トワイライト1



乾いた石畳の上に緑陰が長く伸びる頃。
少年は、長い午後を使って行われた稽古を終え、重い足取りで石段を登る。
丁寧に結われていたはずの髪も激しいぶつかり合いのために半ばほどけており、額には未だうっすらと汗がにじんでいた。
身に余るほどの豊かな暮らし、高等教育。自分よりも多くの経験を経てきている大人たちにかしずかれる日々。
きっと誰しもが王太子という立場に生まれ落ちた幸運を羨むだろう。
けれど、己の目に映る世界はどこか色褪せている。
常にまわりの顔色を窺う者、隙あらば取り入ろうとする者、侮蔑の目、かと思えば視線合わせようとはしない廷臣たち。
王太子らしい振る舞い、完璧な存在として成長することを当然の求められる。
もちろん、対等な友などいない。
長く伸びた影が石畳の色を濃くしている。立ち止まって見上げた空を自由に飛んでいるあの鳥になれたら。
束の間でいい。なにもかも放り出して、何者でもないアルスラーンになりたいと願った。

***

湯浴みを済ませ、いくらかさっぱりとした気持ちで部屋に戻ったアルスラーンは、衣服のしまわれた小部屋の扉を開いた。・・・・・・はずだった。
服も小部屋もどこにもない。ばかりか、まるで見たことがない部屋が広がっていた。
沈んでしまったはずの西日が赤々と差し込む窓辺。壁は頑丈な石造りではなく、優しい色のまっすぐな板でその部屋は囲われていた。
アルスラーンの部屋と比べ天井は低い。板張りの床は丁寧に削られていて凹凸ひとつなかった。
意を決して足を踏み出す。かつん、と踵が音を鳴らした。
「っ!」
人の気配を感じて身じろぐ。けれどそれは、何もないと思っていた窓に反射した己の姿だった。
「これは、一体・・・」
窓枠にきっちりと嵌めこまれた透明の板におそるおそる手を触れる。ぬるいのに冷たい、不思議な温度が指先から伝わった。






床の上に敷かれている絨毯は、何かの動物の毛皮のようだった。そちらにも指先を触れようとした矢先、重い扉を開いた。
けれど顔を上げた瞬間、彼はすぐその違和感に気づく。
そこは見覚えのない部屋だった。
大きな窓から差しこむ夕日が、明るい色の壁を照らしている。
狭いその場所は、自分の部屋の一角ではない。
「一体、どうなっている」
思わず後ずさって中を見渡す。
白昼夢でも見ているのか。
きつく頬をつねるが、じわりとした痛みに顔をしかめることしかできない。
ほんの少し離れた場所には見張りの兵士がいる。
呼ばなくては。
けれど、声が出なかった。
アルスラーンの心臓が激しく音を立てる。
好奇心が理性を制御していることに気づかないふりをして、一歩、静かに踏み出した。
何が起きても大丈夫なように扉をわずかに開けておいて、アルスラーンは改めて部屋の中を観察する。
天井が低い。床に敷き詰められている板は凹凸もなく丁寧に削られている。
そっと触れた壁の、石ではない感触も不思議だった。
長椅子の正面にある黒い板、窓にはめこまれているつるつるした透明な壁。
ふと、自分が靴を履いたままであることを思い出したアルスラーンは絨毯に乗ることをためらう。
もやもやとした毛皮はなんの動物のものだろう。
不思議に思ってしゃがみこんだその時だった。
「誰、」
その声に弾かれたように顔を上げる。
「違う」
咄嗟に叫んだ。
「違う、ここは本当は私の部屋で」
相手の顔が恐怖で色を失っていくのを見て、彼はあわてて名乗った。
「私はアルスラーン、パルスの王太子だ。決してあやしい者ではない」
腰に帯びている剣を床に置くと、ゆっくりと両手を上げて問う。
「・・・これでいいか?」
「なんの用、ですか」
「用はない。だがここは、本当は私の部屋のはずなんだ」
不信のまなざしが向けられる。
「嘘だと思うなら、その目で見てほしい」
そう言って、彼は扉を大きく開け放った。
「うそ・・・」
部屋の主の瞳が大きく見開かれる。
嘘だと、彼自身が信じたかった。

***

ルスという国が存在する世界。
パルスという国が存在しない、文明のずっと進んだ世界。
本来ならば決して結びつくはずのないふたつの時空が、ひとつの扉を境に繋がっている。
石造りの廊下から冷たい風が吹いてくるのを背中で受け止めながら、アルスラーンは呟いた。
「すごい・・・まさか、こんなことが本当に起きるなんて」
驚き、動揺、それよりも強い好奇心に満ちた青い瞳を大きく見開いている少年を前にして、なまえは冷静さを取り戻そうと深呼吸をくり返す。
こんなことが起きるはずがない。
そう思う一方で、あり得ないことが起こっているという正反対のシグナルが頭の中で響いていた。
聞いたこともないパルスという国の王太子と名乗る少年は今も目の前に存在している。
この状況をどうすれば良いか必死に自分に問いかけるが、答えを出せるはずもなかった。
「あなたの名前はなんと言うの?」
「なまえ、です」
なまえ、なまえとくり返したアルスラーンは、未だおびえた表情を浮かべている相手を安心させようと微笑みかける。
「怖い思いをさせて本当にすまない。ただ、私も自分がどうやってここへ来られたのか分からないんだ」
理由は分からない。
ただ、自分の願いが叶ったとしか考えられなかった。
それを告げると、なまえはとても納得できない表情を浮かべて彼を見つめる。
「たったそれだけで・・・?」
「でも、ほかに理由が見当たらない」
「だとしたら、元の世界に戻ってそう考えるのをやめたら繋がらなくなるの?」
「それは分からない、けど」
少年の表情にかすかな翳りが混ざったのを知ってなまえは謝る。
「ごめんなさい、意地悪を言ったつもりじゃないの」
ふたりの間に訪れた気まずい沈黙を、くう、と切ない音がさえぎった。
「あ・・・その」
遠慮を知らぬ食欲を恥じ、アルスラーンは顔を赤らめた。
そういえば夕食を作っていたことを思い出し、なまえは無造作に置かれている剣と彼とを交互に見やる。
失礼だが、王太子という肩書きにはふさわしくないような格好をしていた。
「お腹空いてるの?」
「さっきまで稽古をしていたから・・・」
夕食までにはまだ時間がある。
それまで空腹を我慢しなければならなかった。
覚悟を決めてなまえは言った。
「良ければ、なにか食べていきますか?」
すると彼は首を横に振ってみせる。
「ありがとう。だが遠慮しておく」
その時、ひとまわり大きな音で腹の虫が鳴いた。
決まり悪そうにうつむいた相手に対しなまえは「遠慮しないで」と声をかける。
「お口に合うかは分かりませんけど」
「・・・では、お言葉に甘えさせてほしい。必ず礼はする」
お礼なんて、となまえはあわてる。
彼にその気があるのならふたたび扉が繋がってしまうというのに。
「気にしないで。たいしたものではないので」
「いや。そうだ、敬語はいらないよ」
身分にとらわれない世界を願ったのだから、これくらいのわがままは許されても良いのではないかと思った。
「じゃあ・・・アルスラーン?」
「ああ。そう呼んでくれ」

***

匙をゆっくり口に運んだ瞬間、野菜や肉のこっくりとした旨みが広がる。
優しい味のスープを空っぽの胃に流し込むたび、昼間の疲れが癒されていくような気がした。
とうとう食べ終えてしまったアルスラーンはしみじみと呟く。
「ああ・・・おいしかった」
「良かった。馴染みがないから不安だったけど」
「優しさが溶けているような不思議な味わいだった。こちらの料理人はとても腕が良い」
褒めてくれてありがとう、そう言うと彼はきょとんとする。
「私が作ったんだよ」
「あなたが?これをすべて?」
「そう。一般家庭が人を雇う余裕なんてないよ」
するとアルスラーンは矢継ぎ早に尋ねる。
「なまえはひとりでここに住んでいるの?家族は?結婚はしていないの?」
「そう。家族は別の場所にいて、結婚はしてないよ」
答えを聞くと彼は複雑な表情を浮かべた。
「パルスではあなたのような若い女性がひとりで生活することも、夫がいないのも珍しい」
なまえが社会制度や治安の面を簡単に説明すると、ようやくアルスラーンは納得したようだった。
「アルスラーンはどんな生活をしているの?」
てっきり豪奢な暮らしをしているのだと思っていたが、返ってきたのは予想もしていない答えだった。
「学ぶことがたくさんある。歴史や政治、外交に戦略。どれも良い王になるために必要なものだ」
「そんなにたくさん?」
「ああ。民のため、少しでも多くの知識を取り入れ国を治めないといけない。豊かな暮らしを守るのが王のつとめだから」
けれど彼の表情はどこか憂慮を感じさせる。
声変わりすら迎えていない少年が背負っている責任は、ともすれば幼い精神を簡単に押しつぶしてしまうほどの重圧だった。
なまえはあることを思い出して「ちょっと待ってて」と言って立ちあがる。
「どこへ行くの?」
「大丈夫。すぐそこだから」
不安そうなまなざしが届く場所にある冷凍庫のドアを開けてそれを取り出した彼女は、
「食べてみない?」
と差し出した。
「これは?」
「シャーベット。葡萄と白桃、好きなほうを選んで」
指先で触れたそれは冷たい。
「良いの?」
「どうぞ」
アルスラーンにとって氷菓子とは、特別な日に振る舞われる貴重なものだった。
標高の高い山から切り崩した氷を幾人もの人間が運び、溶けてしまわないよう地下の石室に閉じ込めておく。
果汁や果物と混ざり合った冷たい宝石を用意できるのはよほど潤った生活をしている貴族ばかりであるため、あっさり目の前に出されたことが信じられない。
相手が食べ始めたのを見て、おそるおそる口に運ぶ。
「!おいしい」
「ほんと?良かった」
この不思議に満ちた世界のことをもっと知りたい。
けれど時間は飛び去るように過ぎ、出会った瞬間が信じられないほどアルスラーンは名残惜しんだ。
「また来てもいい?」
もしもあなたさえよければ、とアルスラーンは遠慮がちに尋ねる。
なまえはしばらく迷った後「いいよ」と答えた。
「でも、君ひとりで来てね」
「分かった。約束する」
ゆっくりと閉ざされた扉にそっと触れてみる。
「やっぱり普通のドアだ・・・」
夢を見ていたのかもしれない。
けれど、テーブルに残されたシャーベットの容器が、これが現実であることを物語っていた。


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