たことないけども。
「あ、名前さん!……ンな怖い顔しねーで、こっちに座ってよ」
二人用のベンチが二つ連なった一番左端で、仗助はちょいちょい、と手招きして私を呼ぶ。そこに行かずに世界中に「助けてください!!!」と叫びたい気分だ。憂鬱な朝が世界一嫌いなのに、なんでこんなことに。しかしながら無力な私は、当然行き詰まってしまったので、彼の横に腰を下ろすことしか出来なかった。
「よっ」
「……はぁ……何」
「名前サンさ、昨日他に彼氏がいるとかなんとか言ってたよな?……でもよォ、色んな奴に聞いて回ったんだけど、誰も名乗り出ないから、もう本人に聞いちまうのが早いかと思って」
仗助の並外れた行動力のせいで、私の嘘がこれ以上突き通せるのか不安になった。じめっとする手汗を無視して、更に拳を握る。嘘を重ねようと口を開くと、目の前に、私の瞳を覗き込むようにして仗助の顔が。
「……嘘なんすよね?おれだけっしょ、名前サンの彼氏は。……な?今なら怒んないから」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。彼を怒らせる度に痛いことをされて、気づいたら外傷だけが元に戻っているあの不思議な光景が頭を過ぎる。
「ダメ、無理。仗助だけは無理」
「───な、んで、おれ、名前さん、おれっ」
「もう好きじゃない。重い、だるいし一々うるさい。過保護すぎる。怖いから嫌い」
「や、やだなぁ、ちょっと待ってよッ……じゃあおれもう、わかったから、やめるから重いの……!」
「だめ」
「は、ダメっ、て……。ふ、ははは……っ、そんなに嫌われてんのかよ、おれ」
彼はとっくのとうに、脅しのように圧をかけて私の顔を見るのをやめ、ベンチの背もたれにどっかりと寄りかかって天を仰ぐ。
左側の太ももに隠れていた、きっと彼が買ってくれていたのであろう二つの冷たいココアは、大きく開かれた足のせいで行き場を無くして砂の上に転がっていった。
「ねえなまえさん、スタンド……って、知ってますか。おれ……マジでなまえさんのこと、世界中の誰よりも守ってやれる自信があって、それで」
ポツリポツリと零れていく戯言に、既に興味はなかった。
隣で親に、携帯を変えたいという旨のメールを打って鞄を引っ提げる。もう二度と、彼からの着信で深夜に起きたくない。メールも要らない。着拒も無意味だし。声もかけずに立ち上がって、仗助を見ずに足を踏み出そうとする。気持ちは打ち上げが終わった後の気分。爽快に、お疲れ様でーすと声をかけて、店を出るような。
「待ってよなまえさん……おれ本当に好きなんすよ。……誰よりも好き。お願い、頼むからおれのこと捨てないでッ」
「……どっちにしろ私は今年受験だもん。付き合ったとしても精々数ヶ月だよ。その間だって、勉強するから会えないし」
未だに将来の夢も、進学か就職かも決めてないけど、彼と会わないことだけは確かだから、嘘ではない。半分は本当。……あれ、ということはやっぱり半分は嘘になるか。ま、いっか。今日は授業も全部休んで、家に帰って寝ちゃおうかな。
「じゅけん……っ?おれとの将来とか、ほんとになんも考えてねえの……?こんなにっ、おれ、こんっなにアンタのこと愛してんのにッ!!!」
仗助のせいで、男の人の大きい声が本当にダメになってしまった。怖くて堪らないと、挫けかけたところで親からのメールがくる。
携帯の買い替えの件はオッケーらしい。その上「大丈夫?」という短い思い遣りの言葉まで着いてきた。親って本当に強いなぁ。こんな文字でさえ、私の心の支えになって、恐怖は完全に取り除けた。
「そいつ誰だよ……。んでそんな安心した顔してんすか。おれの前では全然してくんねえのに……!ふざけんなよ、おれの一番になってよ……!アンタはおれの一番なんだから……ッ!」
「……あ、もしもしお母さん?……うん、今帰ってるよ。今日朝ごはんあんまり食べてないから、家帰ったらまたなんか食べたいかも」
高校生同士の恋愛なんて、所詮親には適わない。狂気じみた元彼なんかより、うちの最強なお母さんと過ごす朝の方が、何億倍も楽しいに決まっている。
2021/9/22