水平線でつかまえて



七月の風が紺碧の海を走る。
目を閉じて潮風に髪をまかせていると、グラーゼと初めて出会った日のことがまるで昨日のようだった。
どこまでも広がる海の青。
決して交わることのない空との境界。
潮騒の音や寛大なもてなしは、アルスラーンの記憶の中で鮮やかに色づいたままでいる。
「そういえば、おぬしはここで俺の筆の才を売ったのだったな」
かつて海賊を拷問にかけた時のことを引き合いに出してみたナルサスに対し、ダリューンは表情を崩すことなくとぼけてみせた。
「そんなこともあったかな」
「あった。本当は覚えているのだろう」
「だとすれば、その時の俺はずいぶん機転を利かせたことになる」
「機転だと?まったく、どの口が言う」
軽口の合間、彼はなまえに目を向けた。
ファランギースと会話をする横顔はきらきらと輝き、時折楽しそうな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
ギランを訪れる前、ナルサスは彼女に秘めたる胸の内を告げていた。
突然の告白に戸惑っている相手に、
「返事などいつでも良い」
と言葉を添える。
「・・・どうして、ですか?」
「一方的に想いをぶつけられても困るだけだろう。よく考えて答えを出してほしい。俺は気の長い男だから、待つのは苦にならんさ」
その言葉の半分は本当で、もう半分は賭けと言っても良い。
その時、振り向いたなまえと目が合う。
「!」
はっとしたように逸らされてしまった視線に彼は苦笑する。
たとえ受け入れてもらえなかったとしても、仕方がないと受け止める準備はできているはずだった。

***

開放的な屋敷に荷物や馬を預け、歩いて港町へと向かう。
乾いた路の向こうに光を反射して揺れる水面が見えた瞬間、我先にと地面を蹴ったのは誰だっただろう。
残された者たちの中で、ファランギースはゆったりとした口調で言った。
「精霊たちにとってもこの場所は心地が良いらしい」
するとギーヴが横から、
「俺たちも開放的になっても良いのではないかな」
と口を挟む。
「もう十二分に解放されているが」
「では十五分になりましょう。そうすれば俺に対するお気持ちに気づかれるかもしれぬ」
ふたりのやり取りを見ていたなまえは、ギーヴの姿勢に感心していた。
「(すごいなあ・・・)」
あんなふうに積極的に迫れるのも、それをさらりと受け流しているファランギースのようにもなれそうにない。
あの日、自分に想いを告げてくれた彼はどんな気持ちだったのだろう。
木陰で画材道具を準備している姿へこっそりとまなざしを向ける。
蜂蜜色の髪を煩わしそうに背中へやり、絵筆を取るのが見えた。
彼のことは尊敬している。
優しくて、一緒に過ごす時間が好きだった。
心のどこかで意識しているのだけれど、未だ恋というものを知らない自分にとって、この気持ちがそう呼べるものかどうか自信がない。
ふっと、視線が重なる。
「(あ・・・!)」
口元に穏やかな笑みが浮かんだのを知って顔が熱くなる。
心臓が大きく波打つ中に、甘い苦しさが生まれ始めていた。
そばに行くのは迷惑だろうか。
その時遠くから、
「なまえー!こっちにおいでよ」
というアルフリードの声がした。
「あ、今行きます!」
後ろ髪を引かれる気がしたが、どこかほっとした気持ちでなまえはその場を後にした。
ばしゃばしゃと水しぶきを上げて走り出せば、薄い麻布の裾があっという間に重く纏わりつく。
「早く早く!」
「すみませ・・・あっ」
大きな波に襲われ、足がもつれるのを感じたのは一瞬だった。

ばっしゃーん!

派手な水音と共に全身が濡れる。
「なまえ、大丈夫!?」
突然の出来事に言葉も出ない。
冷たさより、驚きの方が勝っていたからだ。
「び、びっくりした・・・」
「ごめんね、あたしが急かしたから」
波をかき分け駆け寄ったアルスラーンは手を差し伸べる。
「大丈夫か、なまえ」
「すみません陛下。私の不注意で」
面目なさそうにその手を取って立ち上がった姿を見て、気づいたアルスラーンは顔を背けた。
「ありがとうございます、陛下」
「いや・・・かまわない」
なまえには、彼が動揺している理由が分かっていない。
見かねたダリューンが教えようとした時、
「まったく・・・君には危機感というものがないのか?」
いつの間にかそばへやって来たナルサスが、麻布のマントを広げてなまえを覆い隠した。
すべてを悟り、ようやく羞恥心が生まれる。
水の中にいるのに、顔から火が出そうだった。
海水を吸った衣がぴったりと貼りついて体の線を浮かび上がらせている。
履いていたサンダルが遠くの波間へ攫われてしまっていることに気づいて、ナルサスはなまえを抱き上げた。
「!」
「俺はこのまま戻る。裾が濡れてしまった」
ああ、とダリューンが頷くのを運ばれながら目にしたなまえは、
「あの、ひとりで歩けますから」
と懇願した。
けれど、
「貝殻でも踏もうものなら大怪我になる」
とすげなく断られてしまう。
「・・・すみません」
「別に、謝ることではない。ま、これを機に少しは気にすることだな」
自分が持つ魅力や危うさに彼女は気づいていない。
ナルサスの腕に力がこめられるのをなまえは肌で感じていた。
心臓が張り裂けてしまいそうだ。
波の音よりもずっと激しく音を立てて止まない。
砂浜へ戻ると、そっと藤の椅子の上へ降ろされる。
「乾くまでしばらく待っていなさい」
そう言い残して立ち去ろうとするのを、
「待って、」
と思わず引き止める。
「・・・何か?」
「あ・・・、ありがとうございました」
彼は静かに笑って答えた。
「どういたしまして」
日の下へ遠ざかる背中を見つめながら感じる。
いつの間にか心は、彼のものになってしまっているのだと。


- 143 -

*前次#


ページ: