小ネタ



「これが海か・・・青くて広いのだな」
視界に広がるどこまでも続く水平線に、アルスラーンは感嘆の声をあげた。
「きっと砂浜には、裸同然の美女たちがたくさんいるのだろうなあ」
ギーヴの言葉に、ファランギースは肩をすくめる。
「海に対して間違った想像を抱いていないか?」
「ファランギース殿も、今以上に開放的になっても良いのですぞ」
遠慮しておく、と彼女はため息をついた。
胸いっぱいに潮風を堪能したナルサスは言った。
「絵を描くのも良いな。空と海の境目をどう表現するかが腕の見せどころだ」
血の海になるな、とダリューンが呟いたため、エラムは咳をすることで反応をごまかす。
「私は潮干狩りがしたいな!ホタテとかアワビ、牡蠣なんかも良いね」
そんなもの浅瀬にはいないぞ、とナルサスは返事をする。
「密漁でもするつもりか?」
「みんな、それぞれ楽しみがあるのは良いことだね」
アルスラーンの一言で彼らは我に返り、表情をきまじめなものに戻すと再び歩き出したのだった。


冷たく湿った暗闇の中で、いったいどれほどの時が過ぎたのだろうか。
無慈悲な拘束は、国王にふさわしい飾りとはほど遠い。
彼に幾度も責め苦を負わせた拷問吏が、時折まるで感情などどこかへ忘れてきたような目で見つめてくるのを知りながら、アンドラゴラスは考えを巡らせていた。
「(あの可愛かったヒルメスが…)」
彼がまだ幼い頃、自分を見つけるなり無邪気な顔を輝かせて飛びついてきたことが思い出される。
子供ながらに整った顔立ちであることも、彼の成長を楽しみにさせる理由のひとつだった。
「(それが、)」
顔にあれほど無惨な傷跡を残しておいてなにをと思われるかもしれないが、仮面をはずした面差しはなかなかよかった。
あれほど気持ちのこもった鋭い視線で射抜かれてしまっては、女たちはさぞどきどきするだろう。
そうだ、あれは初めてヒルメスが子犬と触れあった時のことだ。
きゃっ、と叫んでアンドラゴラスの後ろに隠れてしまった少年のあとを、しっぽをふりながら毛玉がぐるぐると追いかける。
「こわいよ、おじさま」
「ははは、なに大丈夫だ。ほーら、ちっともこわくないぞ」
そう言って抱いた子犬を目線の高さまで持ち上げてみせれば、彼は好奇心に満ちた愛くるしいまなざしを注いだのだった。
拷問吏は、地を這うような深いため息が響いた気がして囚人の様子を見に向かう。
「あんなに可愛かったのになあ…」
国王の独り言をしっかりと聞いてしまった彼は、どうするべきかを悩んだ。


一番好きな文明の利器は?

真っ先にエラムが「電卓です、電卓!」と身を乗り出して答える。
「あれがあれば、一発で家計簿の帳尻を合わせることができますから」
「ああ、あれは便利だと思う。そうだな・・・私は電話かな」
「ほう。なぜです、殿下?」
「顔は見えずとも、相手の声を聞くことができるもの。ダリューンは?」
私はデジカメです、と彼は言った。
「あれならいつでもどこでも、殿下の素晴らしい御姿を記録として残しておけますから」
「う、うん・・・?」
「ダリューン卿に持たせるとあっという間に容量がなくなるからな」
ぼそりとギーヴは呟く。
「たしかに不安をおぼえるコメントだな。まあいい・・・俺はタブレット端末を推そう」
「なんで?ナルサス」
「wi-fi環境なら契約せずともネットが使えてアプリをダウンロードできるのが実に便利だ。あれひとつでどれだけの手間がはぶけることか」
アルスラーンは尋ねる。
「エラム、ナルサスは何語を喋っているのかな?」
「すみません、私にもよく分かりません」
こほん、ともったいぶった様子でギーヴは口を開いた。
「俺はちょっと意外かもしれぬが、傘だ。雨をしのげるのはもちろん、相合傘をすれば自然と肩が触れ、すぐそばに近づけるからな」
へー意外と乙女なんだね、とアルフリードはあっさり流す。
「あたしは携帯!だっていくらでもナルサスとメールや電話ができるもの」
いくらでもは困る、とナルサスがくぎをさした。
「ジャスワントはどうだ?」
「そうですね・・・俺は髭剃りです。あれは実に便利なので」
ああー、と納得の声が生まれる。
「ねえねえ、ファランギースは?」
「うん?私は音姫一択じゃな」


焚きつけられた炎が、狭い地下室を照らしている。
「・・・ここにいる者たちが俺の協力者というわけか」
鋭い銀色に仮面を光らせ、彼は静かに呟いた。
「そうです、頑張りまーす」
私の宣誓に場の空気が一瞬で張り詰める。
「貴様、口を慎め!」
牽制してきた相手を睨み返し「頑張るって言っただけなのに」と唇をとがらせていると、
「だからと言ってわざわざ口にしなくても良いだろうが」
とたしなめられた。
「別に言ったっていいじゃん」
つい叩くと、思いのほか痛かったのか相手はうずくまってしまった。
「ねえ、ごめんって」
「貴様・・・すぐ暴力に走りおって・・・!」
その様子を黙って眺めていたヒルメスさんたちは、
「おい、あれ本当に大丈夫なのか」
「あんなのでも一応同胞なもので・・・」
とひそひそ話していたが聞こえないふりをした。


アルスラーンが無意識のうちにも片側でばかり咀嚼していることに気が付いて、なんとなくいやな予感がした私は尋ねる。
「もしかして、歯が痛いの?」
「いや、痛いというほどでもないんだけど・・・たまにちくちくするくらいで」
後ろめたい様子でそう答える彼の手からそっとドーナツを取り上げると「あ!」と声を上げた。
情けない表情を浮かべる相手に申し訳なく思いながら私は、
「歯医者・・・行こう?」
と提案したのだった。

***

保険証がないことを告げ、待合室で不安そうに身を縮めているアルスラーンをなだめる。
「大丈夫だよ、ちょっとちくちくするだけなんでしょ?すぐに終わると思うよ」
「いや、それが・・・さっきからなんだかしくしく痛み出してきたような気がする・・・」
名前が呼ばれて「はーい」と立ち上がる私の隣で、アルスラーンはびくりと肩を跳ねあがらせた。
「大丈夫だよ。手をつないでいてあげるから」
「う、うん。・・・そうだな、これくらいで恐れていてはパルスの王太子は務まらぬ!」
はいじゃあ横になってねー、という優しい指示で椅子の上に寝そべったアルスラーンがきょろきょろと周りを見回していると、
「じゃ、お口開けて」
と先生はにこやかに言った。
「お、口を・・・?」
「そうだよ。じゃないと診察できないからね」
口開けてごらん、と私が言うと、アルスラーンは小さく唇を開いた。
「うーん、もう少し大きく」
あー、と口を開けた瞬間、銀色の器具が彼の口内に侵入した。
「!?」
「あー、これは虫歯になっちゃってるねえ。でもま、初期だから」
ちょっと削って詰め物しとこうね、そう言って先生は小さなドリルを手にしたのだった。
「はい、うがいしてー」
私はこれからどうなってしまうのだろう、と青ざめ呟くアルスラーンを必死で励ます。
「大丈夫だよ、治療するだけだから」
「本当に?じゃああの銀色の尖ったものはなに?」
そう言って指をさした先にあるドリルの先端を機械にはめると、先生はどうぞー、とマスク越しの笑顔を見せた。
「ほら、ほら、あんなの持ってる・・・!」
「まあまあ。大丈夫だよ」
素直な彼は言われたとおりに横になって口を開けると、怯えた表情で先生を見上げた。
「・・・ん?もしかして怖いのかな?」
こくこくと首を頷かせている彼に、先生は「それじゃ、痛かったら手をあげてね」と提案する。
私がアルスラーンの手を握ると、キューンと高い金属音が響き始めた。
「(あー・・・この音、前から苦手なんだよね)」
そう思いながら何気なく彼の顔を覗き込むと、
「ア、アルスラーン・・・!?どうしたの!?」
初めての衝撃に目を白黒させながら、必死に手をあげて訴えている。
「先生、いったんやめてもらっても良いですか」
「いやいや、このくらいでやめてたらキリがないからねー。ま、もうちょっとだから」
ギャルギャルギャル、チュイーンと鳴りやまない音を聞きながら、詰め物をした後にもう一回磨きがあるのを思い出してそっと目をそらした。

***

「あの・・・大丈夫?」
アルスラーンは放心したように「うん・・・」と頷く。
「歯は、もう痛くない?」
「うん・・・ん?あ!」
痛くない、そう言って治療した方の頬をおさえて彼は驚いたような顔をした。
「すごい、治っている!」
「良かったね。ねえ、ドーナツでも買って帰ろうか」
私の言葉に、そうしよう、と嬉しそうにアルスラーンは大きく頷いた。


「殿下・・・甘いものばかり召し上がられては、お食事が喉を通らなくなります」
ダリューンの言葉に、アルスラーンは口の中のものを飲みこんでしまうと言った。
「大丈夫だ、ダリューン。今の私は育ち盛りだからな。夕食もきちんと食べる」
素直さに屁理屈を混ぜたような返答を聞いてダリューンは複雑な気持ちになる。
すると、横にいたナルサスが「かまいませんよ、殿下」とにこやかに告げた。
「殿下が育ち盛りであることはちがいありません。が、同時に思春期でもあります。油分の多い砂糖菓子などを食べすぎれば、あっという間に体には脂肪が蓄えられ、顔には吹き出物が出るでしょう。例えるならルシタニアのイノケンティス国王のような」
それでもよろしいのならどうぞ、と笑顔を崩さない軍師をの前で、アルスラーンは黙って焼き菓子を箱へ戻した。
「言いすぎだぞ、ナルサス」
「時には厳しさも大切だ。お前のほうこそ、でぶでぶとお太りあそばした殿下の姿など見たくもないだろう」
「聞こえているよ、ふたりとも・・・」


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