まともじゃないね

2021年再掲
※現パロ 自傷行為あり


「あ……名前さん……おかえりなさい」

 私が帰宅すれば毎晩懲りずに褒美を所望してくる彼は、時々不安定になると自傷行為に逃げる。おかえりなさいと言われて感じるはずの唇の熱も今日ばかりはない。それは今の彼の精神状態がジェットコースターよろしく動いているからなのだと、この長い同棲期間で学んだことのひとつ。私にすら近づかないこの現状も、余裕がないことのなによりの証拠。

「いま、何隠したの?」

 目があからさまに逸らされた。そのまま私はエレンの背中で隠れている、血塗れであろう左腕に冷めた視線を送ると、 彼は息を荒らげて床に座り込んでしまった。

「ごめんなさい。やだ、いやだっ、なまえさんっ……許して……」

 許してはむしろこっちのセリフなんだからそんなことを言われたって困る。私ほどグロ耐性のない女がなんで人の自傷跡を見なければならないのか。涙の膜を張る彼を無視することもできないし、かと言って簡単に「痛かったね、大丈夫?」とも言えない。申し訳ないけど寄り添えない。

「洗おう?血止めないと」

 精一杯の思いで出た言葉は至ってシンプルだ。これ以上余計な発言をするとこっちの吐き気のゲージがカンストしてしまうし、エレンの地雷を踏む恐れもあるため今無駄な気遣いは不要なのである。
 とはいえやはり気持ちが悪い。私は元来メンタルが強い方だと自負している。だから彼らの行動が本当に1ミリも理解できないし、自分を傷つけて何になるのだと思ってしまう。言いはしないが、心の中では軽蔑さえ。

「あ、ありがとうございます……。名前さん、怒ってないですか……?」

 愛おしかったはずのエレンの顔が可愛く見えない。こいつは異常者だと脳が判断したからだ。人間は、自分と違う性質のものに興味を引かれるか、忌み嫌うかの2択だと私は考えている。珍しいものには誰も、無関心ではいられない。こういう人種を助けたいと思う人々がいるのは勿論知っているが、私はその枠組みに嵌らない。
 必死に、懸命に、切り込みの入った腕から目を背けながら、頭の中で無駄な思考を燻らしながら、現実から逃避する。ぬるついた気色悪い感触は悪夢のようだった。

「あの、名前さん……?」

 弱った声が私を現実に呼び戻すのに時間はかからない。

「あ、ごめん……っう、あ……」
「名前さんっ!ごめんなさい、あの、オレ自分で洗いますから……!」
「おえっ、きもちわるいっ!もう無理、やだ!」
「……え?」

 メンタルが強い方といっても限度があるのだ。無理、無理無理無理。腕がありえない形に切り裂かれていて恐怖心さえある。私はもうこの子の面倒は見切れない。ああもう嫌。
 今見た記憶を掻き消すように、大音量のテレビをつける。エレンが好む、この暗い部屋も大嫌い。電気を全部つけて、携帯を傍に置いて。エレンがいない部屋を心地よく思う私は薄情なのだろうか。そのまま洗面所にずっといればいいとさえ思ってしまうのは愛が枯れたからなのだろうか。

「なまえさんっ……なんで、なんでそんなこと言うんですかッ!?やっぱりオレのことなんてもうどうでもいいんだ……!違うやつがいるんだろ、オレみたいなガキじゃなくて、大人なやつが……っ」
「近づかないでよ!」
「……ひっ、ぐ、ぅううっ。なんで……っ」

 グロテスクなそれをどうにかしろと言いたかったけど、焦燥に駆られた私から出たのは拒絶の言葉。正確には彼自体を拒否したわけじゃない。それでもエレンからしたらこの一言だけで十分だったようで、とうとう私の座るソファの前で蹲ってしまった。

「名前さんが悪いんじゃないですかぁ……!うわ、うわきしやがって……は、ぅ……っくそ、くそぉ……ッ」
「やめてって言ってるでしょ!!」

 何をするのかと思えば、彼は止血こそしたものの傷口はまだ閉じきっていないそこへ、自分の拳を振るった。痛々しいったらないその行為を目の前でされて、こっちもパニック寸前だ。無理やり掴んだエレンの腕は可哀想なくらい震えている。

「エレン」
「やめろよ、もういいよ……オレ死ぬから……もうやなんだ……名前さんに好きって言われないのっ……オレより仲いいヤツがいるのもやだよ……」

 本当に"もういい"のなら、私の胸に頭を預けて泣いているのはどういうことだろう。静かに腕を離せばエレンはまたしゃくりあげて泣く。

「そ、うやって!……そうやってオレのこと嫌がるんですね……嫌われてたんだ、オレ、ずっと……オレずっとなまえさんにっ、きら、われてたんだ……」
「エレンこそ、私のこと本当に好きなの……?」
「……好きって言っても愛してくれないじゃないですか……っ!だったら、そんなの虚しいだけだ……」

 その言葉とは裏腹に、彼の両腕が私の背中にまわる。胸元のシャツがじんわり濡れて、胸に直接エレンの涙を感じた。それがすっかり私を冷静にして、言うつもりもなかった言葉が出る。

「…………愛してるよ、誰よりも」
「うそだぁ……っ」

彼は今子どもなんだ。愛を十分に受けられなかった子どもの頃の復讐を、世界にしている最中なんだ。私が大人になってあげた方がいい。幸い腕は見えないところにあるのだし。

「うそって……じゃあ、エレンは別れたいの?」
「そんなこと言ってないじゃないですか!!なっ、なんで、本当は名前さんが思ってるんでしょ?オレが、あなたと別れたいなんて……あるわけないのに…!」
「だって信じてくれないんでしょ?浮気なんてしてないし、エレンより大切な人なんていないし、愛してるって言ってもダメなんでしょ」
「ダメってなんですか……?仕方なくオレに好きって言ってたってことですか?……名前さんが信じさせてくれないんじゃないですか!!」

 画面越しの芸人のネタでうけた観客の笑い声が、シンとなった家に響く。エレンから逃げようとつけたテレビが今ではやかましかった。彼としっかり話し合うことを諦めた私の心理が透けて見えた。

「エレンのことは、本当に好きだよ。でも私を信じてくれない人も、私の嫌なことする人もいらない。私は仕事を辞めてどこか遠い場所に引っ越すことだってできる。エレンが改めないのなら躊躇なくやるよ」

 彼にとっては立派な脅迫となってしまったが、既にここまで泣かせた時点で慰めじゃ元に戻らないだろう。顔にかかっている髪を耳にかけてやって、絶望に侵された瞳をじっと見る。私は本気だと訴えるように。

「それはっ……!ごめんなさい、嫌です……オレ本当に、それじゃ死んじゃいます……」
「……うん、今日は何が嫌だったの?」

 そもそもきっかけはなんだったのだろう。それを明確にさせないままにした私にも責任はきっとある。多分ある。

「昨日、寝る時……」
「うん」
「オレが寝てる名前さんの手を握ったんです」

 人は長く生きれば生きるほど、なんとなくパターンを予測してしまうものだ。続きを待たなくてもわかる。彼は私が寝ている間に起きたことで精神を病んだのだ。勘弁してほしい。就寝中はどうしようもできないだろうがと呆れてきた。

「そしたら、名前さんが……っ、おれの手を鬱陶しそうに払ったから……!」
「……それは……えーっと、悪気はないんじゃないかな、と思うけど……」

 馬鹿じゃねえのと出かかったものを飲み込み、他人事のように返す。そんな事で腕を切るな。私のせいにするな。おまえの気の問題だろうが。険悪な空気が消えて安心したからか、ポンポン悪口が浮かび上がる。

「とりあえず!エレン、聞いて」
「はい」
「私たちは別れません。これからはそういうことも言わない。だからいつでも私を信じてほしい」
「……本当に……?」
「でも!」

 冷水に当てていたからか未だ冷たい彼の腕をとる。あまり直視せず、触れる範囲でやんわり掴む。

「次こういうことしたら、一生無視するから」

 目の前の瞳孔が、キュッと縮んだ。


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