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ダリューンは、先立って王太子とその友人を連れて街を案内した時のことを思い出していた。
大陸行路と謳われ、他民族の血が混じることも多いパルスでも、彼女のような顔だちはあまり見かけない。
思い当たるふしがとすれば、絹の国の人々が似たような面ざしをしていたことだが、あの国の出身なのだろうか。だとしたら、いったいどこで彼女と知り合ったのだろう。
「・・・おかしなことにならなければ良いが」
半分は心配しながらも、もう半分では王太子がずいぶん明るくなったことを思い、複雑な気持ちでいた。
毎日、稽古と座学ばかりでは気が滅入ってしまうだろうし、城に似たような年頃の子供はいない。仮にいたとしても、身分がまるで違うのだから友人と呼ぶには難しいだろう。
ふと、中庭へ目を向けた彼は、王太子の姿を見つけて歩き出した。
四方を壁に囲まれるように切り取られたその場所は、強い風が吹くこともなく、おだやかな秋の陽だまりが彩りをいっそう鮮やかなものにしている。
「アルスラーン殿下。何か気になるものでもありましたか」
その声にふり向いた少年が駆け寄って来たため、ダリューンは目を細めて待つ。
「ダリューン、来ていたのか」
「はい。仕事の都合でしばらくは」
ダリューンは、彼が赤い実のついた枝と、何枚かの落ち葉を持っている理由を尋ねた。
「これは、なまえにあげようと思って」
そう口にしてアルスラーンははっとしたが、ダリューンは頬笑んでみせただけだった。
「・・・この間は、街を案内してくれてありがとう」
「いいえ。私も、ひさしぶりにゆっくりと見てまわることができました」
ダリューンは、彼のかすかな変化に気がついていた。
無邪気なばかりであったはずの表情に、時おり物憂げな色が混ざったり、遠いまなざしを見せることさえある。
幼い子供だとばかり思っていたが、十四歳になり、そろそろ多感な時期に差しかかることを思えば当然だった。
「なまえ様は、息災でいらっしゃいますか」
その問いに、すこし間を空けてアルスラーンは答える。
「ああ、元気でいるよ」
「失礼かもしれませんが・・・あの方とは、どちらで」
偶然知り合ったんだ、と言葉すくなにアルスラーンは返事をする。
「悪い人じゃない。ダリューンもそう感じただろう?」
見上げる青い瞳が揺らいでいるのを見てとったダリューンは、「そうかもしれません」と答えを濁した。
「あの人は、私よりもずっと大人だし・・・優しい人だよ」
「では、殿下は良き友を持たれたのですな」
「ああ。大切な人だ。失いたくない」
アルスラーンは、手の中の赤を見つめながら呟いた。

***

アルスラーンの訪問はいつも遠慮がちだった。
「もう少し堂々と入ってきても良いのに」
「でも、なまえの友達や家族が来ていることもあるだろう?留守にしているかもしれないし、ひとりの時間だって必要かもしれない」
理由をいくつも挙げられてしまい、なまえは年下の相手に気を遣わせていたことを知る。
彼が持ってきてくれた赤い実のついた枝を花瓶に挿しながら、「ありがとう。それに、おみやげも」となまえは感謝を述べた。
「きれいだと思ったから持ってきたんだ」
「うん、いい感じかも。落ち葉はしおりにして本を読む時に使おうかな」
「ああ、そうしてくれ」
嬉しそうな表情を見せている彼のために果物でも用意しようと、立ちあがったなまえの背をアルスラーンは見送る。
そして、すっかりお気に入りとなっている図鑑を手に取って眺めはじめた。葡萄や皮を剥いた梨、林檎などを器にのせてなまえが戻ってくると、アルスラーンは目を輝かせる。
「美味しそうなものばかりだ」
「どうぞ。全部剥いちゃったからいっぱい食べてね」
迷った末、アルスラーンは葡萄を選んで口に入れる。
しばらく他愛のない会話を楽しんだ後、なまえは切り出した。
「あのさ。あんまりふたつの世界を行き来するのって良よくないんじゃないかな」
「どうしてそう思うの?」
「だって、もしも帰れなくなったらどうするの?」
そんなこと、とアルスラーンは屈託のない笑顔で言った。
「なまえだってついこの間、パルスに来たばかりではないか」
「それは・・・そうだけど。でも、今回もアルスラーンがちゃんと帰れる保証はどこにあるの?」
それは、彼が来るたびいつもなまえが心配していたことだった。
たとえば何かのはずみで、世界が繋がらなくなってしまったら。
お互いがそれぞれいるべき場所にいる時ならば、寂しいけれど仕方がないかもしれない。しかし、起きるタイミングが彼がこちらに来ている時、またはその逆だったとしたらどうなるだろう。
居場所がない世界で生きていかなければならなくなる。
「じゃあ、・・・私はどうすればいい」
固くなった表情のアルスラーンに問われ、なまえは返答に困る。
「それ、は」
「私は、もう来ないほうがいい?」
「そういうわけじゃないけど」
「だってそうだろう?なまえが言うのは」
泣きそうな顔をしているアルスラーンに、「私だって、なにが正解なのか分かんないよ」となまえは困惑して答える。
すると、彼は思いもよらない言葉を口にした。
「分かった。・・・もう、ここには来ないよ」
「アルスラーン、」
「なまえが言うように、たぶんそれが正解なんだろう」
立ち上がったアルスラーンは、驚いて目を見開いているなまえに微笑みかけると言った。
「なまえと一緒に過ごした時間は、かけがえのないものだった。絶対に忘れない」
たった一言「ありがとう」と残し背を向けた彼は、あっという間に扉の向こうへと姿を消してしまう。
「・・・うそ」
突然の出来事を、なまえは理解できない。急に静かになってしまった部屋の向こう側に彼が行ってしまったことを分かってはいても、体が動かないのだ。
なにが正しくて、なにが本当かなんて、いったい誰が分かるだろう。
不意に、鮮やかな赤い実が目に飛びこんでくる。こんなはずじゃなかったのに、と声には出さずに呟いた。

***

アルスラーンが扉の向こうに消えてから、一週間が経つ。
あの日を境に、彼が部屋を訪れた気配はない。一日が終わっても部屋は暗いままであったし、多めに食事を作ることもいつしかやめてしまった。
本来の生活が戻ってきただけだというのに、どうしてこうも空虚に感じるのだろう。慣れていたはずの静かな夜が、今のなまえにはとても長いものに感じるのだ。
なにが正しいのかをあれほど力説していたというのに、いざ蓋を開けてみれば落ち込んでいるのは自分だと気づいていやになる。
「こういうのを、馬鹿みたいって言うんだろうなあ・・・」
浅く湯を張ったバスタブに浸かりながら、なまえは呟く。あてもなく思い巡らせるのは、もしものことばかりだった。
あの瞬間、なにかのはずみで繋がりが閉じてしまい、帰れなくなったアルスラーンがこの部屋で暮らさなければいけなくなったとしたら。
食べ盛りとはいえ、食事や生活面での面倒はなんとかみることができるかもしれない。
しかし、この国の、ましてやこの星の人間かどうかさえ分からない存在の彼に戸籍などあるはずもなく、学校に通うことさえできない。
自分が描いているビジョンはすべて、都合が悪い部分にだけ目を瞑った単なる理想論にすぎなかった。
急にそのことを思い知った瞬間、なまえの目から涙があふれ出す。
バスタブの縁に腕を投げ出し嗚咽を殺そうとするも、バスルームに反響した呼吸が痛いほど突き刺さった。
すべてを理解し、身を持って行動したアルスラーンのほうがよっぽど大人だ。
涙に侵された思考が感情的になるのをやめる頃には、すっかり湯船が冷めてしまっていた。

***

「アルスラーン殿下。今日はまったく稽古に身が入っておりませんな」
あきれたような指摘をされても、今の彼に反論の余地はない。使い慣れたはずの剣ばかりでなく、脚も、腕も、まるで他人の物のようだった。
そばに控えている女性たちが向ける心配そうな視線さえ煩わしく、アルスラーンは人目を避けるようにしてその場から立ち去る。
行き場のない気持ちを受け止めてくれるのは、いつもなまえだった。逃げ道を塞いだのは他ならぬ自分自身であることを、分からない彼ではない。
しかし、正論だからという理由でどんな時でもそれを受け入れることは難しい。
体を清め、夕食もほとんどとらずに部屋へと戻ったが、見慣れている景色のはずなのになぜだか違和感を覚える。
入り口から先へは進もうとはせずにゆっくりと室内を見回して、用心しながらアルスラーンは足を忍ばせた。
しかし、すぐにでも兵士を呼ばなかったのは、その違和感にわずかな希望を抱いているからだった。
部屋の隅や、暗幕の陰を調べていた彼は、一番奥の部屋の扉からかすかな光が差していることに気がつく。
それは誰にも打ち明けたことがない、秘密の扉だった。手を伸ばしかけたものの、しりごみしたように力なく握りしめる。
自分に、ふたたび彼女を求める資格があるのだろうか。
すると、境界線の先からささやくような声が聞こえた。
「アルスラーン・・・そこにいるの?」
今度こそ彼は、なつかしい名前を呼んだ。
「なまえ」
開かれた扉の向こうからもおずおずと腕が伸ばされているのを知り、ためらわずに触れる。
「ああ・・・会いたかった、なまえ」
なつかしさを感じるほど会えない時間は長いものではなかったが、彼にとっては一日も千夜も同じだった。
喜びをにじませているアルスラーンとは反対に、なまえは目を伏せたままでいる。
正しい線の上を簡単に飛び越えてしまえるほど、勇敢でも無謀でもないはずだった。それならばなぜ扉を開いたと問われてしまえば、なまえは答えを持っていない。
「アルスラーン・・・ごめんね」
責められることを覚悟していた彼は、予想もしない言葉に戸惑う。
「なぜ、なまえが謝るの?」
「アルスラーンの行動は正しいのに、私は・・・会いたくて、たまらなかったの」
その言葉を聞いて、アルスラーンは触れるばかりだった指先を絡めとり、しっかりとつないだ。
「会いたかったのは私も同じだ。だから、そんなに自分を責めないでくれ。・・・お願いだから今夜だけそばにいて」
彼の願いを、なまえはしりぞけることができない。それ以外の答えを選びとれるほど、強くなかった。
布団を境界線まで運んできて敷く。
アルスラーンは、ひとりでもなお余るほど広い寝台の端に身を寄せた。
ささやき声の会話は、夜の海にちいさな波を打ち寄せる。
「私がいない時にこの部屋へ来た?」
「あ・・・気づいてた?」
謝る相手に、アルスラーンは「良いんだ、それで元どおりになったんだから」と答える。
「もしもこのまま帰れなくなったとして・・・それでも良いと思う私がいる」
最低だな、と彼は呟いた。
「きっとだめだよ・・・うまくいくはずがないもの」
胸に抱かれたまま呟く彼女に、アルスラーンは尋ねる。
「本当に?誰がそんなことを言ったの?」
眠ろうとしている瞳を互いに覗きこみ、言葉を続けようとするもそれはかなわない。ふたりの意識は暗闇に手放され、かわりにつかの間の安らぎと休息を得ていた。

***

静かな部屋に聞こえているのは、くつくつと規則的にうなずいている鍋の音だけだった。
どちらの世界にも行かないという条件を満たす逢瀬は、ふたつの部屋の境界線のすぐそばで行われている。
「今日はいつも稽古をつけてくれている先生に用ができたから、午後から自由だったんだ。そうしたらたまたまダリューンの手が空いていて、一緒に街へ出かけたんだよ」
彼を覚えているかと問われたなまえは、男らしさにあふれた逞しい姿を思い出し頷いた。
アルスラーンは、ダリューンがどれだけ素晴らしい人格の持ち主で、またどれだけ立派な武勲を立ててきたかを説明したつもりだったが、おかげでなまえの中ではいささか誇張された傑物のイメージができあがっている。
「アルスラーンは、ダリューンさんのことがとても好きなんだね」
「ああ。私もあんな風に強くなりたい。国も、民も、それからあなたのことも護れるように」
かなわぬ願いともとれる言葉を口にした彼にどう答えるべきかをなまえが迷っていると、
「それは今ではないのだと思う。ただ、私が残したものがなにかの形で、なまえのためになる時がくれば良いと思っているんだ」
なまえは、彼の真摯な光をたたえている瞳にふしぎと心が反応をしてしまうことに気づいていた。
それはきっと良くない兆候であったし、見ないふりをするつもりでもいる。
もう二度と境界を越えるようなことはしない。
願望を理性で強く押さえつけているのは、決してどちらか一方だけのことではなかった。

***

初陣。
義務的に用意された言葉だけが、少年の心の奥深くに突き刺さる。
戦場に身を置くことはすなわち、すべてが死と隣り合わせであり、それもただ生き残るのではなく勝利を確固たるものとしなければならない。
そして、自らが華々しい戦果を上げるのではなく、国王がそうするのを手助けするのがもっとも望ましいやり方だった。
死んでゆく人間が敵でも味方でも、それぞれに未来があり、大切な存在がいるとすれば、自分はその人にとっていったい何者になるのか。
まだ清らかであるはずの両手がみにくいものへと姿を変えようとしていることが、アルスラーンにはたまらなくおそろしかった。
「アルスラーン殿下」
不意に名前を呼ばれ、彼は顔を上げる。
「!ダリューン」
赤いふさべりのついた雄々しい兜を抱えた姿を目にして、アルスラーンは冷たい考えを手放す。
「お久しゅうございます。地方での任についておりましたため、挨拶が遅くなり申し訳ありません」
「いや、気にしていない。それよりも無事で何よりだ」
日常を王都で過ごす者はたいてい、短期とはいえ地方へ赴くことについて良い顔をしないことの方が多い。しかしダリューンにとって、そんなことは些末な問題であり、今回も顔色ひとつ変えずに職務を全うしてきたのだった。
アルスラーンにせがまれて土産話をしていた彼は、ずっと心の中にしまっていた疑問を口にする。
「殿下、無礼を承知でお尋ねします。・・・なまえ殿という方は、女性ではありませんか」
「やはり、気づいていたか」
アルスラーンの返答に、ダリューンは拍子抜けしてしまう。目の前の相手が狼狽してしまうかもしれないと悩み、今までずっと黙っていたことを彼があっさりみとめてしまったからだった。
「きっといろいろ気を遣わせてしまっていただろうな。すまない、ダリューン」
「いえ・・・殿下、あの御方はいったい、」
すると彼の言葉をさえぎり、アルスラーンは言った。
「今はなにも聞かないで欲しい。ただ、・・・あの人は私にとって、本当に特別なんだよ」
特別という表現がどのような意味を持つのかを知らないダリューンは戸惑う。
「心配しなくても悪い人間ではないよ。それは私が保証する」
「それならば良いのですが」
答えに納得していないことをアルスラーンは分かっていたが、これ以上詳しいことを述べるつもりはない。たとえ出会いから説明したところで、誰であれきっと、すべてを信じるのは難しいと思うからだった。
「ダリューンは、なまえをどう思った?」
「どう、・・・とは」
「この間、一緒に街へ行ったじゃないか」
絹の国に住む人々と似たところのある彼女の顔立ちを細部まで思い出すのは難しかったが、控えめながらも王太子と対等な様子で会話をしていたからこそ、違和感ばかりを覚えている。
「ずいぶん親しいご関係であるような印象を受けました」
「そうかもしれない。あの人にはとても良くしてもらっている」
「殿下は、あの御方をどのようにお思いですか」
核心を突くようなその問いに、アルスラーンはしばらくして、
「幸せになってほしいと願っているよ」
と静かに答えた。

***

最初に別世界に足を踏み入れた時から、気がつけば半年が過ぎていた。
彼を取りまく環境は確実に変化しており、いつまでも無垢ではいられないことを身を持って知る時が来ようとしている。そのことを告げようと何度も決意したはずなのに、目の前の幸福がそうさせてはくれない。
「アルスラーン、どうしたの」
なんだか顔色が悪いみたい、と心配そうな顔を見せるなまえに、アルスラーンはようやく心を決める。
「なまえ。私たちは、多分もうあまり会えない」
「・・・どうして?」
「初陣が決まったんだ」
そう答えた瞬間、なまえの顔から色が失せる。
「初、陣・・・?」
「そうだ」
「戦争するの、」
「ああ。初めて、戦場の土を踏むことになる。それがどういうことかは、自分の目でたしかめるしかない」
大きく目を見開き、ふるえる唇でなまえは呟いた。
「そんなの・・・アルスラーンが死ぬかもしれないのに」
「なまえ・・・頼む、泣かないでくれ」
大粒の涙で頬を濡らす彼女を抱き締めると、悲しみがいっそう溢れだすのを感じてアルスラーンは深く息をはいた。
「戦とはそういうものだよ」
「そんなのひどい・・・死ぬかもしれないのに、どうしてアルスラーンが行くの」
幸せな世界で生きている人だとアルスラーンは感じる。争いや死と隣り合わせの生き方を、彼女は知らないままで良い。
自分と同じ世界で生きることは、たとえどれだけそばにいたいと思ってもやはり間違っているのだ。
もうあまり見ることのない部屋を、滲む瞳で見上げた彼は考える。
出会わなければ、何も考えることなくただ敷かれた道の上を歩くことができていたのだろうか。それとも、彼女との出会いがさまざまなことを教えてくれたのか。
「電話」
「・・・な、に?」
「前に、なまえが電話は遠くにいる相手と話すことができると教えてくれた。欲しいと思ったんだ」
涙に負けてただ名前を呼ぶことしかできないなまえの頬に手を添え、アルスラーンは語る。
「離れていても、絶対にあなたのことを忘れない。どうか覚えていて、私のことを」
「アルスラーン。絶対に、忘れない」
一度だけ重ねられた唇をとがめる者は誰もいない。
積み重ねられた想いがようやく実を結んだ瞬間、運命によって手折られることをいったい誰が望んだのだろう。

***

日常が、以前と変わらぬ色を取り戻し始めている。すべてを過去にする前に、最後にアルスラーンのいた場所を見たいとなまえは願った。
まぶたの裏に焼きついて離れない鮮やかな世界を守るため、彼が先へ進もうとしているなら自分もそうあるべきだ。
きっと今もまだ無人のままでいる部屋の扉を、静かに開く。しかし、ゆっくりと視界に映った景色を認識した瞬間、なまえの唇は言葉を失ったまま「どうして」と動いた。
記憶の中の景色と、それはあまりにも違いすぎていた。
蹂躙された部屋にためらうことさえ忘れて踏み入れ、窓の外に身を乗り出してたしかめる。宮殿も、街も、すべてが破壊し尽くされていた。
地面に赤く滲んだ模様が何であるかを理解した時、麻痺していた感覚と恐怖がようやく混ざりあう。戦争は、戦場だけで起きるのではないことを悟った彼女のすぐそばに、侵略、そして死が迫っていた。
「アルスラーン・・・どこにいるの」
当然生きているものだと、なまえは必死に自分に言い聞かせる。そうでなければ、たどりつけない。

***

パルスの宮殿から自室へ駆け戻った後、今度はどこにいるとも分からない少年の居場所を思い描く。もしかしたら砂塵の舞う戦場であったかもしれないのに、そうせずにはいられなかった。
心の中で何度も願いをくり返して、意を決したなまえはようやく扉を開く。そして、姿の見えない誰かに案内されるまま歩き出した。
石造りの高い天井を囲む壁、絢爛な装飾はひとつもない部屋を見まわしたなまえは、ここに本当にアルスラーンはいるのだろうか、と考える。同時に、それとは別の考えが頭をもたげた。
たとえそうであったとして、なんの力も持たない自分が彼のためにできることなどはない。シチューをふるまったり、眠るまでそばで話を聞くこととはわけが違う。
流血に染められたパルスの姿がいつまでも記憶から離れず、なまえは思わず口元を手で押さえる。
動かなくなった体、今まさに振りおろされようとしている剣、ぎらついた兵士の目。無力な人々に容赦なく牙を向き、襲いかかっているのが同じ人間であることがおそろしかった。
もしかしたら、もう生きてはいないのかもしれない。
一瞬でもそう思ってしまったことをなまえは悔み、なんとかして自分を奮い立たせようとする。遠くの空のどこかで甲高い鳥の声が響き渡り、吹き抜けている窓の向こうに力なく視線を向けた。
その時、
「そこにいるのは誰だ」
背中越しに緊張した問いが投げつけられ、なまえは呼吸が止まる。
体が自分の物ではなくなったかのように動くことができず、近づいてくる足音にすべての神経が集まるのが分かる。
「・・・なまえ・・・?」
その声を聞いて相手が誰であるかを知った瞬間、なまえはゆっくりとふり向いた。
「アルスラーン・・・」
あどけない少年の頃とくらべて、整った面ざしには青年の凛々しさが増し加わっていた。彼は、これ以上ないほど大きく目を見張って呟く。
「なまえなのか・・・?本当に?」
触れてたしかめようとした彼だったが、自分の手はもう彼女が知るものではないことを思い出し、そうするのをためらう。
生きてた、となまえは涙をが滲ませて口にする。こみ上げてくるものをどれだけ堪えようとしても、それは叶わなかった。
「なまえ、」
崩れてしまいそうになる彼女の体を、ついにアルスラーンは両腕でしっかりと抱き締める。
これが夢なら、どうか覚めないでほしかった。次々になつかしい思い出が浮かびあがり、慕い求めていた存在がすぐそばにいることを強く理解する。
「ずっと会いたかった、なまえ。どれだけ願ったか」
「アルスラーン、やっと会えた・・・パルスが」
とぎれとぎれの言葉を聞いて、彼は驚いてなまえの顔を覗きこむ。
「パルスに行ったのか?」
「街が荒らされていて・・・あちこちで火も、それから」
青ざめる相手の表情からすべてを悟ったアルスラーンは、きつく唇を噛んだ。
「今は耐えるしかない。だが必ず、パルスを取り戻す」
なまえ、と彼は優しく名前を呼ぶ。
「あなたはここにいてはいけない。すぐに帰りなさい」
「でも、」
「私は大丈夫だ。ダリューンも、それから支えてくれる人たちもいる。ここはなまえにとっては危険な場所だ」
予想していた言葉に、なまえは涙に濡れたままぎこちなく返事をする。頬に伝ってゆく筋を優しく指先でぬぐってやりながら、アルスラーンは続けた。
「必ず生きて帰る。私は私の道を行くから、あなたもそうしなさい。きっとそれが一番良いのだから」
相手のために紡いでいるはずのそれらが、自分自身の胸にも深くつき刺さる。いつか彼女が告げた言葉を自分がくり返すことになるとは思わず、アルスラーンは苦笑した。
「最後に、会えてよかった」
「私もそうだ。あなたの方から会いに来てくれて、本当にありがとう」
「・・・ありがとう、アルスラーン」
「・・・ありがとう、なまえ。愛している」
彼はなまえの返事も待たずに背中を押してうながす。
「さあ、行きなさい」
それに従ったなまえだったが、別の理由で頭の中が真っ白になる。
扉が、つながらない。
何度やっても同じで、アルスラーンが試してみても結果は変わらなかった。
「どうして・・・今まではできたのに」
動揺している相手に、彼はつとめて何事もないかのように声をかける。
「きっとすぐに帰れる。今は疲れているだろうから、少し休むといい」
誰のものとも分からないその気まぐれが解かれるのを、願うことしかできない。


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