エデンの揺り籠



物語の世界に入り込んでしまうと、時間が経つことなどすっかり忘れてしまう。
丁寧に綴られた細かい文字を夢中で追っていた視界が瞬間ふっと暗くなり、なまえは驚いて顔を上げた。
「・・・!アルスラーン」
「私が入って来たことも気付かなかっただろう?」
そう言って優しい目をして笑う夫に、なまえも頬を緩ませる。
「ごめんね、全然分からなかったみたい」
「そうだと思った。何を読んでいたの?」
手元を覗きこんだ相手に、なまえは簡単に内容を説明した。
幾つもの短い話で編纂された、異国の物語。
胸の踊る冒険譚、織り成される恋愛模様、手に汗握る陰謀をくぐり抜け、生還した時の素晴らしい読了感といったら!
しばらく耳を傾けていたアルスラーンはその語り口に思わず「上手だな」と感想を述べる。
「え、あ、・・・つい夢中になってしまって」
「いや、すごく面白かった。読まなくても光景が目に浮かぶようだ」
いつもは彼がいないはずの時間であることに気がついたなまえは理由を尋ねる。
「ナルサスやルーシャンが頑張ってくれたから、今日の分は終わらせることができたんだ」
そう言いながら隣に腰を下ろしたアルスラーンは身体を預ける。
その無防備な姿に、なまえは嬉しくなって小さく笑った。
「ルーシャンが、」
言葉を切ったアルスラーンは息を吐いて、
「後継ぎの話ばかりするんだ。夫婦になったばかりなのだから、もっとお互いのことを知りたいのに」
と続ける。
思いもよらない話題になまえは動揺する。
ふたりが正式に夫婦となってからまだわずか半年ほど。
その間に執務や短期間の遠征が重なってしまえば、結ばれる機会もそう多くはなかった。
後継ぎを一日も早くと望む周囲の期待や意味を理解しているからこそ、なまえの気持ちは落ち込む。
一方アルスラーンは、長いあいだ深く想い続けていた相手をようやく妻として迎えることが出来た喜びのさなか、新たに投じられた難題になまえの表情が暗くなるのを知って周りを恨めしくさえ感じていた。
「少し散歩でもしないか」
「・・・うん」
ふたりは連れ立ってテラスへと出る。
「風が暖かい。もう春なんだね」
頷くなまえの顔が少しだけ明るくなったのを見て、彼は微笑んだ。

***

解放王と称されるアルスラーンの生活は、他の王族に比べるととても慎ましいものだった。
本人がこれで良いといくら言っても周りが良しとせず、王族の体裁を“ある程度”保つために修復された城内をアルスラーンとなまえは連れ立っていく。
寄り添って歩く姿は始まったばかりの形とは思えないほど優しさと深い愛情に満ちており、周りが苦笑を洩らしたほどだ。
なまえはアルスラーンに手を引かれて案内された中庭の景色を目にした瞬間、大きく瞳を見開く。
若々しい緑が枝先を彩り、乾いていたはずの地面に春の息吹が芽吹いている。
長椅子に腰を下ろした彼女は、「気持ちいいね」と口にした。
「ここに来て最初の春だね」
「そうだね。・・・なまえ」
「はい」
「あまり気負わないでほしい。後継ぎを望む声も分かってはいるけれど、そのことで悩んでほしくはないんだ。こんなふうに一緒に過ごす時間の中で、いつか授かれば良いと思っているんだから」
見えない重責と葛藤していたなまえは、自分が思っていたよりも気楽に構えている夫の言葉に目を丸くした。
けれど案外、彼の言うことのほうが正しいのかもしれない。
無意識のうちに固く握り締める癖のついていた手を、そっと包み込んだアルスラーンの手のひらはとても優しかった。
何も語らず、ただ隣にいるだけなのに、流れていく時間さえも愛しいものに感じる。
きっと彼の傍で生きていく人生は瞬きのように早いのだろう。
互いを愛しく想い合うふたりは、今この瞬間、新しい命が育まれていることをまだ知らないでいた。


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