フェルマータ.



気が向けば部屋で映画も観るし、外で一緒に食事もする。
くだらないことで笑い合うし、時には悲しみの理由さえ共有する。
私と彼女の間に立ちふさがっている、透明なのに意外と厚い友人という名の壁を今夜、取り去ってやろうと心に決めていた。
腕時計に目を落として時間を確認する。
約束の時間まで、あと3分。
今日が私の誕生日だということを覚えていてくれたなまえは、どうやら素敵な夜を企画してくれているらしい。
おろしたてのシャツの襟元をすこしだけ緩めて、対岸の歩道からやってくる姿に心が躍った。
馬鹿みたいだとも思う。
恋を知り立ての少年じゃあるまい、けれど、まさしくそれに似ていた。
「ごめん、お待たせ」
私に気づいて駆け寄ってきた彼女の格好は、いつもよりシックで洗練されている。
「今夜はありがとう。とても楽しみにしていたよ」
「期待外れだったらどうしようって心配してるの」
「そんなこと。君のその気持ちだけで十分嬉しいのに」
そう言うと、なまえは照れたように笑う。
「それじゃ、行こうか」
宵闇に包まれた街の中に、オレンジの灯がともる。
石畳を歩く足音を軽快なBGMにして、まるで本物の恋人同士のようにはしゃいでいた。
ふと、ショウウィンドウに映る自分と目が合う。
「(ああ、浮かれているな)」
馬鹿みたいだ、と考えるのは二度目だった。
けれど次の瞬間には、馬鹿だって良いじゃないかと開き直っている。
この素敵なプランを知らされた時からずっと今日を楽しみにしていた。
だからこそ曖昧な関係に終止符を打とうとしているのだったが、万が一、受け入れてもらえなかった時のための保険なんてものにはあいにく加入していない。
そんなこと、考えたくもなかった。

***

「・・・ここ」
来てみたいと、いつかの散歩の帰り道に何気なく口にしたレストランの前でなまえは足を止めた。
「アフロディーテと一緒に来たかったの。実は私も今日が初めて」
そうして彼女がドアノブに手を掛けようとしたので、待って、と私はそれを遮る。
「どうぞ、マドモアゼル」
「ありがとう」
すこしだけためらった後、なまえはゆっくりと中へ入った。
案内されたテーブルに着いて観察する。
落ち着いた雰囲気、給仕の質も良い。
なによりも、運ばれてきた料理の品々はどれも申し分のないものばかり。
すっかり満足した頃に運ばれてきたドルチェとコーヒー、やっぱりどちらも最高だった。
「このお店を選んで正解」
「ああ。こんな場所だと知っていたら、もっと早くから来れば良かった」
私のため息になまえはスプーンを置いてくすくすと笑う。
そうして時計に目をやった彼女は、「歩いたらぴったりかも」と意味深な言葉を呟く。
「ぴったりって?」
「アフロディーテが好きだって言っていたシネマが、今夜だけリバイバル上映」
チケットを取り出し目の前でひらひらとさせるなまえの手際の良さに、私は思わず感心してしまう。
「君がもしも男だったら、今夜は最高のエスコートだと思うよ」
「ありがとう。だけど、女でも最高のエスコートでしょ?」
そう言って、彼女はルージュを塗り直すために立ちあがった。

***

シネマの後、それぞれ感想を口にしながら帰り道を歩く。
喧騒から離れた夜の街に漂うロマンチックな雰囲気はあつらえたようだった。
足音が重なり、乱れて、また重なっては響く。
「(ああ、終わってしまうな)」
そんなことを思いながら、私は頭の中で何と言うべきかをずっと考えていた。
ねえなまえ、君が大好きだよ。
どうすれば、私の恋人になってくれる?
「なまえ」
すこしだけ前を歩く背中に声をかけると、彼女は立ち止った。
そうして、静かに振り向く。
その姿はまるで映画の中の女優のように完璧だった。
すこしだけ拗ねたような、寂しさを纏う少女のような表情。
ふいに彼女は呟く。
「楽しみが終わっちゃった」
真夜中が近づく。
私の生まれた、なまえが用意してくれた特別な夜が終わる。
「ありがとう、なまえ」
「ううん。アフロディーテこそ、大切な日の時間を私にくれてありがとう」
目の前で私を見上げる愛しい存在を、抱きしめないではいられなかった。
「なまえ、愛してる」
これで君が恋人だったら最高のバースデーだったのに。
そう思った瞬間、唇がぶつかる。
「!」
背伸びをしている足元が見えて、腕にいっそう力を込めた。


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