宇都宮決戦

宇都宮決戦

土方歳三率いる旧幕府方別動隊は、満福寺に陣を置き、1868年5月11日(慶応4年4月19日)未明、1,000人余が新政府軍主戦力が配置される街道を避け、間道を通って宇都宮城を目指した。



午前4時頃、土方らは砂田村に到達、砂田を守備する彦根藩小隊を急襲した。

宇都宮救援軍の彦根藩兵ではあったが、先の小山の戦いで惨敗し隊長を失った記憶から士気も上がらず、やがて城内に撤退した。

彦根藩兵を退かせた旧幕府軍は、勢いに乗って宇都宮藩主戦の1番隊が備える簗瀬の背後に進撃、旧幕府軍の精兵がフランス式兵術をもって最新兵器を操るのに対し、折からの領内一揆を鎮圧するため疲弊している宇都宮藩兵は武具も旧式の火器装備しか持たず、それでも善戦はしたがやがて宇都宮城内への撤退を余儀なくされた。

撤退の際、新政府軍側は田川を渡す橋を破壊しなかったため、旧幕府軍は難なく宇都宮城下に押し寄せた。

土方らは道すがら庄屋など豪農の家に火を着けながら進軍、折からの南東の風で火は宇都宮城下に広がった。

昼になると、城下に放った火とともに伝習第一大隊と回天隊は城北東側から、桑名藩兵と新撰組は城南東側から攻め寄せた。土方らは簗瀬橋を突破し寺町にも放火した。

この際、英厳寺の庫裏に軟禁されていた幕府老中板倉勝静を救出した。
板倉はこの後函館戦まで旧幕府軍として共に戊辰戦争を戦うこととなる。

寺町、家中屋敷を焼いた旧幕府軍は、宇都宮城中河原門、下河原門に迫るも、宇都宮藩軍事奉行の戸田三左衛門や藩老の中島董九郎らが率いる宇都宮城守備隊の火器により数名の戦死者を出し、簡単に近寄ることができなかった。回天隊も今小路門を攻めていたが、その戦いの中で隊長の相馬左金吾が宇都宮藩兵の放った銃弾に倒れた。

下河原門付近では壮絶な攻防戦が続き、宇都宮藩士・藩兵側も十数名が命を落とすこととなった。

幕府軍と新政府軍は、城南部の竹やぶを挟んで新政府軍と衝突、白兵戦となったという。

旧幕府軍は三ノ丸藩士邸にも火をつけ、宇都宮城下の火は風にあおられて燃え広がった。

二ノ丸御殿やその遥か北にある宇都宮二荒山神社も被弾、宇都宮城下の非戦闘員も流れ弾に当たって負傷するほどに銃弾が飛び交ったといわれる。

午後2時になっても、兵数、兵装ともに劣る新政府軍は旧幕府軍を宇都宮城から撤退させることができなかった。

宇都宮城北側の峰明神山に座し、城下町を見下ろす二荒山神社には朝から宇都宮城下の戦闘を見物する民衆が集まったが、昼には旧幕府軍砲兵の最新式の山砲が着弾するようになり、やがて旧幕府軍が押し寄せ民衆は逃げ去った。

間もなく二荒山神社は旧幕府軍に占拠され放火により黒煙に満ちたといわれる。

また城内の火の手も衰えを見せず、その火煙により城内は視界を遮られるほどの勢いであったと伝えられている。

この消耗戦の最中、宇都宮城守備隊は一定の決断を下す。

東山道総督府参謀の有馬藤太は、目の前の小敵から宇都宮城を守りきっても城の北西方面に迫りつつある旧幕府軍大鳥本隊や会津藩兵、衝鋒隊の攻撃から宇都宮城を守り切る余力を温存できない、このまま兵を消耗してでも城を死守するのではなく、一度兵を収めて撤退し、既に下野国南部まで進軍してきている東山道総督府救援軍の精鋭と合流した上で、心機一転、宇都宮城を奪還する戦略を執る方が有利と、同大軍監・香川敬三に進言した。

香川はこれを入れて新政府軍は宇都宮城を出て一旦南方へ撤退することとなった。
新政府軍側はまず前藩主・戸田忠恕を宇都宮城から脱出させた。
家老の藤田左京以下藩士50人がこれに随行した。忠恕一行は一旦二荒山神社社家当主である中里千族の元で身支度を整え、その後、宝木、新里と北上した後に親戚筋の館林藩主秋元礼朝の元へ向かったという。



次に、香川ら東山道総督府軍が古河に向けて出立した。最後に残った戸田三左衛門や県信輯など宇都宮藩幹部は、宇都宮城二ノ丸御殿に火を放ち夕闇に紛れて城を離れ古河・館林に向かった。


一方の旧幕府軍も、夕刻となったため朝から長時間に亘った戦闘を収め、本陣を敷いている蓼沼方面に撤退して宿営した。こうして1868年5月11日(慶応4年4月19日)の宇都宮城の攻防は終結した。

その日、宇都宮城下の火炎は夜通し消えることはなかったという。

城内の建造物は藩校の修道館など一部を除いてすべて焼失した。
城下は放火され二荒山神社も本殿をはじめ殆どの社殿が全焼した。

二荒山神社の宝物は社家により城外の平野神社に移されたため戦火からは逃れた。城内には首の無い遺体や胴体から落ちた首級が数個転がっていたといわれる。この際の宇都宮藩兵の戦死者は10人で、そのうちの一人は15歳の山本松三郎(山本有三の叔父にあたる)であったという。

この日、旧幕府軍が下河原門に迫る際に、戦闘中の1人の旧幕府側兵士がその激しさに耐えられなくなり、敵前逃亡を図った。これを見た隊長の土方はこの兵士を斬り捨て、「退却するものは誰でもこうだ」と言い放ったという。

また出陣前の蓼沼の満福寺門前では、鬼怒川を下ってきた黒羽藩斥候数名が旧幕府軍に捕らえられ引き出されていた。この斥候達を土方は自らの刀で斬首したという。

こうした土方の振る舞いは、旧幕府軍兵士に指揮官への恐怖の念を抱かせ、箱館において味方から土方が撃たれる遠因となったとも言われる。

宇都宮城が旧幕府軍側と交戦し炎上しているの報は鹿沼に進軍していた旧幕府軍本隊大鳥圭介にももたらされた。

行軍中の大鳥らは、東方の空に黒煙が立ち上ったのを目撃しており、別動隊が宇都宮城を攻めたことを1868年5月11日(慶応4年5月19日)の早い時刻に知っていたとも言われる。

1868年5月12日(慶応4年4月20日)、大鳥隊は本隊を宇都宮に向けて進軍させ、途中新政府軍と接触すること無く宇都宮城下に入った。

これに呼応して土方ら別動隊も宇都宮城に向かった。もぬけの殻となった宇都宮城に入城した旧幕府軍は、焼け残った米蔵から3,000俵、本丸倉庫から金3万両を見付けたという。

大鳥らは焼失を間逃れた藩校修道館および三の丸の家老藩邸を本営とし、一方で城内に残された糧秣を焼け出された庶民にも分け与え、また城下の庶民に乱暴な行いをしないよう、兵士たちに触れを出している。


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