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静かになった心の中にひとつの願いを描く。
どうかこの扉の向こうが、彼女のいる世界へと続くように。
まぶたをゆっくりと開けば、そこは夕日が差しこむ部屋だった。
人の気配を感じない。彼女はまだ、外出から帰って来てはいないのかもしれない。
薄暗さの中で教えてもらったことを思い返す。
壁ぎわに置かれた黒い四角は、テレビ。遠くの音や映像を鮮明に映し出すことができるとなまえは言っていた。
どれほど遠方なのかは聞いていないが、ひょっとしたらパルスの端まで見渡せるのだろうか。
上のほうにある箱はエアコン。あれは室内の温度管理をするためのものらしい。
いつか、自分のいる世界もここまで大きく発展する日が来るのだろうか。
部屋が暗闇に包まれてしまう前に、壁にあるはずのスイッチを探し出す。指先が小さな突起に触れた瞬間、部屋はまるで太陽を盗んだかのように明るくなった。ほっとする彼の耳にかすかな物音が飛び込んでくる。
けれどそれは、
「ただいまー」
というのんきな声だった。
「なまえ!」
「やっぱりアルスラーンが来てた」
にっこりと笑顔を浮かべる彼女のことを好きになるのはあっという間だった。優しくて、アルスラーンの質問にもいやな顔をせず答えをくれて、ささいな話にも耳を傾けてくれる。遠い昔に取り上げられた愛情にそれは似ていた。
買い物袋から食材を取り出しながらなまえは「夕食どうする?」と尋ねる。
「食べてきたから大丈夫だ」
「そっか。じゃあ私の分だけ作るね」
手元を覗きこみながら、何を作るの、と彼女を見上げる。
「今日はね、パスタ」
「パスタ?」
鍋の中に清らかな水が音を立てて溢れる。指先の動きひとつで火が起きるのを目を丸くして見つめるアルスラーンの表情が面白い。
ざくざくと軽快なリズムで野菜を刻んでいると、
「食事とはこんなふうにできるのだな」
と彼は言った。
「あんまり見たことない?こういうの」
「うん。本当にすごい」
なまえはふと、アルスラーンにどこまで教えていいものか不安になる。
パルスという国の歴史はこの世界にはない。ペルシャ、とも違う。
SFに詳しい友人にそれとなく聞いてみたところ、並行世界という言葉が返ってきた。彼の住む世界の時がどれだけ過ぎたとしてもきっと自分は存在しないと思うと、不思議な感覚だった。
作り置きしていたソースを温めると、部屋の中においしそうな香りが漂う。
「やっぱり食べてみる?」
「・・・一口だけ」
フォークに巻いて手渡すと、アルスラーンはゆっくりとそれを噛みしめる。
「おいしい」
「良かった。これも合格みたいね」
丁寧に盛りつけた皿とふたり分の飲み物を用意して席につく。
「いただきます」
そう言って手を合わせると、「今の挨拶はなに?」とさっそく彼は尋ねた。
「うーん、挨拶かなあ。食事の前にするの」
「どうして?」
「食べ物は本来生きているでしょ。それをいただくからじゃないかな」
納得したのか、アルスラーンも真似をして「いただきます」とくり返した。
「そうだ。なまえに渡したい物がある」
そう言って彼は懐から何かを取り出す。
「なに?」
「これを、あなたに持っていてもらいたい」
開いた手の上に乗せられているのは、金の鎖が通された精巧な模様の首飾りだった。
「これ・・・なんの模様が彫られてるの?」
「パルス王家の紋章だよ。代々受け継がれているものだ」
ぎょっとして伸ばしかけた指先を引っこめる。
「そんな大切な物、受け取れないよ」
するとアルスラーンは「まだ続きがある」とつけ加える。
「私は、なまえにもパルスを見に来てほしい」
突然の誘いだった。
「パルス、」
「とても美しくて素晴らしい国を、あなたにも見に来てほしい」
異世界に足を踏み入れる恐怖がなまえを思考を支配する。
「お願いだ。あなたの時間を私にくれないか」
どうしよう。
なまえの心は揺れる。
けれど、見てみたい。彼が住む世界を、いつの日か彼が治める国を。
「この首飾りは私の感謝の気持ちだ。だから受け取って」
「じゃあ、預かるだけ。それなら」
いいよ、とアルスラーンは言った。
「来てくれる?」
その問いかけに、なまえは覚悟を決めてゆっくりと頷いた。

***

陸の生き物、海の生き物、植物、星座。
ふらりと立ち寄った本屋で何気なく図鑑を眺めていたなまえはふと思いつく。
「(これなら退屈しないかも・・・)」
持ち帰るには少々かさばるものの、目を輝かせるアルスラーンの姿が思い浮かび苦にはならない。
その日のうちにやって来た彼に「ね、こういうのに興味あるかな」としまっておいたそれを取り出す。
「本?」
「そう。図鑑っていうんだよ」
ぱらぱらとめくってみせたページを覗きこんでいたアルスラーンは、綺麗な絵、と呟いた。
「この時代には素晴らしい画家がいるんだな。どれも本物みたいだ」
「ぜんぶ本物だよ」
「本物?」
今は被写体をそのまま紙に写し取る技術があるの、と説明してやると彼は目を見開いた。
「これも?これも本物?」
「そうだよ」
花の輪郭を指先がなぞる。
やがて彼は言った。
「私のためにこんな素敵な贈り物を用意してくれてありがとう」
「喜んでくれたなら嬉しいよ」
##NAME1##の手を取ったアルスラーンは、
「何よりもあなたの気持ちが嬉しいんだ」
と笑った。
一番のお気に入りは星座で、飽きることなく何度も手に取っている。
ベッドの中でなまえの頭にある考えが思い浮かんだ。
一緒に星を見に行きたい。
お気に入りの場所があった。けれどそこへ行くには当然部屋から出なくてはいけないし、車に乗らなければならない。
どうしよう。もしも、扉の向こう側に繋がらなくなったら?理由が分からない以上その可能性はじゅうぶんあり得る。
あれからしょっちゅうこちらの世界へ遊びに来ている彼の中に危機意識があるのかは疑問だった。
アルスラーンは怖くはないのだろうか。
「(今はやめよう・・・)」
暗い考えを頭の片隅にしまって目を閉じた。

***

「こんばんは」
遠慮がちに顔を覗かせたアルスラーンはなまえがいるのを知って笑顔を浮かべる。
「いらっしゃい、アルスラーン。今日はどうだった?」
「いつもと同じだったよ。またなまえと一緒に星の本が見たい」
「・・・ね、もしも本物の星空を見に行けるとしたら」
行きたいと思う?そう尋ねる前に彼は「行きたい!」と弾かれたように答えた。
「いいの?」
「それは・・・アルスラーンさえよければ。だけど」
興奮して聞いていない相手になまえは聞いて、とたしなめる。
「帰れなくなるかもしれないんだよ?」
しかし彼は即答した。
「そんなことはない」
「なんでそう言い切れるの?」
「私がそう願ったから」
「それじゃ・・・アルスラーンが帰りたいって願ったらちゃんと帰れるってこと?」
「そうだと思う。きっと扉は開くよ」
分からない。
仕組みも、彼の抱く自信も。
するとアルスラーンは「でも、あなたを困らせてしまうのなら」と口にする。
##NAME1##はとっさに答えた。
「そんなことないよ。大丈夫」
幼さに似つかわしくない遠慮を彼が見せるたび、##NAME1##の心は苦しくなった。
せめてここにいる間くらいはのびのびと過ごしてほしい。
「あったかい格好していかないとね。風邪をひいたら大変だから」
ダウンジャケットを羽織らせるとアルスラーンは不思議そうに言った。
「この服、すごく軽い」
「そうだね。中は羽根だから」
「羽根?」
聞き返される前にぐるぐるにストールを巻いてやり、車のキーを手に取る。
「よし、じゃ出発」

***

「うー、さむ・・・」
室内から一歩外へ出ただけなのに、刺さるような寒さに思わず体がちぢこまる。
「なまえ、大丈夫?」
「うん、たぶん平気。すぐ車に乗るし」
駐車場へ降りると、アルスラーンは目を丸くした。
「これ、なに?」
「車。一番端っこに停めてあるのが私の」
彼はそっと車体に手を伸ばして感触を確かめている。
「冷たい」
「外にあるもの。早く乗ろ」
戸惑う彼を助手席に乗せてドアを閉めると、ほんの一瞬でもひとりきりになったのが不安だったのか運転席に座ったなまえにしがみつく。
「わ、そっか。ごめんね」
大丈夫大丈夫、そう言いながら背中を撫でてやると、落ちついたのか体の位置を戻した。
「す、まない」
「ううん。私のほうこそなにも教えてなくてごめんね。あと、ちょっとだけ窮屈になると思うけど我慢して」
身を乗り出してシートベルトがはめてやり、外れないのを確認してからエンジンを回す。
「っ!今の音は?」
「車を走らせる準備かな」
「走る?」
答えのかわりにゆっくりと前進させると、アルスラーンが息をのむのが分かった。
「進んでる!」
「今度は本当に走るからね」
窓ガラスが冷たいのもかまわず頬を寄せて彼は感嘆の声を上げる。
「走るとはこういうことか!」
見えなくなる景色をけんめいにふり返るアルスラーンに、
「どう?初めて車に乗った感想は」
と前を向いたまま尋ねた。
「すごいよ、未来にはこんな乗り物があるんだね。馬よりも速い」
「馬?アルスラーン、馬に乗れるの?」
「もちろん」
「こわくないの?落ちたりしない?」
「もう慣れた。それに必要だから」
ダリューンはとても速い馬に乗っているんだ、と言う彼に「ダリューンって?」と聞き返す。
「とても強くて優しいんだ。・・・私もいつか彼のように大切なものを護れるようになりたい」
声の表情から憧憬の念があふれているのを感じた。
「なまえがパルスに来た時にはぜひ会ってほしいと思っている」
「でも、それはちょっとまずいんじゃないかな?」
「なぜ?」
秘密は守るよ、そう答えたアルスラーンの口調には信頼がこもっている。
やがて公園に到着してなまえは車を停めた。
「それ、かちんとできる?」
「こう?」
自分の手でベルトを外した彼はドアを開けて地面に足を下ろした。
深呼吸をすると、澄んだ空気が温まった肺を冷やす。
「ここからでもけっこう見えるね。だけど本命はこっち」
歩き出したなまえの後にアルスラーンは駆け寄る。
「なまえ」
「ん?」
「手・・・つなぎたい」
温もりを求めた手のひらが答えを得る前にそっと触れた。
「アルスラーンの手、あったかいね」
「なまえはちょっと冷たい」
顔を見合わせて笑う。
やがて彼は立ち止まった。
ストールをずらし、空を見上げて呟く。
「なんて綺麗なんだろう・・・」
輝きを放つ星々が形作る銀河。
人知を超えた美しさが、すべての人の頭上にある。
「・・・もしかして、アルスラーンは本当は宇宙人だったりしない?」
「宇宙人?」
「そう。この空のどこかにアルスラーンの住む星があって、なにか理由があって私たちの住む世界とつながったの」
嘘みたいだと思う。
けれど、そんな不思議なことが現実に起こっているのだ。
「それとも全部が夢とか」
すると彼は、
「理由は分からない。でも、夢じゃないことだけは分かるよ」
と言った。
「今ここにいる私もなまえも本当の存在なんだ」
つないでいる手にぎゅっと力がこもるのを感じる。
今この瞬間だけがまったく知らない不思議な場所にあるような気がして、思わず強く握り返した。



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