7



足首にくっきりと残る鬱血の跡に、キシュワードは表情を暗くする。
「とてもおそろしい思いをされたことでしょう。ですが、ご無事で良かった」
夜が明けてから、いつまでも広間へ来ないのを不審に思った彼が部屋を訪ねてみると、乱れた寝台の下に倒れているなまえを見つけたのだった。
大丈夫です、と、本当はそう言いたいのにできない。両手で口元を押さえて俯いていた顔を彼のほうへ向けるのが精一杯だった。
キシュワードもそれを理解しているため、黙っていることを咎めはしない。
「歩けますか?」
はい、となまえはようやく答える。
「歩くだけなら、なんとか。でも馬にはたぶん乗れないと思います」
「それで十分です。しばらくは安静に過ごされると良い」
その時、彼らの元に王太子帰国の報がもたらされ、キシュワードは立ち上がると言った。
「私は出迎えに行ってまいります」
「あの、殿下に言うんですか」
もちろん、と彼は答える。
「私には、留守の間に起きたことを報告する義務があります。なまえ殿のお考えも分かりますが、このことはむしろお伝えしておいたほうがよろしいでしょう」
なまえはそう言い残して去っていく背中を眺めながら、深く息を吐き出した。
昨夜の出来事は、一体なんだったのだろう。自分が狙われたのはたまたまか、それとも無抵抗な存在だからと的にされたのか。
思考がその先へ行こうとするのを拒むのは、あの恐怖を思い出したくないからだった。

***

万騎長バフマンの訃報を知らされるのと引きかえに、キシュワードは城内で起きた襲撃事件について報告をする。
考えこんでいるナルサスに、アルスラーンは言った。
「なまえは見ている。なにか覚えているかもしれない」
「ですが、よろしいのですか?」
てっきり彼女の身を案じてその話題から遠ざけようとするのだとばかり思っていた彼は、その提案に驚く。
うなずいてみせたアルスラーンは、それが相手を苦しませることを十分に理解していた。
しかし、引き続き悩まされるよりは、一時的にいやな思いをしたとしても幕引きを得られるならそのほうが良い。
すると、それまで黙っていたダリューンが進言する。
「その前に、まずは休息をお取りください。きっと体はお疲れでしょう」
「・・・ダリューンの言うとおりだ。しばらく休ませてもらうよ」
彼らがいない間も、部屋は常に清潔に保たれていた。
そのためふかふかの寝台の上に寝そべることができたのだったが、ファランギースはそうするよりも先にアルスラーンに確認をする。
「殿下、なまえに会ってきてもよろしいでしょうか」
「ああ。先に行って様子を見てきてくれるととてもありがたい」
彼としては断る理由などなかったため、こころよく彼女を送り出した。
控えめな調子で訪問を告げたファランギースだったが、中からなにも返事がないことを不思議に思い、静かに扉を開く。
すると、窓ぎわに置かれている長椅子にもたれて、眠っている姿が目に入った。そばまで近寄って顔を覗きこんだ彼女は、相手の顔色が青白んでいるのに気づく。
あんなことが起きたのに、平然としていられるほうがどうかしている。それに、なまえは何もできない。
たとえいくつもの言葉を操れるとしても、その手は剣を持ったことさえない。
誰かを傷つけたり、自分が傷つくのに慣れてはいないのだ。
ファランギースは、彼女の眠りをさまたげないよう、顔にかかる髪をそっとはらう。
「聡明な額じゃ。お主はきっと賢いだろうから、自分が進むべき道も分かっているはず」
本当は、そう思いたいのかもしれない。
なんのためにここにいるのか、自分に何ができるのかを必死に探し求めている存在を冷たくあしらうなどという選択肢を、ファランギースは持ち合わせていなかった。

***

目を覚ましたなまえは、アルスラーンたちが帰還したことを知って驚きをかくせないでいる。
すっかり着慣れてしまっているパルスの服装も、もしかしたら礼儀に欠けるのではないかと思い、数少ない選択を前に頭を悩ませているところへ救世主があらわれた。
「なまえ、元気だったか?」
「ファランギース!」
立ち上がってこちらへやって来る彼女がすっかり元の顔色を取り戻しているのを見て、ファランギースは安心する。
「久しぶりじゃな。以前よりもすこし髪が伸びたか?」
「そうかも。なかなか切る機会がなくて」
寝台の上に広げられている布地に目をとめた彼女はさりげなく尋ねる。
「今日の気分に合う色を探しているのか?」
するとなまえはそれを否定する。
「どんな格好をすれば良いのか分からなくて。できるだけ失礼のないようにしたいんだけど」
「そういえば今夜、アルスラーン殿下が宴席をもうけるとおっしゃっていた」
長旅の疲れをいやすためのそれに末席まで連ねることはできないものの、兵士にもたしかに休息は必要だった。
「お主もぜひ出席するようにと、殿下からご伝言を賜った」
「そんな・・・一緒に行ったわけでもないのに、図々しいと思われるんじゃないかな」
「そんなこと、誰も思わぬよ。それに参加するのは殿下の他にダリューン卿とナルサス卿、エラムとギーヴ、それからキシュワード卿に私とアルフリードだけじゃ」
ギーヴ、と発音した瞬間、彼女の眉根がわずかに寄せられるのをなまえは見逃さなかった。
「だから安心すると良い。誰もお主を悪く思う者などおらぬ」
それを聞いてなまえは疑問を口にする。
「どうしてそんなに良くしてくれるの?私、なにも力になんて」
その続きを言おうとした瞬間、ファランギースの指先に鼻の頭をつままれてしまった。
「うっ!・・・」
「いつまでもうじうじとしているな。なまえは剣が使えぬかもしれないが、いくつもの言葉をあたりまえのように話せる。それはお主だけの強みじゃ」
なまえの視界がうっすらと滲むが、もう涙は流さないと決めたのだ。
「・・・ありがとう、ファランギース」
「同じ目的を持つ者同士、今夜の宴ではあらためて親睦を深める良い機会じゃ。どうした?鼻をつまんだのがそんなに痛かったか?」
わざととぼけてみせた相手の言葉に、なまえは笑顔を浮かべた。

***

パルス風の小ざっぱりとした衣を身に付けたなまえを見て、アルフリードは感嘆の声を上げる。
「すっごく似合ってるよ!最初に着ていたものよりこっちのほうが良いみたいね」
「ありがとう。動きやすいのは良いんだけど、なんだか簡単にめくれてしまいそう」
すぐに慣れる、そう言いながらファランギースは丁寧に彼女の髪をくしけずる。
「身を飾るものはないが、これだけでもじゅうぶん美しい」
白い指先が一輪の花を飾ると、女性らしさが際立った。
「完成じゃ。我ながらなかなかよくできた」
「うんうん、お姫様みたいに綺麗だよ!」
並べたてられた下心のない褒め言葉に照れくささを覚えたなまえは、話し声が聞こえてきた廊下に目を向ける。
「殿下たちが来られたようじゃ。そろそろ行くとするか」
白い生地は歩くたびに優雅にひるがえり、なまえは浴衣の裾さばきを思い出しながら足を動かす。
唯一、胸元を飾る首飾りにそっと触れながら、ふたりの後に続いて広間の中へ入る。
彼女たちに気づいた者のうち、真っ先に賛辞を贈ったのは当然のごとくギーヴだった。
「なんと、蛮族ルシタニアに荒らされたパルスの地に、これほどの美姫たちがかくされていたとは」
アルスラーンを囲むように配置されている席で、なまえはなるべく遠い場所を選んだつもりだったが、幸か不幸かそこは弁のたつ楽士の隣だった。
「俺は嬉しいが、しかし座る場所を間違えたのではないかな?」
悪戯な口調でそう言われてしまいなまえは返事に困る。
「良いんです、ここで」
杯をかかげたあと、ギーヴは##ささやいた。
「しかし、君に特技のひとつもあって良かったな」
その言葉にふくまれた若干の皮肉に気づかず、なまえは真面目な顔で「本当に」とうなずく。
それを見た彼は心の中で、おやおや、と呟いたが表には出さない。
「ところで、これは俺にとってはどうでも良いことなのだが・・・アルスラーン殿下とはどういう関係なのだ?」
固くなった相手の表情を観察しながら、彼はなおも追及する。
「まさか、本当にただの御友人というわけではあるまい」
「殿下はなんておっしゃったんです」
「俺は君に聞いている」
ここで自分を崩されてはいけない、と感じたなまえは思いきってこう答える。
「私の答えは殿下と同じものです。それ以外のことは言えません」
わずかながらきりりと冴えるまなざしに、ギーヴはわざと軽薄な笑みを浮かべて言った。
「なに、ほんの冗談だ。すこし君をからかいたくなったのさ」
やりとりを黙って聞いていたファランギースはようやく、
「そろそろ口をつつしめ、ギーヴ」
と彼を制する。
「おや、これはおめずらしい。ではファランギース殿が相手をしてくださるのか」
「舌数の多い輩を酔いつぶすなど、私にはたやすいことじゃ」
ふたりが杯を手にしたため、なまえは中断していた食事を再開することができた。
上座では、アルスラーンが会話をしながらしきりに彼女を気にしている様子でいるのを知って、苦笑を浮かべたナルサスはうながす。
「殿下。大きなお世話と言われてしまえばそれまでですが・・・隣の部屋は静かなので、会話をするには良い場所かと」
彼の意図を知ってアルスラーンはわずかに頬を赤らめる。
「しばらく席を外しても良いか?」
「ええ、もちろん」
立ちあがった彼は、ゆっくりとなまえのそばまで歩み出る。それを知った彼女は持っていたスプーンを手元に置いて、緊張しながらたどりつくのを待った。
自然とその場にいた誰もがふたりの挙動に注目することとなったが、当人たちは急に静かになったことさえも気づく余裕はない。
「なまえ。その・・・久しぶりだな」
「はい。殿下も」
「すこし、あちらで話さないか。あなたが良いなら」
差しのべられた手とその持ち主を見上げて、なまえは態度と行動とで応じる。出てゆく彼らの後ろ姿を眺めながら、ダリューンはそっと友人に尋ねた。
「良いのか、ナルサス」
「良いもなにも、俺はただ隣が静かな空き部屋であることをお伝えしただけさ」

***

たがいに相手が何かを言うのかと思い、どちらも切り出そうとはしない。けれど、広間から届くかすかな笑い声がまざった沈黙を最初にやぶったのはなまえだった。
「遠征はどうだった?」
ややためらった後、アルスラーンは答える。
「たくさんの経験ができた。良いことばかりではなかったが、悪いことばかりでもない」
シンドゥラでの戦い、王位継承権を争う神前決闘、敗者の運命、勝者の裏切り。
途中、話の糸がもつれながらも、歩んできた道のりがどのようなものであったかをアルスラーンは語り、なまえは終わるまで黙って聞いていた。
やがていったん口を閉ざした彼は、やや間を置いて尋ねる。
「なまえはここでどのように過ごしていた?」
「ずっとパルスの歴史を勉強していたの。それからキシュワードさんから馬の乗り方を教えてもらったり、簡単な料理を手伝ったり」
彼が過ごした時間の濃密さに比べれば、なまえの生活はとても単調で規則的なものだった。けれどそれらはみな、元の世界では考えられないことばかりであったため、毎日が新鮮であるのにはちがいない。
「そうか。あなたが元気で、なにも変わりのないようで良かった」
「うん、アルスラーンも。無事に戻って来てくれて本当に・・・安心した」
なまえの言葉にアルスラーンは答える。
「私はパルスを解放するまで、なにがあっても倒れているひまなどないよ」
そうだね、となまえはうなずく。しかし、その胸中は複雑だった。
自分の気持ちなど、彼にとってはきっとささやかなものであり、ましてや王太子にとっては不要なものに他ならない。けれどそれ失くしてはここにいる理由もないのと同じで、またなまえの中でたしかに息づいているのだった。
ふたたびおとずれた沈黙を、今度はアルスラーンの声が終わらせる。
「シンドゥラにいる間、一度もあなたを忘れたことはなかった。毎日会いたかった」
「ありがとう。・・・私も」
わざと短く返事をしたなまえは「そろそろ戻らないと」と言って立ち上がる。
「せっかくの主役がいつまでも席を外しているわけにもいかないしね」
広間に戻ろうと歩く彼女が扉に手を掛けた瞬間だった。
「・・・アルスラーン」
無言のまま、後ろから抱きすくめた腕がそうさせようとはしない。感情のこもった行動に本当は全身で応えたかった。
けれど、自分には許されていない。それを知っているから、ただ時が過ぎてゆくのを待っていた。
やがて腕は解かれ、アルスラーンは耳元で「すまない」とささやく。
「いきなり、驚かせてしまった」
「ううん、良いの。戻ろう」
ふたりが戻ったことに気づいたアルフリードが手を振るので、なまえは彼女の隣に座る。
「ね、今キシュワード卿からなまえの話を聞いていたんだよ!」
「私の?なにを?」
「馬に乗れるようになったんだって?すごいじゃない」
するとナルサスが口をはさむ。
「あとは剣が使えるようになれば立派ですな」
「いや、なまえが戦う必要はない」
そう言ってアルスラーンは微笑んだ。
「私は、彼女には今のままでいてほしいんだ」
なまえはそれを聞きながら、何も言わずに波のない葡萄酒の水面を見つめる。
「それにしても彼女はなかなか筋が良い。優秀な生徒です」
キシュワードが褒めたので、なまえは謙遜して答える。
「先生の教え方が上手だったからです、きっと」
「どうやら私の生徒が優秀なのは手綱さばきだけではないようだ」
冗談を交えたやりとりから、ふたりの仲はずいぶんと打ち解けたものであるようだった。
なまえが自然と浮かべた穏やかな笑顔を見て、キシュワードは口を開く。
「こんなことを言っては失礼になるかもしれないが・・・私は彼女のことを、娘とは言わずとも、ずいぶん歳の離れた妹のようにさえ感じているのです」
それを聞いて、ギーヴは名案とばかりに提案した。
「それではいっそのこと、キシュワード卿の養女にされてはいかがかな」
「なるほど、それも良いかもしれませんな」
そんな軽口さえ飛び交うほど、パルスとシンドゥラから離れたペシャワールの夜は平和なものだった。

***

なまえがかすかに足を気にする歩き方をしていることに気づいたダリューンは、「大丈夫ですか」と声をかける。
「あ、はい。大丈夫です」
以前よりも互いに対する警戒心は解けていたものの、気を許しているわけではない。そう感じているダリューンだったが、時折、彼女のことを気の毒に思う。
王太子以上に心を打ちあけられる相手はおらず、しかし彼になにもかも頼り切ってしまうこともできないからだった。
ダリューンは、以前から気になっていた言葉を口にする。
「余計なことかもしれませんが・・・つらい時には、そう言ってもかまわないと私は思います」
「え?」
「心というものは、ご自分が思う以上に脆い。苦しみをかくす器として向いてはいません」
なまえの表情が、ほんの一瞬、感情の波を押さえることができないものになる。彼女は言った。
「でも・・・つらいとか、帰りたいとか、そんなことを言ったところでどうにもならないから」
うつむいて瞬きをこらえながら、やってしまった、と胸の内で呟く。
自分がこの世界にいることと彼とはなんの関係もないのに、失礼すぎる言葉だと思った。
顔を上げなまえは謝る。
「すみません。八つ当たり」
「いいえ。なまえ殿・・・今日は天気がまあまあ良い」
突然まったく別の話題を振られなまえはきょとんとする。
「え?・・・あ、そうかもしれないですね」
「気分を変えるために乗馬でもいかがですか」
その誘いをなまえは足の怪我を理由に断ろうとする。しかし、
「私が手綱を握ります。なまえ殿は前に乗っていて下されば良い」
結局、彼の強引さに折れる形になってしまったものの、不思議と不快ではなかった。

***

城を囲む草原を、青毛の馬がゆっくりと歩いている。澄みわたる空気はたしかに、春の気配をふくんでいた。
厚い防寒着に身を包みながら「せまくないですか」とふり返って騎手に尋ねる。
「ご心配なく。乗り慣れておりますから」
「でも、私いま着ぶくれしてて・・・」
「これくらいなんともありません。それにまだ寒い。風邪などひかれては大変ですから」
冷たい風を浴びて赤く染まった頬がまるで幼子のようだと思い、ダリューンは表情を緩めた。
「以前にもこうしてあなたをシャブラングにお乗せしたことがあったが・・・あの時とは、ずいぶん状況が変わってしまった」
なまえはうなずく。
遠くから強い北風が吹いてくるのを知って思わず目を閉じた。
シャブラングの向きを変え、ダリューンは元来た道をゆっくりとたどる。
「ダリューンさんは本当に強い方なんですね」
「なぜ?」
「だっていつも戦場で功績を上げてくるでしょう?それに、殿下や他の方にも頼られていますから」
あまりにも素直な口調に思わず苦笑したダリューンは、的確に手綱を操りながら答える。
「戦で勝つのは当然のことです。ですが、もうひとつのほうはどうでしょうか」
口を開けば遠慮のない友人とのやりとりにかぎって言えば、そうではない部分も多い。
「でも、殿下はダリューンさんのことを頼りに思っています」
「だとしたら光栄なことです」
なまえは、乾いた空気の果てにある空を見上げた。彼のように自分にも本当にできることがあるのだろうか。
異国の言葉が理解できるとしても、今のところはじゅうぶん役には立っているとは言えない。
「自信をお持ちください。必ず、なまえ殿にもできることはあります」
「え・・・?」
まるで心の中を見透かされたように感じて、なまえはダリューンのほうを見た。
「どうして、」
「なまえ殿は、強い方だからです」
自分では気づかない部分ですでに選択している。
この状況を耐えるという道を選びとっているのだ、と告げると彼は穏やかに微笑んだ。
「きっと良い方向に進みます。信じるなら」
「信じるなら・・・」
見開かれた瞳に射しこんだ光が、その場所にダリューンだけを映し出した。


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