千子村正 風邪をひく



村正が体調を崩したらしい。
様子をたしかめようと部屋の前まで来た時、中から声が聞こえた。
「内側からじゃ、手入れでは治せないかもしれないね」
「人の体特有のものですからな」
そんな会話をしていると、部屋の中からありったけの体力をかき集めた声が「蜻蛉切ー!」と彼を呼ぶ。
「今行く!すみません主、少し様子を見て来ます」
「あ、うん」
開いた戸のすき間からふたりのやりとりが聞こえた。
「手ぬぐいがぬるくなってしまいまシタ。それと、お昼はさっぱりしたものが良いデス」
「お粥か?」
「ところてんと桃が良いデス」
ところてんと桃ね、と私は心の中でくり返すと、買い物に行くために立ちあがった。

***

「お粥・・・」
「ごめんね、すぐには用意できなくて。夕食には付けるから」
ハイ、と大人しく頷く村正を見て、ほっとした蜻蛉切は光忠に「すまない、村正のために」と頭を下げた。
「良いんだよ、困った時はお互いさまなんだし。それに、弱ってる時ってつい甘えたくなるの、不思議だよね」
ふたりが出て行った後、起き上がった村正はそのとおりだ、と感じる。
いつもの自分よりもどこか心細くなっているような気さえしていた。
ひとさじひとさじ、ゆっくり掬ってぼんやりと味わっていると、今度は控えめな調子で戸を叩く音が響いて彼は顔を上げる。
「?どうぞ」
「具合どう?村正」
「主、」
彼女の来訪を意外に思った村正だったが、手にしているものを見て目を輝かせる。
「ところてんと桃!」
「当たり」
なんでも良いから食べて栄養つけないとね、そう言ってなまえが膳の横にそれらを並べていくのを眺めていた村正は、そわそわした様子で言った。
「お願いがありマス」
「お願い?」
「その・・・あー」
口ごもっていた彼は、不思議そうな表情を浮かべているなまえと目が合うと「アーン、というのが欲しいデス」と告げた。
「え?・・・あーん、して欲しいってこと?」
「ハイ」
今度はなまえが戸惑う番だった。
さっきまでの躊躇いなどどこへやら、村正はにこにこと笑顔を浮かべている。
「仕方ないなあ」
なまえがお粥をひとさじ掬って差し出すと、彼は言った。
「アーン、と言って下サイ」
「はいはい・・・あーん」
ん、と口元が受け止めたのを見届けると、なまえは再びお粥を掬う。
「美味しいデス。・・・燭台切サンが、」
「ん?」
「弱っている時は、つい甘えたくなると言いまシタ。本当にそのとおりだと思いマス」
そうかもね、となまえは頷いた。
「私も分かるなあ、その気持ち」
「そうなのデスか?みんなそう?」
「分からないけど、多分ね」
はいもう一口、と差し出すと、村正は雛鳥のように素直にそれを受け入れる。
「なんだか特別な時間という感じがしマス」
これなら風邪も悪くはないかもしれマセン、と彼は笑った。
「食べたら、薬飲んで大人しく寝るんだよ」
薬、と彼はとたんに顔をしかめる。
「それは、薬研の調合した苦いあの、」
「ああ、うんまあ。だけど効き目は確かだから」
「うう・・・やっぱり早く治すことにしマス」

***

なまえの部屋を訪れた蜻蛉切は、深々と頭を下げる。
「この度は、村正が大変ご迷惑をおかけいたしました。これから先、より一層の働きをもってご恩に報いる所存」
良いって、となまえは困ったように笑う。
「誰だって風邪はひくんだし。私が倒れた時はよろしくね」
「は、それはもちろん」
すると廊下を走る音がしたかと思うと、開けている戸の間から村正が顔を出した。
「主!おや、蜻蛉切」
村正!と蜻蛉切はたしなめる。
「礼もせずに、不作法だぞ」
「もう治ったの?」
「ハイ!全快しまシタ」
彼は蜻蛉切の隣へ寄ると、「いーっぱい甘やかして頂きまシタよ」と顔を覗きこんだ。
「村正・・・お前はまったく」
口ではそう言うものの、彼が村正の回復を誰よりも喜んでいることを知っているふたりは、目を合わせて笑い合った。
「蜻蛉切、桜が舞ってマスよ」
「な・・・言うな!」


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