3



たった数歩踏み出した先に待っている別の世界。
ごくり、と喉が鳴る。ふり返れば見慣れた部屋があって、境界にそっと手を伸ばした。見えない壁はない。
「本当に行けるんだ・・・」
あちら側ではアルスラーンが笑顔で待っている。
「なまえ、早く」
「待って、心の準備がまだ」
「そう言ってもう10分は経つよ」
指摘されてうっと言葉に詰まる。
「えーいもう、知らないから!」
なまえは目を瞑ってひょいっと飛び越えた。それは驚くほどあっけなく終わり、呆然と後にした部屋を見つめる。
「ほ、ほんとに来ちゃった・・・」
「そうだよ。なまえ、こっちへ来て!」
窓辺へ駆け寄ったアルスラーンに手招きされてそばへ行くと、
「これがエクバターナだ」
と彼は両手を広げた。
時が止まる。
空の色、風の匂いまでが違うもののように感じた。そびえ立つ城壁の向こうに見えるレンガ色の屋根やテント。はるか遠くに見える山々の連なりは絵のように美しい。
「すごい・・・」
「パルスは大陸行路をつなぐ国なんだ。あらゆる国の文化や品に出会うことができる」
嬉しそうに説明するアルスラーン身を乗り出して「あれが騎馬隊だよ」と教えた。
「騎馬隊?」
「そう。ダリューンのことを覚えている?彼もあの中の一員なんだ」
黒い一団が城壁の中へ入ってくるのが見えて、なまえは「まるで壮大な歴史ドラマのワンシーンみたい」と胸の中で呟く。
これらがすべて、いつの日かアルスラーンのものになる。そう口にすれば彼は首を横に振った。
「そうではない。これらはすべて国民に豊かな暮らしを保証している国王のものだ」
それができないなら国王の資格はないと、まるで自らに言い聞かせるように彼は答えた。
「なまえ。今日はもうひとつ楽しみがある」
「楽しみ?」
アルスラーンは箱の中から丸まった布のかたまりを取り出すと、それをなまえに手渡した。
「これを着てエクバターナの街を歩いてみないか」
布だと思ったのはどうやら一式の服装らしい。
ところどころに金糸があしらわれていることからもそれが高価な品であることは明らかだった。
「えっ・・・そんな、無理だよ」
「なぜ?」
「だって明るいから人目につくし、それに」
なまえは言いよどむ。するとアルスラーンが続きを口にした。
「こわい?」
「・・・うん」
この間渡した首飾りを持っている?と彼は尋ねる。
「持ってるよ」
「それがあるなら問題はないよ。私の友人だと言って疑う者はいない」
「でも、」
「まだ心配?それなら特別に教えてあげる。隣の部屋との境い目に秘密の通路があるんだ」
壁のひとつが隠し扉になっており、水路を辿っていくとやがて地上の出口に繋がる。その説明はまるで忍者屋敷のようだった。
「呆れられてしまったかな」
困ったように笑うアルスラーンに、決心したなまえは「分かった。アルスラーンを信じる」と告げる。
「よかった・・・それでは、さっそく」
アルスラーンは手慣れた動作でなまえの体に服を着つけ始める。着ているものの上から羽織らせるだけにして、丁寧に腰帯を結ぶとささやいた。
「私が部屋の前にいる兵の気をそらす。その隙に、なまえは隣の部屋まで走ってほしい」
「大丈夫?気付かれない?」
「大丈夫。なまえがうまくできればね」
幾度もアルスラーンから励まされ、なまえがそっと扉の向こうをうかがったのを見て、アルスラーンはわざと大げさな様子で兵士に話しかけた。
「先ほど向こうで不思議な影を見たんだ」
それは本当ですか、と相手が真面目にあさっての方向に目をやった瞬間、反対の手が隠し扉の位置を教えた。
できるだけ足音を立てず、衣ずれの音にもおびえながら廊下を走り抜けると、重い扉をどうにか開けたなまえは身を隠す。
広さも分からない暗闇で心臓の音を聞きながら息をひそめていると、しばらくしてアルスラーンが体を滑りこませた。
「良かった、成功した」
はあはあと肩で息をしているアルスラーンに、なまえは「気づかれるかと思った」と安堵のため息をつく。
「でも、大丈夫だったろう?」
そう言いながらアルスラーンは壁のある部分を手探りで見つけだすと、ゆっくりと押す。すると徐々にくぼみが広がり、下から風が吹いてくるのをなまえは感じた。
「なにが起きたの?」
「これから階段を降りるよ。明かりはないけれど、私が先を行くからなまえはついてきて」
ふたりの手は離れないようしっかりとつながれ、反響した足音だけがいつまでも耳に残る。
「・・・ここだ」
ひとすじの光が差しこんで、アルスラーンの姿が鮮明になるとともに、街のにぎわいや飛び交う人々の会話が聞こえてきた。
やがて暗闇に慣れていた両目に飛びこんできた世界を感じて、なまえは放心したように呟く。
「これが、エクバターナ・・・」
「やっと一緒に来ることができた。そうだ、会わせたい人がいる」
砂塵の舞う道を、アルスラーンはつないだ手を離さずに人波に逆らって歩き出した。

***

「あ、いた!ダリューン!」
叔父への用を済ませたばかりだった彼は、聞き覚えのある声にふり返る。
「これは、アルスラーン殿下」
息を切らせてこちらを見上げている愛らしい王子の目線に合わせるため、彼はひざまずいて答えた。
「私に何かご用でしょうか?」
「お願いを聞いてほしい」
少年の後ろで荒い呼吸を整えている者がいることに気がついて、ダリューンは尋ねる。
「そちらの方は?」
すると、かばうように立ちはだかりアルスラーンは懇願した。
「どうか何も聞かないでくれ、ダリューン。それから、もしも都合が良いなら私たちを連れて王都を案内してほしいんだ」
突然の申し出に呆気に取られている相手に、アルスラーンはなまえを紹介する。
「彼はなまえという名だ。私の大切な友達なんだ」
「なまえ様、ですか」
はじめまして、となまえはうつむきがちに頭を下げて挨拶をする。
「なまえと言います。よろしくお願いします」
「ダリューン、」
すがるようなまなざしを向けられ、ついにダリューンは折れることにした。
「承知しました。殿下のお申しつけ、たしかにお受けいたします」
「ありがとう。良かった」
アルスラーンがほっとしたように微笑んだのを見て、ダリューンは「こちらへ」とふたりを裏門へとうながす。
こちらでは殿下と呼ぶように、と最初に言われていたなまえは、いつ存在を咎められるかとひやひやしながら彼らの後ろをついていく。
生きた心地がしないというのが、正直な感想だった。見知らぬ土地で、当然のごとく懐に剣を持つ人々の中にあって、はぐれてしまったらどうしようと気が気ではない。
アルスラーンの言うように、王家の紋が彫られた首飾りを身につけてはいても不安だった。もしかしたら彼も自分のいる世界に来るたび同じような気持ちだったのではないかと考え、なまえはそっとアルスラーンの指先に触れる。
「平気だ。私がいるから」
その手をしっかりつなぐと、彼は言った。
「それに、ダリューンがいてくれる。なにも心配はいらないよ」
その言葉を聞いて、ダリューンは気づかれないよう口元を緩めた。

***

季節はもうすぐ冬を迎えようとしていたが、穏やかな日ざしが照らす街路には店が立ち並び、にぎわいを見せている。
もう少しすれば木枯らしが乾いた地面を這うように吹き荒れ、外商たちが売る品も変わっていくのだが、今日のところはいちじく、乾アンズ、ひいた小麦やチーズ、香辛料といったものの他に、蜂蜜を塗った薄パンや肉団子のスープなどが店先を飾っていた。
ある店からは焼き林檎の甘い匂いがただよい、なまえの視線はいそがしく移る。どれもこれも、見たことのないものばかりだった。
つり下げられた美しい工芸品や色とりどりの布の向こうでは、人々の暮らしが垣間見える。
「なにか食べようか」
そう言ってアルスラーンが焼き林檎を売っている店の主人に自分たちの分をくれるよう頼むと、お代と引き換えにそれらを受け取った。
手渡されたなまえは「ありがとう」と言おうとして、とっさに「、ございます」と付けくわえる。
アルスラーンは楽しそうに笑いながら「いや、いつも私の方がしてもらっているのだから、気にしないでくれ」と言って、ダリューンにも林檎を差し出した。
「殿下、私は」
そう言いかけた彼をアルスラーンは制すと、
「もう三人分買ってしまった。かまわないだろう?」
とゆずらない。
ダリューンは感謝の言葉を述べてそれを受け取ると、座って食べられる場所を探し出し彼らをそちらへ案内する。糖蜜がたっぷりとかけられた紅い果実を楊枝の先で砕くと、肉桂の香ばしい香りが広がった。
熱さを我慢して頬ばったなまえは、「おいしい・・・」と呟く。
「ああ。こういった食べ物はあまり食卓に並ばないから、私もめずらしい」
ふたりの慣れたような会話に、ダリューンはいささかの疑念を抱かないではなかったが、あえて何も言わずに控えている。貴族の少年のような格好をしていても、王太子の隣にいるのが女性であることを彼は一目で見抜いた。
だからこそアルスラーンの申し出に驚いたのだったが、何も問うなと言われてしまっている。仮に何かを企んでいるのなら、すぐにでも王太子を保護し、彼女を兵に命じて捕らえさせるのもたやすいと考えてのことだった。
「この後はどうされますか」
しばらく考えていたアルスラーンは、「遠乗りがしたい」と口にする。
「でしたら、私の屋敷へ寄ってもかまいませんか。シャブラングがおりますから、殿下はそちらにお乗りください」
「うん、そうしよう。なまえは私と一緒に乗ると良い」
しかし、ダリューンは言った。
「いえ、よろしければ私がお乗せしましょう」
彼は順にふたりを見た後、言葉を続ける。
「失礼ですが、お二方とも背丈が同じようにお見受けいたします。目線がかぶっては手綱をあやつるのも大変でしょう」
「たしかにそうだな・・・なまえも、それで良いか?」
最後のひと匙を口にしていたなまえはうなずくと、ダリューンに向かって頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「かしこまりました。では、そのようにいたしましょう」

***

黒影号という名のついた馬の手綱を、ダリューンはアルスラーンに預ける。
「どうぞ、殿下。お乗りください」
「ありがとう。あいかわらず、シャブラングは美しいな」
そう言って彼が鮮やかに飛び乗ったので、呆気にとられたなまえは馬上に視線を向ける。
「こ、こわくないのですか?」
「もちろん。パルスは騎馬の民、私も幼い頃から慣れ親しんでいるよ」
失礼します、とダリューンはことわると、なまえの体に腕を差し入れて抱き上げ、自分も別の馬に跨った。
「う、わっ・・・」
「ご心配なく。落とすようなことはいたしませんから」
ダリューンが苦笑したのを知って、なまえはすみませんと謝る。
「いいえ。では、参りましょうか」
ああ、とひとつうなずいたアルスラーンが颯爽と駆け出すと、続いてダリューンも馬足を走らせる。並んだ二頭はわずかな距離を前後しながら、パルスの中心から離れた草原へと向かって行った。
しばらくして、ダリューンはなまえが先ほどよりも前かがみの姿勢になり、腰を浮かせていることに気づいて声をかける。
「どうかされましたか」
てっきり自分の体が近すぎたためかと後悔していると「ちょっとお尻が痛くて・・・」という答えが返ってきたため、ゆっくりと速度を落とす。
「どうした、ダリューン?」
ふり向いたアルスラーンに彼は「すこしお疲れになったようです」とだけ告げる。
彼は馬足を止め地上へ降り立つと、戸惑った表情を浮かべているなまえに向かって腕を伸ばした。
どうにか地に足を着けた彼女は、安心したように「やっと、立てた・・・」と呟く。
「怖かった?」
「いいえ、怖くはありません」
どこまでも遠く広がる景色には、電線も、高い建物もなく、心地良い風がそよいでいる。
「いずれ雨が降りましょう。来たばかりですが、何もない場所です。戻った方が良いかと思いますが」
その言葉に顔を上げると、午後の陽ざしをさえぎるように薄い雲が空を覆いはじめていた。
「それではゆっくり帰ろう。急がなくて良いから」
帰りの道のりを思い出し、なまえは気づかれないようにため息をついた。

***

ダリューンと別れ、来た時と同じ場所を通って帰る。幸か不幸か、部屋の前には人がおらず、ふたりはすんなりと扉を開けて戻ることができた。
アルスラーンは、隣で疲労の色を見せているなまえに遠慮がちに尋ねる。
「パルスは、どうだった?」
「すごかった・・・あんな景色、今まで見たことない。それに、馬に乗ったのも初めて。お尻は痛かったけどあんなに速いんだね」
見知らぬ土地の異なる文化に肌で触れた実感が今になって湧き上がり、なまえは自分を落ち着かせようと深呼吸をする。
「なまえがパルスを気に入ってくれたのなら、とても嬉しいよ。またいつか一緒に出かけられたら良いな」
なまえは、自分がいつまでも上着を羽織っていることに気がつき、あわててそれを脱いだ。
「いつまでも着ていたら汚しちゃう」
「良いんだ、私が持ってきたものだから。気にしないで」
上着を受け取り、隠していたなまえの服を持ってきて手渡す。その時、外から話し声が聞こえてきてふたりは思わず顔を見合わせた。
「アルスラーン、」
「もしかしたら母上たちかもしれない。なまえは先に部屋に戻っていて」
彼はなまえを奥の扉の前に案内すると、ささやく。
「さあ、願って」
言われるがまま、強く目を閉じたなまえは心の中でくり返し、ゆっくりと扉に手を伸ばす。
「ほんとに繋がるんだ・・・」
「そうでないと、私はあなたのところに行けないよ」
今日は楽しかった、とアルスラーンはなまえの手を取る。
「私のわがままを聞いてくれてありがとう」
「ううん、私のほうこそ。案内してくれてありがとう。すごく素敵な場所だった」
なまえの言葉に嬉しそうな笑みを浮かべた彼は、離れてゆく指先を名残惜しむように一度つなぎ直すと、静かに扉を閉めた。
長い夢から急に現実へと戻って来たようなふわふわとした感覚が冷めやらぬまま、なまえはシャワーを浴びながら考える。
こんなふうにお互いの世界を簡単に行き来してしまって、本当に良いのだろうか。
もしも、あのまま帰って来られなくなったとしたら。そう思うだけで背筋が凍るような気がして、それらを払うように首をふる。
何度も彼から聞いていたパルスという国を、本当に自分の目で見ることができたなんて信じられない。
お尻は痛かったけれど、馬に乗って草原を駆け抜けたのも、焼き林檎の味も忘れることはないだろう。
ひとつだけ気がかりがあるとすれば、ダリューンという人が、自分のことでアルスラーンに妙な疑念を抱くのではないかということだった。しかしそれも、今さらどうしようもできない。
めまぐるしい一日の出来事をベッドの中で数えるうちに、いつしかなまえのまぶたは閉じられていた。


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