永遠だと思ってた
彼の訃報を聞いてから、横浜へ行くのは避けていた。それは何年も変わることなく、関わる人間が変化していく中でも、環境が私を蝕んでいく中でも決してやめなかった。
正しいと思っていた。
イザナと昔観て大号泣してしまった恋愛映画(イザナはつまらなそうに、欠伸ばかりしてた気がする)では、事故で恋人を失った彼氏が、思い出を封印する形で恋を終わらせていて、私もそうするのが正解だと信じ込んでいた。
「あーなったらどうしよっか」
「オレはあんな女々しくねえから忘れようとしねえ。……そもそもオマエを死なせるワケねーし。……まあ、なったとしても、オマエの思い出ごと抱えて生きる」
イザナにしては珍しく、彼曰く"くだらないもの"についての感想を言ったりそんなことを零したりと、とにかく口数が多かったので、この日の記憶は特に鮮明に思い出せた。
「名前はどーすんだよ」
ぶっきらぼうに聞いてきた割に、耳が真っ赤だったのだって今でも覚えてる。
「好きで好きで仕方なかったら、逆に忘れようとしちゃうかも」
「なんでだよ、忘れたら終わりだろ」
「愛だよ、愛」
ふうん、と言って歩き出した背中に、当時は意外と映画面白かったのかな、なんて思っていたけど、大人になってからようやく、愛を形にするのが苦手なイザナの精一杯の表現だったんだと気がついた。
それから私は今、横浜の、彼とよく来た海にいた。
気がついたら電車に乗っていて、電車のアナウンスで「次は横浜」と流れるまで、褪せかけていた思い出にどっぷりと浸かった。
行こうと決めた理由は覚えてる。あの一連の流れを思い出して、イザナの"思い出ごと抱える"方法も試してみたくなったから。私のやり方は私に合ってなくて、結局どこに行ってもイザナの影を追い求めてしまっていたのを、彼のやり方でならどうにかできると他力本願ながらに考えてしまった。
「イザナ」
バカバカしいかな、と数分海辺を彷徨いたあと、思い切って、小さく名前を口にしてみたら、何年間もかけて塔より高くなってしまった何かが一気に崩れ落ちて、涙がとまらなくなった。
「イザナぁ……ッ」
だから思い出したくなかった。だけど来なければよかったとも思わない。
磯の香りが鼻腔を擽って、そのあと風と一緒にやってくるはずのイザナの香りはいつまでもしない。何も言わずに抱きしめてくれる彼は、何時間待とうとも、何日何ヶ月待とうと来ない。
「死ぬなんて、おもわないじゃんかぁ……」
誰にも吐いたことのない思いが、一度空いた口からどんどん溢れて、爆発しそうな心臓をそのままに泣き喚いた。
「つぎのひ、デートいくってやくそく、したのに……!イザナだけだったのに……わたしには……」
そんなことを言ったら、オマエには家族がいんだろって怒られちゃうだろうな。でも、ここに来てくれるなら、なんて怒られようともそれで良いよ。そばにいてよ。
涙が溢れている間にも、人目についたら嫌だな、なんて理性だけはまだあって、誰もいない砂浜に降りていったら、振り向いて見えた足跡は当然一人分だった。
なんで死んじゃったの。
「なんでぇ……っ」
胸の張り裂けそうな痛みに限界がきて、私はとうとうその場にしゃがみ込んだ。それでもイザナは来てくれないから、私はおかしくなった頭で電話帳にイザナの名前を探した。
映画を観た時は「忘れる」なんて言ったくせに、未だに削除できてなくて、口だけだなと思う。それでもこの世にいない人だけど、連絡先だけはまだある、と縋っていたかった当時の自分のことを考えると、馬鹿にする気力さえ湧かない。
もし、今あの時の自分に出会えたなら。私はその時から何も変われず、イザナを待ち続けてるよと言って、絶望させてしまうかもしれない。
「イザナ……っ」
「……オマエは忘れるんじゃなかったの」
「むり、むりだよ……。好きだよ、ずっと……」
幻聴だ、きっと。でも、もしかしたら。
スピリチュアルなものはイザナの影響で信じていなかったけど、当時親の声より聞いていたような、懐かしく、あの棘の孕んだあたたかな声を、夢だと片付けてしまえる強さはなくて。ただ、信じたい一心で答えた。
「なんで忘れさせてくれないの……」
「オマエが勝手に覚えてるだけだろ。オレのこと覚えてる奴なんて、もうほとんどいねぇのに。なんでだよ」
これがもし、本当に最後の会話になってしまうなら。死ぬ前日にしたくだらない会話じゃなく、別れの挨拶ができるなら。
ぐるぐる考えて、それでもやっぱり、固い別れの挨拶は私たちらしくないと思った。
「愛だよ、愛」
「…………オレも、愛してるから」
あの日とは違って、はっきりそう言い返された言葉は予想だにしていなかったもので、私の上擦った声とくぐもった泣き声を聞いたイザナは優しく笑った。
「置いてった側からすると複雑だな。いつまでもウジウジしてんじゃねえよ、って言ってやりたいけど、オレのことずっと覚えてるオマエを見てんの、嫌いじゃねえ」
「……イザナよりかっこいいひとがいないから、忘れられないんだもん」
私の周りを覆う空気が、まるで人肌みたいな温かさになって、このまま連れて行ってと言おうか言うまいか、早くなっていく鼓動に気を取られながらも悩んでいる。
するとイザナは、何もかもを見透かしたようにため息をついた。
「オレは結局、今でも血の繋がりと愛情を結びつけた考えは変わってねえよ」
「……え?イザナ、今までその話は絶対しなかったのに」
「いいから聞け。……振り返ってみて、オレの人生は喧嘩がほとんどで、下僕って紹介した鶴蝶は、相棒みたいなもんだったと思う。オマエだから言うけど、今思えば兄弟みてぇな時もあった」
「鶴蝶くん、良い子だもんね」
「……ああ。……それと、愛情は死ぬ直前まで、正直よくわからなかった。誰にも愛されたことなんかない人生だと思ってたからな」
イザナの言わんとしていることは、私にはまだ検討がつかない。だけど、きっとこれが別れの挨拶になるんだろうと、薄まっていくイザナの香りや、離れていく体温で察しがついていた。
「でも、名前はオレの人生の中の、愛そのものだった」
「……う、うぁ……っ!ひっ、うう……ッ」
一度は止まっていた涙がボロボロこぼれ落ちる。目の前に広がる海よりも、大きな水たまりを作れてしまいそうな程、涙はとめどなく溢れて砂を色濃くさせた。
大好き、行かないで、と形にならないまま、継ぎ接ぎな文でイザナへ心の丈を綴った。これまで塞ぎ込んでいた、イザナに言いたかったこと全てを言い切ったと思う。
「ずっと忘れないからぁ……っ!」
頭にほんのちょっとの重みが乗っかって、次の波音が聞こえた時には、大好きな香りも温もりも、攫われたみたいに消えていた。
見上げた先にイザナはいなくて、かっけえだろ、なんて見せてくれた特攻服とおんなじ色をした夕日が、私の前を歩くイザナの背中みたいに煌めいていた。