ある日、ある時、ある場所で1



「(うう・・・どうすれば・・・)」
結論から言う、弱ぺダの世界に来てしまった。正直、自分で何を言っているか分からない。
なんで分かったかと言えば、向かいの校舎に下がっている垂れ幕が見えたからだ。
”広島呉南工業高校 自転車競技部 インターハイ出場”とでかでかと書いてある。
広島弁が飛び交う教室の隅で私は頭を抱える。冗談じゃない、聞いたことないぞこんなの。
そりゃあトリップとかいいなー楽しそうだなーって思ったことはある。
だからってなんで広島?せめて総北か箱学じゃないの?いややっぱり無理、とにかく今すぐ帰りたい。夢なら醒めてくれ・・・!
「なまえちゃん」
「!」
名前を呼ばれてはっと顔を上げれば、クラスメイトらしい女の子が心配そうな表情で尋ねてきた。
「もしかして体調悪い?保健室行く?」
「あ、えっと・・・大丈夫」
乾いた声でなんとか答える。
「でも顔色悪いよ、あ!もしかしてあの日?ちゃんと持っとる?」
なかったらいつでも言って、と話す彼女に頷くしかできない。
どうしよう、どうすればいいの。
「おーい佳奈ァ」
反射的にびくりと肩が跳ねた。
「あ、ミヤ」
「置いてくなやワシらを。お、いたいた」
目が合うと彼はにやりと笑った。呉の闘犬、街宮栄吉だ・・・!
整った顔立ちだが目つきが悪い彼の笑みは、なんというか凶悪ささえ感じる。
「ほれ」
「あいた!え・・・」
ばさりと頭に落とされたのはノートだった。表紙には自転車競技部と書かれている。
「部誌。マネのくせに忘れんな」
「ちょっとミヤ、なまえちゃん体調悪いんよ。優しくしたげて」
「はァ?そうなんか」
怪訝そうな待宮の視線を受け止められず目をそらしていると「やしいのォ」と彼は呟く。
すると彼の後ろに立っていた子がいきなり私の顔を覗きこんできて言った。
「なんじゃ、げに顔色悪いな。無理せんで休めばええ」
あ、伊尾谷諒だ、と思った。髪形が特徴的なキャラだったから覚えていた。
すると、ニヤァと笑って待宮は言った。
「そんならイビ。われが送っちゃれや」
「ワシが?・・・まあ、ええけど」
やばい、勝手に話が進んでいく。極限状態の心臓がばくばくとうるさい。
待宮が聞いてくる。
「熱はあるんか」
「多分ない、と思う」
「フーン・・・ま、今日は休めや」
イビは送ったら戻ってこいよ、と言う彼に伊尾谷は「へーい」と答えた。
「なまえちゃん、無理せんでね」
「ありがとう」
「佳奈ちゃんは優しいのう。ほれ、なまえちゃん行くで」
行くってどこへ。この世界の住所なんか知らないぞ。
仕方なく伊尾谷の後ろをついて行く。だけどここで問題が起きた。
どれが私の下駄箱なんだ。
そもそも本当は高校生なんかじゃないんだ私は。
スカートの短さだって久しぶりすぎて落ち着かない。
「?なまえちゃんの下駄箱はあっちじゃろ」
「え?あ、ごめん」
うながされるまま隣の列を眺める。
「(あ、)」
同姓同名の靴箱があって驚く。分からないけど、とりあえずこれが正解なんだろう。
ローファーのサイズはぴったりだった。
特に会話もないまま並んで校門を出る。
やばい。どうしよう。
ちら、と伊尾谷の横顔に目を向けた。
目つきは悪いが、鼻と口元がすっきりしている。画面越しで見るよりもずっときれいな顔立ちだと思った。
無表情の彼が何を考えているか分からないまま、無言で少し後ろを歩いた。
荷物なんてほとんど入っていないはずのカバンがずっしりと重い。
やばい、緊張で意識が飛んでいきそうだ。ひょっとしてこのまま気絶でもしたら元の世界に戻れるのかもしれない。
よし、と決意する。とにかく気絶、気絶だ。なにかに頭をぶつけてみるか。
そう思った瞬間、ひゅんっと何かが横を通り過ぎた。
「え・・・」
針本ォ!と伊尾谷が叫んだ。
「危ないじゃろうが、ちゃんと前見て走れェ!」
「やべっ、」
足を止めた彼は「スンマセンッ伊尾谷さん!」と頭を下げる。
「ったく。平気か?」
「あ、うん」
もっと内側歩きな、と言われて白線の奥へ追いやられる。
「今日休みッスか、」
「マネが体調悪いから家まで送ってく。ワシゃ戻るけえ真面目にやれよ」
ウィッスと答えて彼は走って行ってしまった。
再び歩き出した伊尾谷の後を追う。
つきあたりに着いた時だった。
「・・・よし」
ふいに彼の手が私のそれと重なる。
「え・・・」
「ここまで来れば人に見られんよ」
口元に浮かんだ笑み。彼の雰囲気がふっと和らぐ。
待って待って。もしかしてこっちの世界では、
「(私たち付き合ってるの・・・!?)」
しかも恋人繋ぎだった。これは確定だ、と思った。
「どうしたなまえちゃん」
「や、なんでもない」
なんでもないはずがない。パニックで心臓が口から飛び出しそうだ。
伊尾谷の歩調はゆっくりとしていた。多分、私に合わせてくれているのだろう。
「今朝まで元気じゃったのにどうしたんだろうな」
「あ、うん・・・だけど大丈夫だと思う」
ほんとは少しも大丈夫じゃない。
すり、と伊尾谷の親指が手の甲を撫でる。
「!」
「なんでそがいに緊張しとるん」
伊尾谷はおかしそうに言った。
「緊張、するよ」
「・・・ふーん」
そうかよ、そう言ったきり彼は黙りこくる。
え、どうしてなにも喋らないの。もしかして気にさわることをしてしまっただろうか。
「あのさ」
「ん、なに?」
「隠れて付き合うのってやっぱ難しいな」
ああ、だからさっきまであんな感じだったのかと理解する。
「9月終わるまであと3週間か」
伊尾谷の言葉に分かったようなふりをして頷く。
「あっという間じゃったな」
「うん」
「なまえちゃん、さっきからうんしか言わんな。そんなに具合悪いんか?」
「えっ。いやあの、平気だよ。ごめんぼんやりしちゃって」
「いいけどよ。なんか調子狂うでぇ」
げに熱ないんか、と伊尾谷は立ち止まると繋いでない方の手を私のおでこに当てた。
「うーん、まあなさそうじゃのぉ」
きれいな顔が近い。頼むから全部夢であってくれ、頼むから・・・!
「んじゃ、帰るか」
手を引かれるまま大人しく歩き出す。
「あのさ、い・・・びたにくん」
「ん?」
良かった、呼び方は合ってた。
「伊尾谷くんは、私のこと好きなの?」
なに聞いてんだ私。馬鹿か私。
伊尾谷くんはにっと笑って言った。
「好きじゃ、もちろん」
「そうなんだ・・・ありがとう」
「なまえちゃんは?」
聞いてしまった手前、私も好きだよ、とかなんとか言うべきなんだろう。
「うん、好きだよ」
「知っとるよ」
照れ隠しなのか、伊尾谷は繋いでいる手を大きく振ったりした。
よく見れば彼の耳は赤い。
私はこれからどうなってしまうのだろう。


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