5



広間には、すでに部屋で休む支度を整えていたダリューンやナルサスといった顔ぶれが控えている。
突然の招集を訝しんでいるような表情を浮かべたギーヴだったが、本当のところ、ただ眠いというのが不機嫌の理由だった。
しばらくして、扉の向こうから現れた歳若い主君を彼らは出迎えたが、その後ろに見知らぬ人影がいることに気がつく。
「おや、」
顎に指を当て、軽く口笛を吹いた楽士をファランギースは見咎める。
「不敬なことをするでない」
アルスラーンは、全員の顔を見渡して口を開いた。
「遅い時間なのに呼び出してすまない。実は、会わせたい人がいるんだ」
ダリューンは思わず、「どうして、ここに」と呟く。あの時も、今も、彼にとっては分からないことばかりだった。
「知っているのか、ダリューン」
ナルサスに訝しげな視線を向けられても、彼は答えることができない。
「本当は、は誰にも言わないつもりだった。もう二度と会わないつもりだったし、会えないものだと思っていたから」
「ほう、殿下にそのようなお相手がおられたとは」
お主は少し黙っておれ、とファランギースが彼を制す。
「アルスラーン殿下。申し訳ないが、話があまり見えません。まず、その女性はどのような身分の方で、いつ、どうして現れたかを教えていただきたい」
ナルサスの問いに、アルスラーンは答える。
「彼女の名はなまえという。なぜ、今ここにいるのかということは、初めて出会った時から話す必要がある」
そこで言葉を切ると、彼はこれまでの経緯を丁寧に説明した。
「では、彼女は別世界から来たと・・・殿下は申されているのですか」
「そうだ。信じられないのも当然かもしれないが」
ナルサスは、旧友の表情を盗み見る。以前に彼女と会っていることを話の流れから汲みとり、どのような反応をするのかを知りたかったからだった。
アルスラーンに促され、歩み出た彼は声をかける。
「お久しぶりです、なまえ殿」
「あの時はお世話になりました。ダリューンさん」
不安そうではあったが、しっかりと目を見て答える相手に彼はかすかだが好感を抱いた。
ダリューンは、旧友がどのような懸念を抱いているのかをはっきりと理解しているつもりでいる。
しかし、目の前のふたりが以前に交わしたやり取りを思い出すと、なにもかもを否定することがためらわれてしまっていた。
その先の会話が続かないでいるのを興味深そうに観察していたギーヴは、ナルサスに意見を聞く。
「軍師どのはいかがかな」
「そもそも、殿下ご自身が信じきっておられる内容そのものがまやかしかもしれない。疑う理由ならいくらでもある」
「ほう。それで?」
それには答えず、ナルサスはアルスラーンに尋ねた。
「殿下はその方どのように遇されるおつもりですか」
「なまえは自分の意思で帰ることができない。だから、扉が開くまで共にいてもらう」
うなずいたナルサスはギーヴにささやく。
「ご意思が固いものであることをお前も聞いただろう」
「それはまあそうだが」
ファランギースとアルフリードは黙ったままでいる。
「帰る場所がないのなら、こちらに身を置くしかありません。とはいえ」
言葉を切ったナルサスは、アルスラーンに向かって言った。
「見たところ、どうやら戦いには不慣れであるように思われますな」
「なまえは戦ったことは一度もない」
ナルサスは今度はなまえに問いかける。
「あなたは剣を振るうことができますか」
いいえ、と消え入るような返事に、彼は「では、弓を扱ったことは?」と重ねて質問をする。
「ありません」
「そうでしょうな」
彼はアルスラーンのほうに向き直ると、冷静に告げた。
「今がどのような時であるかは殿下もご存じのはず。少なくともご自分の身を守れることが最低条件でしょう」
「それならば話は簡単だ。ペシャワール城にいてもらえば良い」
ふいに割り込んできたギーヴをナルサスは軽くにらむ。
「・・・そういうことです、殿下」
それを聞いてアルスラーンは了承する。
「そうしよう。では、ファランギースとアルフリード。なまえのことを頼まれてくれるだろうか」
かしこまりました、とふたりはうやうやしく頭を下げた。
「なまえ。今夜は安心して休みなさい」
「うん・・・ありがとう、ございます」
なまえのぎこちない返事に、アルスラーンはつい笑い声を立てる。
「無理にかたくるしい言葉を使わなくても良い。今までもそうだったのだから、これからもそうしてくれ」
部屋を出ていく女性たちの後ろ姿を見送っている彼に、ナルサスは「さて」と言った。
「アルスラーン殿下。まだ、ご説明頂きたいことが山ほどございます」
「私のほうはもうこれ以上、話せることがないんだが・・・」
「その別世界とやらをこの目で見られぬかぎり、私には信じることが難しく思えますな」
「ナルサスは、殿下の言葉を信じられないと言うか」
「俺は殿下を否定しているのではない。では聞くがダリューン、お前が俺の立場だとして頭から鵜呑みにすることができるのか」
強い語調で尋ねられ、ダリューンは答えに窮する。
「それは、」
「できぬだろう」
それまでずっと黙っていたエラムは「ですが」とようやく声を発した。
「殿下はこれまで、あの方と過ごす機会が何度もあったのでしょう。ナルサス様は、それらの記憶がすべて作られた偽りだと申されるのですか」
アルスラーンは落ちついた声でそれを否定した。
「私はたしかにあの人と共に時間を過ごし、たくさん世話になった。彼女の住む文明の進んだ世界をこの目で見て感じたのだ」
「では、百歩、いいえ千歩ゆずってそうだとしましょう。あの方は、殿下にとってどのような存在であられますか」
「どのような、とは?」
「女性として好いておられるのか、という意味です」
ナルサス!とダリューンは声を荒げた。
「まあまあ、ダリューン卿。良いではないか。この話、俺は大いに興味があるぞ」
「ギーヴは少し黙っていてくれ」
そう言ってナルサスは軽く頭を振ってため息をついた。
「今がそのような時でないことは理解している。しかし・・・こればかりはどうしようもないんだ」
アルスラーンは肯定も否定もしない。しかし、その一言がすべてを物語っているのは明白だった。
何かを言おうとして唇を開きかけたナルサスだったが、それを飲みこんで別の言葉を口にする。
「今夜はもう遅い。あとは明日、また陽が昇ってからにいたしましょう」

***

「寝巻きはこれで良いんじゃない?」
アルフリードの言葉に、ファランギースは頷く。
「そうじゃな。少し大きすぎる気もしないではないが、今日のところは我慢していただこう」
あれこれと気遣ってくれるふたりになまえは先ほどから頭が下がりっぱなしだった。
「なまえ殿、あいにく戦の最中なものでな。良い物ばかりをそろえてやることもできぬが」
「いいえ。私が勝手に来てしまったのに・・・本当にすみません。ありがとう」
「だけど、なまえ殿は”アルスラーン殿下のご友人”なんでしょ?」
長い名称をたどたどしく口にしてみせたアルフリードは、客人の姿をまじまじと眺めやる。
「アルフリード。そんなにいつまでも見つめるものではない。穴があいてしまうぞ」
ごめんつい、そう言って彼女は舌を出して笑った。
「だけど、なまえ殿ってさ」
殿って付けていただかなくても、と彼女が思わず苦笑いを浮かべると、アルフリードは「ほんと!」と弾んだ声を出す。
「実はあたしもちょっと苦手だったんだよね。ファランギースもそうでしょ?」
ファランギースはそれには返事をせず、別の言葉を口にした。
「本当に、不思議なこともあるものじゃ。・・・異世界から来た客人とはな」
「信じてはもらえないと、分かってはいるんですけど」
「なにを言う。おぬしがそれを真実だと言うなら、堂々としていれば良い。実際、殿下のおそばには素姓のはっきりせぬ輩もいる」
わざと名前を言わないまま、ファランギースは肩をすくめてみせた。
「だが、ナルサス卿の言うことも一理ある。これも殿下をお守りするためじゃ、分かってくれ」
自分の立場をわきまえていないわけではない。
招かれざる者としてそれなりの扱いを受けても当然であるのに、そうされていないのはアルスラーンの証言があるからだというのも理解している。
自らの行動が招いた結果とはいえ、帰ることができないという事実を突然つきつけられ、頭が回らない。
ファランギースは、なまえが首から金の鎖を下げているのを見て尋ねた。
「その首飾りは大切な物なのか?」
言われて初めて、なまえは思い出したようにそれに手を触れる。
「これは前にアルスラーン・・・殿下から頂いたんです」
「殿下から・・・少し、見てもかまわぬか?ああ、そのままでいい」
注意深く飾りを見つめていたファランギースは、やがて形の良い唇を開いた。
「パルスの王家に伝わる紋章が刻まれている」
へえー!と驚いて目を丸くしたアルフリードは、目の前で価値がついたそれをまじまじと見つめる。
「言われてみれば、ずいぶんご立派な贈り物だね」
「王族以外はその紋章を使うことはない。殿下から正式に賜ったとなれば、確かな立場を示す証拠にもなるであろうな」
ファランギースが目を細めるのを見て、なまえの指は無意識のうちにそれをもてあそんでいた。
「きっと殿下は、万が一の時にそなえたのだろう。そのまま持っているほうが良い」
その忠告を聞いたなまえは、素直に従う。
その時アルフリードは、あることに気がついた。
「なまえってパルス人でもないのに、パルス語をすごく上手に使うんだね」
「・・・パルス語を?」
考えてみれば、なぜ自分は言語の異なる彼らとあたりまえに会話ができるのだろうか。
「ごめんなさい、分からない」
はっきりとしない彼女の返事に、ふたりはさりげなく顔を見合わせる。
「もう夜も遅い。そろそろ休もう」
ファランギースの言葉を機に、会話を切り上げることにした。
明かりの消えた静かな部屋で見上げた月は、自分の知っている姿で地上を照らしていることを知って、なまえの心は少しだけ落ち着きを取り戻すのだった。

***

ようやくペシャワールにたどり着いたと思えば、正統の国王を名乗る銀仮面の男が忍び込み、王太子の出自を脅かす言葉で老将軍の心をかき乱す。
一方で、パルスの混乱をこれ幸いとばかりに攻め込んできたシンドゥラの第二王子ラジェンドラと相対し、同盟を結ばせる。
短い間に起きたこれらすべてに冷静に対処してきた智将の知恵を持ってしても、なまえという存在にはっきりとした答えを出すことができないでいる。
「どう思う、エラム」
「さあ、どうでしょう。おそらく、私などよりもナルサス様のほうが答えに近いところにいるのではないでしょうか」
「そうではない時だってあるさ」
苦笑を浮かべた軍師は、自分の侍童が朝食の支度を整えていることを知り尋ねる。
「彼女の所へ持っていくのか」
頷いた少年にナルサスは、「くれぐれも丁寧に接してくれ」と言った。
「殿下の大切なご友人だからな。・・・今のところは」
それを聞いたエラムは、何も言わぬまま一礼して部屋を後にした。
彼自身では、このことに関して自分がどう思うかよりも、彼の主人がどのような決定を下すかということのほうが重要だった。
客人の部屋を訪れたエラムは、無駄口を聞かず、淡々と料理を並べてゆく。
それを何も言わぬまま見つめられているのをやがていごこち悪く感じたのか、すべてを終えたところで当たりさわりのない質問を投げた。
「昨夜は、よく眠れましたか」
とたんに緊張の色を顔に走らせた相手が「はい」と答えたのを見て、エラムは戸惑う。
「そう、ですか。それは良かったです」
「あの、朝ごはんありがとうございます。わざわざ、」
「これが私の仕事ですから。失礼いたします」
礼儀正しく頭を下げた少年に、唇を開きかけたなまえだったが思い直してやめた。ファランギースもアルフリードも、今朝早く部屋を出てからまだ戻ってはいない。
ひとりきりの静かな室内で食べる朝食は馴染みのないものばかりで、それが美味しいのかも分からないままなまえは無理やり飲み込んだ。

***

城内のある部屋で、ナルサスはアルスラーンに尋ねた。
「殿下は今後、あの方を我々と同行させるおつもりですか?」
くり返される問いに、アルスラーンは深く頷いて答える。
「私は、いつかなまえが帰ることができなくなったとしたら、必ず守ると心に誓った。それが実現しただけで、今さらくつがえすつもりはない」
その言葉にしばらく考える様子を見せたナルサスは、やがていつものようにどこか余裕のある笑みを浮かべる。
「殿下のお心が優しいものであることは良く分かりました。思えばギーヴもアルフリードも、同じ世界の出自であるというだけで今すぐ身元を確かにせよと言われれば難しいのは同じ。そこでぜひとも、私に試験をさせていただきたい」
「それは、どのような?」
「簡単なことです。おそらく合格するでしょう。ですが、もしもできなければ彼女の身を守るためにも、どこか別の場所へ落ち着いていただかなくてはなりません。そうすれば、敵を前にしておびえることもなくなる」
試験の内容までは明かされなかったものの、ナルサスを信頼しているアルスラーンはそれを了承し、外に立っていた兵に彼女を連れて来るよう命じた。

***

なまえは、目の前の聡明なまなざしをした相手が、自分に告げた言葉を心の中でくり返す。
あなたには、これから少しの試験を受けていただきたいと思います。
それに対して自分は、はいと答える以外の手段を持たない。
「まず最初に。なまえ殿は男性ですか、それとも女性ですか」
思いもよらない質問をされてに面食らうものの、「女性です」とためらいがちになまえは答える。
「では、赤と青を掛け合わせると何色になりますか」
もしかしてなにかひっかけでもあるのかと思いながらも、素直に紫、と言った。
「あなたが今朝食べたパンの数と、それを運んできた者の名は」
「2個、・・・分かりません。名前を聞いていないので」
「アルスラーン殿下という方は、あなたにとってどのようなお人ですか」
その問いに、なまえはしばらく考えこむ。そして、
「・・・優しい人です、とても。こんな大変な状況なのに、私ひとりのためにいろいろと良くしてくださって」
では最後、とナルサスは口端を釣り上げる。
「今までの質問は、なまえ殿の耳にはどこの国の言葉に聞こえましたか」
「・・・全部、私の国の言葉で聞こえます」
その答えに、満足そうな笑みをたたえた彼は、アルスラーンの方に顔を向けて言った。
「いかがでございますか、殿下」
「・・・信じられない」
交わされている会話の意味が分からないでいるなまえに、アルスラーンは輝いた目をして告げる。
「あなたは今、すべて別の国の言葉で尋ねたナルサスに答えることができたのだよ」
「別の国の言葉?」
「そうです。私は先ほど、パルス、シンドゥラ、トゥラーン、ミスル、ナバタイ国の言葉でそれぞれ質問しましたが、なまえ殿はどれも正しく、しかも発音も正確に返事をされたのです」
なまえが耳を疑っている間も、アルスラーンは納得した表情でナルサスに言った。
「そういえば、私が初めてなまえと出会った時もそうだった。当然のようにパルスの言葉を話すものだから、疑問にすら思わなかったんだ。不思議だな」
「理由は分かりませんが、すばらしい特技と言えるでしょう。では次」
私の指示するとおりに図を描き起こしていただきたい、とナルサスはなまえに細筆を手渡す。
彼の言葉に従って慣れぬ筆先をなんとか動かしていると、それを見つめているアルスラーンは呟いた。
「これは、パルスにある山間部の地形だ。地図で見たことがある」
「ええ、千分の一に縮尺したものです。よろしい、このへんで終わりにしましょう」
合格です、と言われてなまえは瞬く。
「合格、ですか?」
「試験などと言ってあなたを試してしまったが、どうしても理由が必要だったのです」
国を取り戻すために前進する旅に、何もできない者を連れて行けるほどの余裕はない。
くわえて彼女自身が引け目を感じないよう、王太子のために力を尽くせる理由が必要だった。
「では、これでなまえが共に行くことに異論はないのだな」
「ええ。なまえ殿には、これからエラムと共に私の補佐をしていただきたく思います」
パルスの武人の中には私の絵心を解さぬ不心得者がいるようですが、そう皮肉ともとれる前置きをした宮廷画家志望の彼だったが、
「しかしそれも、彼女の筆の才には不満はありますまい」
と微笑んでみせた。
なまえは目の前の相手に深く頭を下げる。
「ありがとうございます・・・私、頑張ります」
「なまえ、どうか頭を上げてくれ」
彼女の元に駆け寄る王太子の姿を眺めていたナルサスは、これで良い、と自分に言い聞かせる。
いずれ別の問題が生じることは明白だったが、今はまだそこまで気を回す必要がないと、彼は考えを巡らせていた。

***

なまえが正式にパルス軍に加わることに対し、異論を唱える者はいなかった。
ナルサスが行った試験の内容を聞いたアルフリードは「へえー!」と感心したように何度も頷いてみせる。
「だけどあたしはむしろ、ナルサスがいくつもの言葉を話せることにも驚いたけどね」
あたしは将来あの人の妻になるんだよ、と自慢げに彼女が語っているのに、ナルサスは聞こえぬふりを貫くつもりらしい。
「お前の未来の妻が、お前のことをなまえ殿に話しているぞ」
「それは後ほど俺から訂正しておく。ところでダリューン、俺はまだお前自身の考えを聞いていないぞ」
「それは、・・・」
「殿下がそう言っているのだから、という理由で自分を納得させようとするな。でないと、いつか不信の芽になる」
ナルサスの頭の中ではすでに、シンドゥラへと進軍する部隊の編成が整えられていた。
しかしもちろん、その中になまえの名はくわえられていない。
彼女の身は、ペシャワール城を預かる万輝長キシュワードにゆだねられることとなった。


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