6



いつものように自分の作った料理をテーブルに広げていたエラムは、何気ないふりをしながら視線をなまえへと向けた。しかし期待は裏切られ、ぼんやりとこちらの動きを見つめていたまなざしとぶつかってしまう。
「あ、失礼しました」
「すみません、めずらしいものが多いからつい眺めてしまって」
めずらしいものですか?と、彼は聞き返した。するとなまえは立ち上がって、そばまでやって来ると皿を示す。
「これも、これも。全部見たことがない料理ばかり」
「これは羊肉を半日煮込んだものです。それからこっちはナン、これは山羊の乳のヨーグルト」
なまえは、こちらの世界へ来てから食べたヨーグルトは自分の知っているとは違っていたことを思い出す。爽やかさの中に独特の味わいが混ざり合い、食べ終わる頃にようやくそれがにんにくの風味であることに気づいたのだ。
「全部、エラムさんが作るんですか?」
「はい。殿下やナルサスのお口に入る分は私が」
そう言いかけて、エラムは提案する。
「どうか私のことはエラムとお呼びください、なまえ様」
「それなら、私のことも名前だけで呼んでください」
「それはいけません。なまえ様は、殿下の大切なお客様ですから」
しかしなまえは食い下がる。
「でも、私は今はナルサスさんの仕事を手伝うことになっています。できることはほとんどないと思うけど・・・優遇されるような立場ではないと思うんです」
思わぬ反撃に、エラムは戸惑いをかくせない。これまで彼女がこんなふうに自己主張をする姿を見たことがなかったのだ。
「エラムさん、」
「分かりました、分かりましたよ。・・・でも、やっぱり呼び捨てというわけにはいきません。私はなまえさんと呼ばせていただきます」
エラムの答えを聞いて、ようやく相手は納得したのか笑顔を浮かべた。
「過ぎたことを言うかもしれませんが」
そう前置きすると、彼は「なまえさんは笑っている時のほうがずっと可愛らしいと思います」と言った。
「なにを言って、」
「私は別の仕事がありますので失礼いたします。それでは」
返す言葉を失ったまま、なまえは後ろ姿を見送る。ずいぶん若く見えるが、もしかして自分よりも年上なのだろうか。
そんなことを疑ってしまうほど、さらりと顔を熱くさせる一言を口にした彼に、なまえは恥ずかしさを通り越して関心すらおぼえてしまうのだった。

***

遠征の前夜、アルスラーンは自分の部屋になまえを招いた。
久しぶりにおとずれた二人きりの時間であるにもかかわらず、どうしてか照れくささや戸惑いが混ざっているような気がして、先ほどからずっとぎこちない会話しかできていない。
「こちらに来てから、なにか困ったことがあるだろうか」
アルスラーンの問いかけに、なまえは首を横にふる。
「ううん、大丈夫。ファランギースもアルフリードも、すごくいろいろ気を遣ってくれるのがかえって申し訳なくて。そうだ、今日はエラムくんからも料理のことを教えてもらったよ」
「そうか、エラムとも仲良くなることができたのだな」
顔をほころばせた相手に、なまえは胸の内に隠していた疑問を口にするかどうかをためらう。
答えは問うまでもなく明らかであり、しかもそれは投げた自分もぶつけられた相手も、決して無傷ではいられない爆弾に似ていた。
アルスラーンは、なまえの表情に翳が差したことに気がつく。
「・・・何かあるのか?」
「アルスラーン、は」
その後ろをうまく続けることができず、なまえは無意識のまま口元を指で押さえる。
「ごめん・・・やっぱり言えない」
「いや、どうか言ってくれ。なまえ」
彼は相手が何を言おうとしているのかを理解していたし、認める準備もしているつもりだった。しかし、きっと今の自分はひどい顔をしているのだろうという考えが頭のどこかで浮かんでいる。
「怖くないの」
なにが、とは言えなかった。堪えるように唇を噛む。許されるなら耳を塞いでしまいたかった。
「・・・怖くはない、と言ったら嘘になる。これまで大勢の人が死ぬのを見てきた。たとえこの手でそうしなかったとしても、間接的に私が命を奪ったようなものだ」
しばらくの間広げた手のひらを見つめていたアルスラーンは、やがてそれを強く握りしめる。
「奪われた国を取り戻すことが今の私に課せられた使命だ。そしてもとどおりの、それ以上の形にする。・・・都合の良いことを言っているようにしか聞こえないかもしれないが」
黙って聞いている相手に今度はアルスラーンが質問をした。
「私が怖いか?」
なんと答えるべきかをなまえは迷う。どんな言葉を並べたところで、意味のない壁を積み上げるようにしか聞こえないだろう。
それならばいっそ、本心をぶつけるしかない。
「少し。でも・・・前より怖くなくなったと思う」
そうか、とアルスラーンは呟いた。
「アルスラーンは、私のことが嫌いになった?」
「なぜ?私はずっとあなたが好きだよ」
「こんなにひどいことを聞いたのに、足手まといになっているのに・・・どうして?」
「それなら、なまえは私のことを嫌いになった?」
その問いになまえは首を横に振る。
「そんなこと、絶対にない」
「だけど今の私は、扉越しに言葉を交わした私とはもう別の存在だ」
同じだよ、となまえはアルスラーンの目をしっかりと見つめて答えた。
「今も前も、アルスラーンは同じだから・・・アルスラーンが好きだよ」
もう二度と彼の前では見せるまいと決めていたはずのものが頬を伝ってゆく。
「ごめんね、ひどいことを言わせてしまった。なまえ、私を許してほしい」
腕に閉じこめた愛しい人は、アルスラーンにとって以前よりも頼りなく思えた。だからこそ、自分が必ず守ろうと彼はふたたび静かに誓う。
別れはもうすぐそこまで近づいていたが、距離も、時間も、彼らには関係なかった。

***

隣国へと向かう一団を見送る者たちに混ざり、なまえも必死に小さくなってゆく姿を目に焼きつける。決してこちらを振り返らない彼は、今は自分の知るアルスラーンではない。
王太子として生まれて初めての国外遠征へと赴くその背が、なぜだか誰よりも大きく見えた。

***

ペシャワールに残されたことは、結果としてなまえにとって良いのかもしれなかった。
事情を知るキシュワードによって集められた蔵書のすみずみまで、時間の許すかぎり目を通すうち、やがてパルス王家の歴史が英雄王カイ・ホスローという男によって起こされたものであるのを理解する。
その人は一体どんな男性なのだろう、と、なまえはしばしば空想にふけった。
蛇王ザッハークを征服し封印するという偉業は、古くから伝わる物語のように見えて、この世界に住む人々にとっては今も生きた伝説なのだ。ザッハークをパルスの平和を乱すなにかだと置きかえるなら、アルスラーンは今まさにそのストーリーをなぞっているのだろうか。
書物に刻まれた文字を真剣に追いかけるなまえの背中を見て、キシュワードは苦笑し、声をかけた。
「あまり熱心になるのも考えもののようですな」
それを聞いてはっとした彼女はごめんなさい、と顔を上げる。
「つい夢中になってしまって」
「それはかまわないが、だいぶ文字が見づらくなったのではないですか」
キシュワードにならって窓の向こうへ目を向けたなまえは、いつの間にか一等星が輝きを放っていることを知る。
「もうこんなに時間が経っていたんですね」
「冬は夜が長い。体を冷やしてしまう前に夕食にしましょう」
いそがしい執務の合間にさりげなく気にかけてくれるキシュワードのおかげで、来た時よりもずっとこの場所に慣れることができていた。
食事の席で彼はひとつの話題を求める。
「なまえ殿は、あちらでどのような生活をされていたのですか?」
普通の生活です、と彼女は答える。
「私にとっては」
「アルスラーン殿下から少しだけうかがいました。なんでも、昼夜を問わず部屋は明るく、指先の動きひとつで火が起こせるのだとか」
杯を傾けながら「まるで作り話のようだ」とキシュワードは呟いた。
「・・・あの」
「ああ、違う。悪い意味ではない。ただ、本当にそう思っただけです。・・・気を悪くされましたか」
いいえ、となまえは首を軽く横に振って答える。
「それが普通です。私こそ、この世界の誰かが突然やって来て身の上話をされたとしても、多分すぐには信じられないのと同じで」
そう語りながらまなざしを遠くに向けるのを、キシュワードは見逃さなかった。
「なまえ殿の目には、殿下はどのように映っていますか?」
「アルスラーンは、殿下は・・・とても優しい人だと思います。それから、とても心が強いとも」
定められたレールの上を望まぬ速度で走るのは難しい。しかも、彼の場合は走り続けなくてはならないのだ。
終着駅さえもまだ見えていないというのに。
「望んではいけないことだとは分かっています。でも、私は・・・なにか少しでも良いからできることをしたいんです」
感情がせり上がってくるのを耐えながら紡がれた言葉を聞いて、キシュワードは考えこむ。
彼は、その背を押してやることも、引き留めることもできない立場にいた。それで、つとめて穏やかさを浮かべた声をかける。
「ここには、なまえ殿と同じような思いを持っている者が大勢おります。もう少し肩の力を抜いてもよろしいのではないでしょうか」
彼の低く柔らかな声の中に自分をなぐさめる響きがあるのを知り、なまえはようやく息を吐いた。
「それと、ここからは私の考えですが・・・どんな物事にも必ず何かしらの意味がある」
「意味が?」
「そうです。それが何であるかは、その時になって初めて分かるというもの。今は焦らず、前に進むことだけを考えてみるのもひとつの手かと」
なまえは、キシュワードの言葉から答えの断片を得たような気持ちになる。そして、その瞬間から、ほんの少しだけ気持ちが楽になることができたのだった。

***

それとはまた別の日、キシュワードはある提案をした。
「馬に乗る訓練をしてみるのはいかがでしょう」
その時の驚いた表情が、考えていたよりも数段上のものであったため、彼は気づかれぬよう心の中だけでふき出す。
「一人前に手綱を握るようになれば、きっと今以上に殿下のお役に立てます。外はすこし寒いですが、慣れておくのに損はないかと」
以前の遠乗りでは、なまえは騎手の背にしがみつくのが精一杯だった。しかし草原の景色、頬をかすめる風の匂いや感触を忘れてはいない。
うなずいた相手をともない馬小屋へ連れてきたキシュワードは、中でも特に小柄な一頭を彼女のために選んで言った。
「この馬は大人しい性格ですから、きっとなまえ殿でもあつかえるでしょう」
その言葉を信じ、なまえは柔らかなたてがみにそっと手を触れる。
遠慮がちにふわふわと撫でるだけのその仕草に、キシュワードはふたたび笑ってしまいそうになるのを堪えて「こうです」と手本を見せた。
「馬は、乗り手の不安を敏感に感じとる生き物です。怖がらずに、目を覗いてみると良い」
なまえは、おずおずと馬の前に己の位置をずらして顔を覗きこんだ。穏やかな呼吸と時折かさなる瞬きの奥で、馬の目はたしかに彼女を映して出している。
世話をしながら少しずつ乗り慣れていくと決めてから、ペシャワールでのなまえの生活は格段に色づいたものになっていった。
こうして日々を過ごすうち、アルスラーンと同様、彼女もまた新年を異国の地で迎えることになる。

***

部屋の中で、ふたりの男がとりとめのない会話を交わしている。
「ナルサス卿の中では、そろそろ答えが出た頃だろう」
「なんのことやら、俺にはさっぱり分からぬな」
わざとらしくとぼけてみせた相手に、ギーヴは椅子に寄りかかっていた体を起こして尋ねた。
「水くさいな。まだ秘密、というわけか?」
「なにを?」
「なまえという女のことだ」
「なるほど、そのことか。どうやら俺とお主は、まだあれこれで通じる間柄ではないらしい」
「それで結構。俺は美しい女性としか親睦を深める気はないんでね」
「では、なまえ殿はギーヴにとってその対象というわけか?」
「どうだろうな。だが、彼女はアルスラーン殿下のお手付きなのだろう?」
「下品な言い方をするな。あのふたりの間にはまだ何もない」
そうきっぱりと断言した軍師に、ギーヴは「理由は」と返す。
「アルスラーン殿下はまだお若い。為すべきことも分かっておられる。俺の見たところでは、おそらく彼女のほうもそうだろう」
「それは、殿下のお立場のことを考えて身を引く、ということか?」
おそらく、と頷いたナルサスだったが、彼らしくもなく今回ばかりは自信がなかった。
王都を奪還し、いずれ王家を継ぐのなら、出自さえ分からない彼女が相応しい相手だとは言えない。しかし立場や出身といったものを取り去って考えるなら、どうしてナルサスにその権利があるだろうか。
願わくば彼女のほうから辞退してもらうのが、一番良い解決法なのかもしれなかった。
相手が何も言わなくなったのを知り、ギーヴは立ち上がって部屋を後にする。
突然現れた別の世界からの訪問者と、主君と仰ぐ王太子は旧知の仲だった。
ところで、彼らを繋いでいた扉は、なぜいきなりその役目を放棄したのだろう。あちら側で彼女のことが要らなくなった、とでもいうのだろうか。
それとも、こちらの世界で必要になったのか。
「・・・分からんねえ。俺にはさっぱり、分からないことだらけだな」
彼が大きな独り言をもらしたのも、当然だった。
なぜなら、その理由を心の奥底に隠す本人でさえもまだ気づいていないことなのだから。

***

月日は過ぎ、三カ月に渡る長い国外遠征を終えたアルスラーンの一行が、帰りの道程をたどっている頃だった。
ペシャワール城ではたびたび、奇妙な出来事が起きている。
兵士の間に流れる噂では、正体不明の影のようなものが壁や天井を自在にくぐり抜け、糧食を盗み、井戸の水を飲み、あまつさえ人も死んでいるという。実害も出ているため、キシュワードはなまえの身辺にも気を配ることを忘れない。
とはいえ、人ではない者の気配を漂わせる相手にどのように警戒して良いのかも分からず、彼は短剣を預けると忠告をした。
「危険を感じたら、我々が駆けつけるまでこれでご自分をお守りください」
なまえは受け取った物の重さが不安そのもののように感じて尋ねる。
「でも、経験がないのに上手く扱えるでしょうか」
「できないのは当然です。ですが命を失いたくなければ使うしかありません」
その日から、就寝時でも騒ぎが起きた時にすぐに手を伸ばすことができるよう枕元に短剣を忍ばせることにしていた。
ある夜のこと。
なまえは胸元にしまっていた首飾りを取り出すと、手のひらに乗せて眺める。
アルスラーンは元気にしているだろうか。
自分よりもここにはいない相手の心配をしていることに気づいて、誰も見ていない部屋で苦笑する。それだけ、ここでの生活が自分の中で一定のリズムになってきているのかもしれない。
不安や小さなストレスが完全に消えたわけではないが、それらを解消する方法を自分なりにどうにか見つけていることが、彼女の中では大きな進歩だった。
明かりを消して、毛布にくるまる。
明日は久しぶりに天気が良いみたいだから、馬に乗るのも良いかもしれない。乾いた風をきって野を駆けるのは、きっと気持ちが良いだろう。
そんなことを考えながら、意識を手放すことに集中していると、なぜだか急におそろしい感覚にとらわれる。
誰もいないはずの部屋の中に、かすかな息づかいが聞こえるのだ。暗闇を這うその気配は、糸をたぐるように確実にそばまで来ている。
恐怖で凍りついた体で浅い呼吸を繰り返しながら、枕の下の短剣に意識を向けた時だった。
「・・・ーっ!」
足首に絡みついた指の動きに全身が粟立ち、なまえは声にならない叫びを上げる。
信じられない勢いで床へと引きずられながら必死に腕を伸ばすも、守ってくれるものはすでに届く距離にはない。
「いや、やめて!」
地面にはげしく叩きつけられたなまえが天井を見上げると、姿の見えない相手がもう一方の腕に鋭い短剣を振りかざしていた。
その瞬間、体の芯から絶望が湧きあがるのを感じて強く目を閉じる。
しかしいつまで経ってもおとずれない衝撃にまぶたを開いた彼女は、自分をおびやかす恐怖がいつの間にか消え去っていることを知る。
どくどくと脈打つ心臓が癒えるのを待ちながら、なまえはすがる者のないその場所でただ涙を流していた。


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