京都焼き討ち計画
文久二年。

薩摩藩の藩父島津久光の入京と共に京へ入った真木和泉は、寺田屋に於いて有馬新七らが上意討ちにあった後、久留米藩へ引き渡され獄入りとなったが、長州藩から助命嘆願の強い要請があり赦免となる。


そして、再度入京した真木は、学習院の御用掛となり、公卿三條實美の信任を得るまでになる。
しかし、薩摩と会津藩の画策で起こった八月十八日の政変で、七卿と共に長州へ下っていた。





池田屋の事件を聞いた真木は三條に、長州藩の冤罪を訴え、京から追放の身となった三條ら七卿の復権も含めた進発論を唱えた。

元治元年七月十六日、真木や三條らの策に賛同した来島又兵衛率いる六百名が嵯峨天龍寺に入り、続いて海路陸路を使って摂津国から久坂玄瑞、真木和泉率いる約千名が山崎天王山に陣を張った。


進発の総大将となった福原越後、国司親相、益田右衛門介の三家老が率いる千六百名も、物々しい様子で伏見長州藩邸へと入った。


「福原殿」

時和が険しい表情で福原達三人の前に座した。

「幕府からなにゆえの京入りかと、伺いがきております」
「我らは戦をしに入京したのではなく、朝廷に対し陳情しに参っただけだ。何を隠すでもない、そう伝えれば良い」


しかし、と眉を顰めて三家老に膝を寄せた。

「この数です。陳情しに洛中へ入っただけとは信じてもらえますまい」

「会津が抱える新撰組とか申す集団、人斬り集団と京では恐れられているそうではないか」

「加え、商人を拷問した上、その証言を奉行所で詮議もせず池田屋へ御用改めと入った。そのような輩が居るがゆえの兵であると申せ」


「また無茶な事を。
吉田達の計画を記す品が、その古高という商人の屋敷から出たとの事ゆえ、新撰組が動くのも致し方ないかと」
「馬鹿を申すな!」

方膝を立てて顔を真っ赤にしてどなる益田の手は震えている。

「吉田が居て、京を焼き、帝を拐かす策など立てるか!」

「証拠など、後からいくらでも作れよう。これは長州を陥れんとする会津と幕府の策略である。
我が長州が朝廷に対し、弓引くような所業をする道理はない」

 国司の言葉に、福原も益田も頷く。

「貴殿は、我らの上洛を池田屋事件の取調べだと届ければよい。天王山に入った久坂も、朝廷に対し嘆願書を出しに行っておる頃だ」

「我等も御所のあるこの京で戦など起こす気は毛頭ない」
「…承知致しました」

しぶしぶといった様子で時和が部屋を出て行くと、
「しかし、会津と薩摩が邪魔に入れば、久坂と来島殿も市中に入ざるを得まい」と疲れた顔で福原が呟いた。

「何としても御所へ赴き、我らの真意をお伝えせねばならん」



福原達が甲冑姿で藩邸に入った事で、邸内に居た藩士達が我もと名乗りを上げて来た。
これに加え、噂を聞きつけた浪士達が続々と藩邸へと詰め掛けてきた。その数五百名を下らずになった。


薩摩藩大目付役の吉井仁左衛門、土佐藩小目付役の乾市郎平、久留米藩徒目付大塚敬助らも、武力で制するより、長州の意向を伺い立て、事を穏便に済ませるのが得策と進言する事で意見を一致させ、入京を阻止しするため朝廷に対し建白書を提出した。



これ以上、長州へ追い討ちを掛けては後々大きな波乱を引き起こす火種を生む事になる。国もそろそろ抑えがきかなくなってきている。





久坂が提出した嘆願書に対し、朝廷でも長州藩への寛大な措置を要望する声が多く上がり、吉井達の進言を取り上げようという公卿が多く居た。


しかし、会津や筑前、薩摩藩に、ここで長州に対して恩赦をかければ、再び攘夷派が活気付く事になり兼ねない。

国内だけではなく対外政策にも大きな支障がでると押し切られ、朝廷は長州軍に対して再度退京を命じ、従わない場合は追討令を出す事を決定した。



そして、七月十八日。

朝廷から示された長州の京撤退期限日に、戦端は切られたのだった。


京で長く周旋にあたっていた桂は、諸藩へ長州と武装衝突しないよう奔走を続けてはいたが、時代は追い風にはなってはくれなかった。



同日に開かれた朝議において、京守護職松平容保が武装を以って入京せんとする長州兵に対し、即時討伐すべしとの強硬な態度を示していたが、共に長州を追放した薩摩は賛同もせず、この期になって日和見を決め込んでしまった。

裏御守衛総督に就いた一橋慶喜も最初は強硬を唱えていたが、一転して薩摩寄りの意見を述べ、強硬派宥和派のどちらにも着かなかった。


事変を知った国事御用掛の有栖川宮幟仁と有栖川宮熾仁親王と、議奏を辞職していた公家の中山忠能が参内して、久坂が提出した嘆願書を退けた事に対する憤りを申し立て、松平容保の追放と長州入京を許可し平和的な解決をすべしとの意見を述べた。

しかし、有栖川らの陳情は朝廷に受け入れられず、朝議の結果は長州藩の討伐で決定した。



そもそもの原因を作ったのは、会津が抱える新撰組ではないか。強いて言うならば、会津がだというのに。
それらに弓を引いた長州は、もはや朝敵と成り下がったのだった。


退京命令を受けた福原達も、勅命を手に久坂の居る天王山へと足を運んでいた。



焚き火を囲み、退京命令を記した紙に目を通した久坂の顔は苦渋に歪んでいる。


「こうなれば、鷹司殿に謁見し、御所参内が出来るよう頼むしか手はありません。
できる限りの事をしなければ、我々はただの暴徒に終ります。そうなれば長州に汚名がつく。それだけは避けねばなりません」

「久坂の言う通りだ。
本陣には、退去命令の件は今しばらく伏せておく」



この場に来島を呼ばなかったのは、武力を以ってではなく、話し合いで事を進めたいと言う久坂の意見を尊重してのものだ。


「しかし久坂よ。参内は叶うと思うてか?」

「退京せねば追討も止むを得ないとの判断を下したのは、幕府が朝廷に圧力を掛けたからに違いありません。
我らに退く気がない以上は戦となりましょう。

もし戦になれば、鷹司殿とて危険を冒してまで我らの参内を取り持ってくれるとは思えませぬ。
ですが、僅かでも可能な道が残されている限り、試してみる価値はあるかと。」


久坂も福原達が兵を伴って入京したのは、戦を起こすためではなく、長州藩の本意を朝廷に直接伝える事にあり、会津や薩摩藩が邪魔に入るのを見越してたものだ。

すんなりと幕府が朝廷への謁見を許してくれるのであれば、兵を挙げての上洛など考えはしなかった。



入京決行の意を固め、福原と益田は伏見藩邸へ、国司は来島の居る天龍寺へと引き上げて行った。


珍しく女物の着物を着ているかと思えば、その姿で刀の手入れをしている時和の元へ歩み寄る久坂は、安政の大獄で師松陰が斬首となった後より、攘夷活動の主導を担うようになった人物だ。

高杉とは松下村塾の双璧と呼ばれるようになる。


それ以上に、時和の知音であり悪友だ。


そして、困窮する藩士や郷士、足軽等、同志の生活援助という名目で、松陰が書き残した著作本を写しそれを売って得た資金で補うと言う「一燈銭申合」を考え出した人物でもある。


この一燈銭申合には草案者久坂玄瑞の他、入江杉蔵、佐世八十郎、寺島忠三郎、品川弥二郎、山縣狂介、堀真五郎、楢崎弥八郎ら十九名を主とし、桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔を含む五名も後に署名している。


「我々に付き合う必要もないだろうに」

松明の灯りに赤く染まった時和の横顔が、久坂には哀しく映る。

「黙って見てろって?」

「だがな」
「幕府のやり方に、これ以上の我慢はできない。」



何を言っても時和が引き下がらない性格なのは、久坂にも良く解っている。
頑固なのは、昔からだ。


かと言って、戦になる可能性もある行動に同行させたくもなかった。
それは、彼女が刺客と呼ばれる前に女であるからだ。



「違う方法はなかったのか?」
「これだけの兵が入京しだ。
それも難しいだろう。」
「そう」
「皆には、挨拶を済ませて来てあります」


若者が生を急ぐ時代を築いてはならないと、久坂は今の世の正しさを探した。
だがいくら考えを巡らせても、正しき道など今の幕府にはないとの答えしか出せなかった。

先生は、この行いを良しと笑ってくれるでしょうか。



松陰も至誠を尽くし、この国を外国に撒けない国にしたいと願っていた。しかし安政の大獄は無残にもその命を奪い取った。

だが、松陰の想いは色々な形となって長州の若者達の心に根を張っている。


塾生の中でも久坂は取り分け尊王攘夷の思いが強い。

朝廷に政権を戻し、天皇の采配による国政を敷き、その力添えに諸藩が足並みを揃えてこそ富国強兵が成せる。



それこそが、師松陰の望んだこの国の未来だと信じている。

その志を遂げるためには、長州の汚名を返上させ、政権復古を果たさねばならない。
高杉や桂の制止を聞かず、進発に賛同して入京した理由はそこにある。

それを見越して、こいつは俺についてきたのだろう。
俺の暴走を阻止するために。




「死に急ぐなよ、常盤」


その言葉に彼女の返事はなかった。
志を貫く生き方の難しさだと、久坂自身も己の成そうとしている事の難しさも痛感した。
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