月千一夜物語



異国情緒あふれる地に降り立てば、風の匂いまでもが違っていることに気がつく。
パルスの隣国、シンドゥラ。
かつて訪れたこの国へ再び足を運ぶことになるとは夢にも思わなかった。長旅に慣れないなまえのために馬車が用意されたと聞いた時は本気で驚いたが、それを知ったギーヴは「当然さ」と笑い飛ばした。
「君に合わせていては野宿が幾日続くか分からんからなあ」
かつては険悪な雰囲気になったこともあったが、今ではこうして軽口を叩く仲になっているのだから不思議だ。
「ま、せいぜいくつろぎながら行くといい。国王の婚約者殿の特権さ」
「またそんなふうに言うんだから・・・」
「だが本当のことだろう?」
長い戦い、国の復興、そして。
互いの想いが重なり、形になることは何物にも代えがたい喜びだった。なまえがゆっくり頷くと、ギーヴは口端を釣り上げてみせる。
「覚えているか?シンドゥラの料理を。とても食べられたものじゃなかったな」
「うん、すっごく辛かったよね」
慣れない香辛料に舌が麻痺しそうになり、チャツネをたくさん入れてようやく食べることができた。
「それに、今度から出された料理の食材は絶対に聞くことにする」
危うく羊の頭を食べ羽目になりそうだった時のことを思い出しなまえは身ぶるいした。
「ああ、それがいいな」
ギーヴの頭にもその時の記憶がよぎったのか、げんなりとした表情を浮かべたのだった。
そして、パルスを発って数日。
シンドゥラの首都ウライユールが近づいた頃、共に馬車に乗っている侍女の手によってなまえの身支度が整えられていく。東洋系の顔立ちとはいえ、はっきりそうとも言いづらい現代人の顔立ちに合う衣装をどうするか侍女たちが頭を悩ませてた結果、わざわざセリカから取り寄せられた淡い色の薄絹を幾重にもなまえは纏っていた。
閉じたまぶたと唇には薄く化粧を施され、美しく結われた髪には黄金の髪飾りが揺れている。馬車の中、見事に仕立てていく彼女たちの器用さはたいしたものだとされるがままのなまえは考えていた。
やがて、兵と馬の疲れが溜まらぬよう一行は最後の休憩を取ることとなった。外の景色を見るために窓を開けようすると、侍女長からいけませんとたしなめられてしまう。
「兵たちもいる中ではしたのうございます」
そういうものかと仕方なくその言葉に従い、代わりに空気を入れ替えるためほんのすこしだけ隙間を開けた。
その時、
「(あ、)」
アルスラーンと、シャブラングをねぎらうダリューンの姿がそこにあった。風に乗って彼らの会話が聞こえてくるはずもなく、なまえはふたりを見つめる。旅の間はひとりきりになる瞬間などなく、どちらとも話をすることは叶わなかった。
アルスラーンの柔らかな銀色の髪が揺れている。黄金の甲冑を身に付けている姿は実に堂々としていた。精悍さをたたえる横顔を少年と呼ぶにはふさわしくない。
これまで何度も、幼い時の彼を思い出す機会があった。あの無垢だった少年が知らぬ間にすっかり成長し、そして近い未来、彼と結ばれるのだと思うと嬉しさと戸惑いで胸が苦しくなる。恋人の輝く瞳に今は少しでも映るのが気恥ずかしく、なまえは大人しく窓を閉めた。
それを隣国の国王と謁見することへの緊張だと思ったのか、侍女長は「大丈夫ですよ」と優しく声をかけた。
やがて馬車は動き出し、なまえは背もたれに体を預ける。もう少しの辛抱だった。

***

到着した彼らを、シンドゥラの国民は盛大に迎え入れた。多数のシンドゥラ兵の後ろから、パルスの若い国王とその婚約者の姿をひと目だけでも見ようと大勢の国民が集まっている。音だけで外の様子を窺っているうち、やがて馬車は止まった。
ゆっくりと外から扉が開かれ、一番最後になまえが足を降ろした時、侍女たちが身をかがめる。
「あ・・・」
突然アルスラーンの姿を目にしたなまえは驚いて声が出ない。
「長旅で疲れただろう。気分はどうかと思って」
「あ、うん・・・大丈夫、です」
侍女たちを下がらせたアルスラーンは、そっとなまえの手に触れる。
「ずっとあなたと話したかったのに叶わなかった」
どこかすねたような口調が可愛らしくて、「私も」と答える。
「会いたかった・・・こんなに近くにいるのにね」
「本当に。おかしな話だな」
アルスラーンの指がなまえの結われている髪をひと掬いさらった。彼の視線がなまえの衣装に注がれるのを感じ、気恥ずかしくなって目を伏せる。
「綺麗だ。とてもよく似合っている」
「本当?良かった・・・」
顔を近づけ、彼は耳元でささやく。
「本当は誰にも見せたくない。一人占めしたい」
「!」
耳まで熱くなるのを感じて、なまえは思わず「アルスラーン・・・!」と顔を上げた。愛しいもの見るかのように細められている彼の瞳に、自分は今どんなふうに映っているのだろう。きっと茹でだこ状態だ。こうやって、彼はいつも無自覚に心をかき乱していく。
アルスラーンは手を取ると「行こう」と微笑みかけた。
「気乗りはしないが、あまり待たせるわけにもいかない」
なまえの歩幅に合わせ、ゆっくりと並んで歩くその姿を目にしたキシュワードは笑みを浮かべる。国王と時期王妃、ふたりが寄り添って異国の地を歩くのを見るのは初めてだった。

***

「よく来てくれた、アルスラーン殿!待ちかねたぞ」
今にも抱きしめかねん勢いでラジェンドラは彼の手を取って振る。
「お久しぶりです、ラジェンドラ殿。息災でしたか」
「無論さ。おぬしこそずいぶんと良い男になったではないか、見違えたぞ」
そのざっくばらんな話し方に一部の臣下は顔をしかめた。彼らのほうへ向き直ったラジェンドラは、
「ダリューン卿。改めて、その節は世話になった。礼を言う」
文句は心の中に押しとどめた「いえ」とダリューンは短く答える。
「ナルサス卿も変わらぬな」
「ええ、おかげさまで」
「ふん、あいかわらず食えないやつめ。おお、そしてなまえ殿。こちらへ」
歩み出た彼女の姿を、上から下まで眺めたラジェンドラは目を細める。
「ようこそ、我がシンドゥラへ。あなたをこの国へお招きすることができて真に光栄だ」
どのような返事をするのが正解か分からず、なまえは「お招きにあずかり光栄です」と頭を下げたまま答える。
「どうか顔を上げてくれ。美しいそなたの顔をぜひとも拝みたい」
そう言われてしまい、おずおずと顔を上げた。ラジェンドラの瞳が細められる。
「野に咲く花のように麗しいな。健気にうつむく野の百合のようだ」
聞いていたギーヴは「よくもまあぺらぺらと回る舌だ」とナルサスにささやく。
「まるで火のついた紙だな」
「おぬしがそれを言うか」
苦笑するナルサスに彼は、
「俺は誰かれかまわず口説くわけではないぞ」
と釘を刺した。
目の前の男の言葉が社交辞令であることは分かっている。けれど、相手の意に反した反応を見せることは外交にも影響が出るかもしれないと考え、なまえは返事をするのをためらっていた。
ナルサスが助け船を出す。
「ラジェンドラ殿。陛下もなまえ殿も、長旅で疲れがたまっておられるご様子かと存じます」
「おお、そうだな。夜は宴会を用意しているから、それまでゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えさせて頂きます」
アルスラーンの言葉にほっとして、一礼したなまえは元の位置へと戻った。
ダリューン、と彼は言った。
「はい、陛下」
「なまえを部屋まで送ってほしい。私はラジェンドラ殿にお渡しするものがある。ナルサスは残ってくれ」
かしこまりました、と彼らは頭を下げた。
「俺に贈り物?なんだろうな」
「はい。貿易で仕入れた上等の布や茶、他にもたくさんございます」
すまないな、とまったく遠慮のない調子のラジェンドラの声を耳にしながら、なまえたちは部屋を後にした。
「・・・先が思いやられるな」
ぼそりとギーヴが呟く。
彼と交わした不可侵条約の期間が満了するまでもうあまり時間がない。平和的に顔を合わせるのは、これが最後かもしれなかった。
もしくは。
ちら、とギーヴはなまえの横顔を盗み見る。
「(あいかわらず、危機感がまったく感じられんねえ・・・)」
まったく彼女は鈍いという言葉がよく似合う。
パルスの民と比べれば、たしかに顔立ちも体つきも幼い。おまけに傍に控えているのがファランギースなのだから、どうしたって男共の視線はそちらへ集中する。けれど、それは女としての魅力がないということにはならない。
時期パルス王妃に手を出すような身の程知らずは国内にはいるはずもないが、他国は例外だ。ましてや、あの好色な国王ときたら。舐めるような視線にもいやな顔ひとつしないのだから、まったく恐れ入る。
ギーヴは、目の前を歩くなまえの後ろ姿に目をやった。
柔らかな絹に隠された、ほっそりとしているが形のいい体の線。おくれ毛がこぼれる白いうなじ。垂れ下がる耳飾りが誘惑するように揺れている。
「(うちの陛下はまだそちらには疎いか・・・)」
好いた女が隣にいれば、俺なら遠慮はしないがと心の中で呟く。
いずれにせよ、面倒が起きないようシンドゥラにいる間は用心をしているほうが良いようだ。

***

案内されたのは眺めの良い部屋だった。窓から吹き込む風が心地いい。
「わあ・・・!」
思わず身を乗り出して外を眺める。頭上には薄紅の空が広がり、真下にはウライユール、その遥か向こうには砂漠の姿さえ見ることができた。まるで絵のようだと思う。現代にいる時は、こんな景色を見ることは絶対に叶わなかっただろう。
「(日本からペルシャ、インド・・・旅費はいいとして、こんなホテルに泊まったらいくらかかるんだろう)」
なにせ待遇が王族なのだ。それこそ目玉が飛び出るような金額に違いない。
「・・・不思議だなあ」
けれど、幸せなのは間違いなかった。
その時、扉を叩く音が部屋に響く。
「はい」
「なまえ、湯浴みに行かぬか。宴会の前に済ませてしまおう」
ファランギースは「気乗りのしない宴だが」と肩をすくめてみせた。

***

火照る体を休めていると、隣の部屋から物音が聞こえる。アルスラーンが戻って来ているのかもしれない。
「(お邪魔かな・・・でも、少しだけ)」
そう思い、控えめにノックをしてみる。するとすぐに「なまえ」と呼ぶ声がした。
「開けてもいい?」
「もちろん」
静かに扉が開いて、軽装に着替えたアルスラーンが現れる。
「・・・なまえ」
髪をほどき、リラックスした表情を浮かべた彼を見上げてほっとする。
「疲れただろう?久しぶりの長旅だったから」
「うん、正直言うとね。でもちょっと休めたから。それに他の人たちに比べたらずっと楽だったもの、とっても感謝してるよ」
世話をしてくれていた者たちがいなければ、きっともっとぼろぼろだっただろう。
「長い旅路だったから、護衛をしてくれた者たちにも十分な休息をとってもらうつもりだ。・・・なまえ」
アルスラーンの腕がそっと抱きしめる。
「やっと触れることができた」
耳元で響く愛しい人の声を感じて、彼の背に腕をまわした。
「ん・・・アルスラーンに、ずっとこうしてもらいたかった」
近い距離で交わる眼差し、重なる唇。目を閉じ、互いに触れ合う喜びを確かめ合う。
寂しかった、と彼は呟く。
「あのまま王宮にいたらもっと一緒にいられたのに」
肩口に顔を埋めてすん、と息をする恋人の頭をなまえは撫でた。
「でも、しばらくはまたこうして一緒にいられるよ」
「そうだけど・・・私は欲張りだから」
そう言うと、アルスラーンはいきなりなまえの体を抱き上げた。
「ひゃ、!」
突然の宙に浮いた感覚に驚いて声を上げるも、彼は楽しそうな様子でそのまま室内を移動する。
「自分で言うのもおかしいけれど・・・私はずいぶん大きくなっただろう?」
「なったなった。ふふ、前はあんなに小さかったのにね」
「そうさ。昔はただの子供だった。だけど、あの時と変わらないものもある」
「それはなに?」
「なんだと思う?」
そう問いかけられても答えが出なくて、素直に「分からない」と口にする。
すぐには答えないまま窓辺へやって来たアルスラーンは、静かになまえの体を地面へと下ろした。
「アルスラーン」
覗き込んだ青い瞳が細められる。
「あなたへの想いだ」
そうして前髪をかき分け、恋人の額に口付けをした。
「どれだけ時が過ぎても想いは強くなるばかりだ。あなたを前にするとどうすれば良いか分からない、ただの子供になってしまいそうになる」
でもね、と彼は言った。
「それじゃいけないのはよく理解っているから。私はすべてのものからなまえを護りたい。あなたがいるから、私は強くなれる」
真っ直ぐな言葉が胸を打つ。彼の気持ちが痛いほど伝わってきて、けれど自分の気持ちをどうして良いのか分からず、ただ見上げるばかりでいるのがもどかしい。自分をずっと想ってくれるばかりか、生涯を共にしたいと望んでくれている美しい人。何もできない自分を受け入れ、護ると誓った彼をなまえもまた心から愛していた。
「愛してる、アルスラーン。ずっとあなただけ」
本当は口にするのが照れくさい。けれど、態度だけでなく言葉にしなければ伝わらないこともあるのだと知っている。
慈しみ、護りたい、支えになりたいという強い願いが互いの心の内にしまわれているのを感じ取ったふたりの唇が再び重なった。

***

スパイシーな香りが漂う幾種類ものご馳走、溢れんばかりの酒。
「(す、すごい・・・)」
奏でられる華やかな音楽、色とりどりの艶めかしい衣装の踊り子たち。時折アルスラーンが開く、気心の知れた仲間たちと囲む宴よりもはるかに豪奢な目の前の光景になまえはすっかり気押されてしまっていた。
「さあさあ、心いくまで存分に楽しんでくれ!」
ラジェンドラは高らかに笑う。
「アルスラーン殿、明日はウライユールを案内させよう。見せたいものがたくさんある」
すっかり復興を遂げた国を自慢したくてしょうがないらしい。杯を傾けるふりをしてナルサスはささやく。
「あのままおだてれば国庫まで見せてくれそうだな」
かもしれんな、とダリューンは答えた。
一方ラジェンドラの腹の中では。
「(目の醒める美姫、というわけではないな・・・)」
けれど彼女を美しいと思わせる理由はいくつもあった。
たとえば艶やかな髪。白く瑞々しい肌。控えめな笑みを浮かべている唇。思慮をたたえた深い色をした瞳。伏せられがちなまつ毛の下から恋人を見つめるそのまなざしたるや。二十歳を過ぎていると聞いたが、反応のひとつひとつが初々しい。
たおやかな彼女の姿を眺めていると本能的な欲が疼く。
あの女が欲しい、と腹の中で思った。乱暴に言うなら手折ってやりたいというところだろうか。
この国の女ならばすぐにそれが叶う。けれど彼女は賓客であり、同盟を結ぶ隣国の次期王妃なのだ。手荒なことをしようものなら即座に戦争の火種が生まれる。
けれども、惜しい。
だが、そのぎらついた光を手練れのギーヴが気づかぬはずもない。そっとアルスラーンにささやいた。
「アルスラーン陛下。今宵は婚約者殿を部屋の奥に隠しておいたほうが得策かと」
アルスラーンは軽く頷く。今さらその言葉の意味を理解しない子供ではなかった。
「なまえ」
杯を手になまえは顔を上げる。
「はい」
「たしか、あなたのほうがアルスラーン殿よりも歳上ではなかったかな」
「・・・はい」
「傾国の美姫であるあなたのことだ、きっと陛下と出会う以前にも身を焦がすような恋をしていたのではないか?」
大げさな賛辞の半分は皮肉だった。どんな反応を見せるかと思えば、大きく目を見開いた彼女の表情を見てラジェンドラは口端を吊り上げる。
「なに、別に咎めるわけではない。ただ、国王の妻ともなれば今生の恋もこれが最後と思っただけさ」
なまえの頭に学生時代の恋愛の記憶が遠く蘇る。隣のクラスの同級生に告白され勢いに負けて付き合いはしたが、進学と同時に終わりを迎えた恋だった。お互い部活やバイトで忙しく、恋人らしい思い出など数えるほどしかない。けれど、そんな話をしたところで理解はされないだろう。
ラジェンドラはその沈黙を別の意味に捉えたらしかった。
「この場では口にするのもはばかられる秘め事というわけか」
「え?いえ…そういうわけでは」
ラジェンドラ殿、とアルスラーンの声が遮る。
「あまり彼女を困らせないでくれませんか」
「だがアルスラーン殿は気にならないか?」
「彼女が私の知らないどのような恋をしていても、それは当然かまわないのです」
「・・・ふん。ずいぶん淡白なご性格だな」
ギーヴは「いやなやつめ」と小声で吐き捨てた。
「俺ならば、その男を探し出してでも殺したいと思うだろうな」
「今はただ、彼女が私を深く想ってくれていることが嬉しいのです」
まじめくさった答えにしらけたのか、ラジェンドラは鼻を鳴らしただけだった。
彼らのやりとりにはらはらしていたなまえは決着がついたのを知ってほっとする。
同時に、アルスラーンの気持ちを知って嬉しくなった。きっとこれ以上に誰かを愛することなどないと、今ならはっきりと言える。
なまえは腕を伸ばし、見えない場所でそっとアルスラーンの指に触れた。すぐに大きな手が握り返してくれる。
騒がしい宴の中、このままふたりだけでどこか遠い場所へ行ってしまえたら、と思った。

***

ようやく宴会が終わりを迎えようとしていた。
「本当にアルスラーン殿、なまえ殿もわざわざ遠い異国の地までよくぞ来てくれた」
場所を変えてもう少し酒を酌み交わさないか、とラジェンドラがアルスラーンを誘う。
「いえ、今夜はやめておきましょう」
意外にも、ラジェンドラはそうかと言ってあっさりと引き下がった。
「まあいい・・・今夜はな。疲れているだろうしゆっくり休んでくれ」
「はい、それではお言葉に甘えて失礼いたします」
アルスラーン陛下、と呼び止める声に振り返る。
「おやすみ」
うやうやしく声をかける相手にアルスラーンは、
「おやすみなさい、ラジェンドラ殿」
と笑顔を返した。
彼よりも先に部屋へ戻っていたなまえに、ナルサスは忠告する。
「今晩、扉の向こうからこの国の人間に声をかけられても決して応じぬよう。たとえ国王であったとしても」
「はい」
固い表情で頷くのを見てナルサスは満足そうに笑う。これならば心配はなさそうだ。
「では、なにかありましたらお声掛けを。私とダリューンはそれぞれ隣室にいるので」
「はい。ありがとうございます、ナルサスさん」
「いいえ。では・・・おやすみなさいませ、なまえ殿」 
礼儀正しさに「もう」と彼女は笑顔を見せる。彼の横柄な物言いが今ではすこし懐かしい。
閉ざされた扉のあちら側でナルサスとダリューンは言葉を交わす。
「ラジェンドラ殿は本気だろうか?」
「隙があれば、という程度だろう・・・本気で奪うつもりなどない」
そうなれば戦争さ、とナルサスは肩をすくめる。阿呆とはいえ一国の主、国家の火種を生むからかいを本気でするはずもない。
「それに、あちらも今宵は妃が部屋から出さぬだろう。主人に釣り合わぬほどの賢妃なのだから」
一方、部屋の中でなまえがテーブルに突っ伏していた。
「疲れたー・・・!」
慣れない酒で頭がぐらぐらする。かすかなノックの音に唸るようにどうぞ、と答えた。
「ああ、やはりこうなっていたか」
「アルスラーン・・・もうだめ」
彼は気遣うように優しく背中をさすってやる。
「あなたは酒に弱いから心配していたんだ。それに、長旅の疲れもあるだろうから今夜は早く休もう」
「うん・・・あの」
「ん?」
「アルスラーンの言葉、嬉しかった」
「・・・なまえ。おいで」
その言葉に従い、彼の腕に体を預けた。長椅子の背にもたれながら呟くように言葉を紡ぐ。
「学校に通ってた頃、付き合っていた人がいて」
「うん」
「でも、お互いとっても忙しくて。話したり、家まで送ってもらったり。恋人っていうより友達みたいだった」
黙って聞いていたアルスラーンだったが、声が途切れたのを知って口を開く。
「初めて会った時、私はまだ子供だった」
「うん」
「なまえにたくさん我儘を言った。あなたはそれにひとつひとつ応えてくれた」
彼女の柔らかい頬に唇を触れ続ける。
「憧れていた。なまえの優しさが私の心を満たしてくれてとても幸せだった。今も」
歳の差は埋まらないと思っていた。
けれど今ではこうして穏やかな時間が流れている。静かな夜に包まれ、互いを慈しみ、愛を語らう時間が。
「なまえがいてくれて良かった。すべてに感謝している」
きっと自分が知らない恋も、今の彼女を形作っている大切な一部なのだとアルスラーンは思った。幼かった自分が、今では婚約者として隣に立つことができる。それが嬉しくて、誇らしい。
預けていた身を起こしてなまえは言った。
「私もアルスラーンに出会えて良かった。大好きだよ」
「ありがとう。私も愛しているよ」

***



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