ヒルメスさんがやってきた



「ヒルメスさん」
おそるおそる彼の背中に声を掛けると、仮面の男は無表情でこちらを振り向いた。
「なんだ」
「いえ、あのう・・・昨日あれだけ酷評されたこの部屋に、なぜまた来られているのでしょうか・・・」
昨日いきなり現れたこの人とはち合わせた瞬間は絶対に忘れられない。
殺気に満ちた相手は、とっさに腰に手をやる。
あの時帯刀していたら絶対斬られていた。
その後、うさんくさそうに部屋を眺めまわしていた彼は一言「物置ですら足らん狭さだな」と吐き捨てたのだった。
本当は勝手なことばかり言うな、と言ってやりたい。
それなのに、なぜ私はお茶を出しているのか。
「どうぞ・・・」
「ふん、毒など入っておらぬのだろうな」
「 えっ!毒なんてもってませんよ」
しどろもどろになっている私をヒルメスさんは鼻で笑う。
「まあ、貴様なんぞに毒を盛る度胸すらないのは分かり切っていることだがな」
お前、現代にはホウ酸ダンゴってのがあるんだからな。


先ほどから険しい顔をして(いるのかは仮面をかぶっているのでいまいち分からないが)窓の外を眺めているヒルメスさんのことを眺めながら、私はお茶を飲んでいた。
けれど突然「少し街に出てみるとしようか」と口にしたため思わずお茶を噴き出す。
「だめだめ!だめですって」
「貴様に指図される筋合いはない」
そう言いながら彼は窓ガラスの強度をこんこんと指先で叩いて確かめている。
これはぶち割ってでも出ていく気にちがいない。
こちらを振り向いたヒルメスさんは、
「俺の大望を邪魔する者は、何びとであろうとも斬る」
と腰に吊るされたそれをおもむろに抜き放った。
「わっ剣」
「・・・どうもお主は反応が薄いのだなあ」
まあいい、と勇ましく抜き身の剣を携えながら玄関へ向かおうとするヒルメスさんを私は慌てて遮る。
「だからだめですって、危ないから!市民が!」
そんなに斬られたいか、と凄む彼の後ろで黒い影が動いた。
「あ、」
あれは、まさか・・・!ゴキ・・・だと・・・!
無意識に殺虫剤を手に取った私を見て、ヒルメスさんは鼻で笑う。
「ふん、そんな物でこの俺に立ち向かうつもりか?」
「ヒルメスさん、お願いそこ動かないで!」
一瞬の隙をついて彼を突き飛ばし、勢いよく噴射すると無残にも敵は儚い命を散らしていった。
「危ないところでしたね!もうすこしでヒルメスさんのトラウマになってしまうところでした」
唖然としてその様を見つめていた彼は、やがてぽつりと呟く。
「次にああなるのは俺、という訳か・・・」
それ以来、ヒルメスさんが来る時は剣を置いてくるようになった。


久しぶりの休日を、インドア派の私は部屋でのんびりと過ごすことに決めていた。
録りだめていた番組を消化してもいいし、バランスボールで体幹を鍛えてみるのも面白いかもしれない。
のんきに一日の予定を思案していた矢先、事件は突如として起こった。

がん!

脈絡もなく開かれたドアの向こうから、血にまみれた衣をまとった男がいきなり現れ鋭い目つきでこちらを見下ろす。
「ひっ・・・!」
「この程度のことでうろえるな。ヒルメスだ」
そう言ってうっとうしそうに乾いた血で固まった前髪をかき上げた相手がヒルメスさんだということをようやく悟った私は、我に返って尋ねる。
「け、怪我してるんじゃないですか!?早く手当て、」
「これは斬り捨てた相手の血だ。どうやら運悪く動脈であったらしい、おかげでこの様よ」
そう吐き捨てると、遠慮などどこふく風で土足で上がり込もうとしてきたため慌てて待ったをかける。
「さっき掃除したばかりなので!ちょっとそのままでお待ちください!」
ビニールを床に敷きつめる私の姿を眺めながら、ヒルメスさんは「どうも扱いが雑な気がするな・・・」と呟いていたがそんなの関係ない。
「はい、どうぞ」
「ふん。この忌々しい汚れを一刻も早く洗い流させろ」
これをクリーニングに出すのはちょっと勇気がいるなあ・・・。
するとヒルメスさんは「まずは湯浴みだ」と言った。
え・・・うちの風呂が殺人現場になってしまう・・・。
ていうかこの人ここに来る前にそうしてきたんじゃん。
私は考えるのをやめた。
「じゃあ、こちらへどうぞ」
仕方なくバスルームへとご案内する。
「これがシャワー、ここを捻るとお湯が出ますから。頭を洗うのはこの液体で、体はこっち。しっかり泡立ててお願いですからちゃんと洗い流してくださいね」
突然の文明の利器に声も出ないヒルメスさんそっちのけでお湯を溜める。
「一杯になったら止めてください」
そう言い残し、さっさと脱衣所に戻る。
最後に湯船にバスボムを投げ入れると、今度こそドアを閉めた。
入浴剤はサービスだ。
30分後、しっかりバスタイムを堪能したヒルメスさんは「・・・もういっそ住むか。ここに」と呟いた。
「は?」
「そもそも俺の住まいと繋がっているし、なにかと便利だ」
「私は血まみれで帰宅する男性との同居はちょっとできないですね」


夕食を終え、何もせずごろごろしていると後頭部をぺんと叩かれる。
「痛いなー、もーなんですかヒルメスさん」
「貴様はいつもそうやって、ぐだぐだとナメクジのように過ごしおって」
「いやいや、さっき一緒に食べた夕飯作ったの私ですからね」
なに?と怪訝そうに呟いたヒルメスさんはやがて確認するように尋ねた。
「あの食事を用意したのは貴様なのか?」
「そうですけど」
「なん・・・だと・・・」
驚愕しているヒルメスさんは最近、喜怒哀楽がはっきりしていてありがたい。
それまではなんでもないようなことでも抜刀していたため、だんだん私の方でも免疫がついてきていた。
「よし、貴様を俺の元で雇ってやろう」
「間に合ってます」
「なんだと」
凄んでみせるヒルメスさんに対し、私は「これでも一応は仕事しているので」と伝える。
「そんなもの、辞めてしまえば済む話ではないか」
「じゃあ、保険とか入ってますか?」
「保険・・・?」
福利厚生が整っていないのはちょっと、と言うとヒルメスさんは自信ありげに予告する。
「俺はいずれパルスの正統な国王となる。福利厚生など、それで十分であろうが」
「うーん・・・就任してから考えさせて下さい」


休日を自宅でのんびり過ごすことが習慣となっているこの頃。
前触れもなくやって来ては私をたしなめるヒルメスさんの存在をなんとかしたいとつくづく思う。
「貴様は、時間を無駄に過ごすことにかけては右に出る者がおらぬらしいな。まったく、パルスの女は勤勉だというのに」
「またお説教ですかあ・・・」
けれど、最近では諦めたのか皮肉めいた物言い程度で済むようになった。
以前の勢いそのままだったら折檻という名の尻叩きが待っていたかもしれない。
「すいませんねー時間を無駄にしてしまって」
ソファに横になったまま適当な返事をすると、
「たわけ!」
とヒルメスさんは耳をつん裂くような声で叫んだ。
「この俺が貴様のような出不精のために身を犠牲にしてやろうというのだ、感謝しろ」
”尊大な態度でわけの分からないことを口にする不法侵入者”という身分を、ヒルメスさんはいつ理解してくれてるのだろう。
「どういう意味ですか?」
起き上がって聞き返すとヒルメスさんは説明する。
「なんとかという球投げをすると、コミ、コミュ・・・意思疎通を交わしやすいと言うらしい。それに貴様を誘ってやろうというのだ」
なんとかとは。
「た、球投げですか・・・?」
「そうだ。コミュ、あれだ。交わしやすくなるらしい」
ひょっとしてコミュニケーション、と言うと「それだ」と頷く。
「あ、わかった。キャッチボールですね」
「先程からそう言っている」
面倒な言い争いになるのが目に見えているため、私は何も言わずに立ち上がった。
「おい、どこへ行く」
「近所の子から道具を借りてきます。ヒルメスさんも動きやすい服装に着替えてきた方が良いですよ」
「ここでしないのか?」
「え・・・ここでは、ちょっと・・・」

***

人目を気にしながら空き地へ向かっていると、
「何をこそこそと不審な動きをしている」
ヒルメスさんは呆れたように言った。
自分のビジュアルを少しは自覚してほしい。
長いマントに銀仮面、職質待ったなしだというのに。
「よし、いきます」
キャッチボールの経験はそれほどないから正直上手く投げられる自信はない。
「待て。貴様が投げるのか?」
「受け取ったら今度はヒルメスさんが私に投げるんですよ」
待てよ、キャッチボールの言葉の意味をこの人は知っているのだろうか。
「俺がお前に球を投げるだけではないのか?」
「そんな一方的な意思疎通をするつもりだったんですか・・・?」
このままでは埒があかないため、下からすくうように軽く投げる。
ボールは微動だにしないヒルメスさんのそばを軽快に転がっていった。
「・・・取って下さいよ」
「貴様、俺に指図する気か」
「受け取って投げ返すのがキャッチボールなんです!」
「知らん!ならば取れる球を投げろ!」
仕方なくヒルメスさんの側へ走りボールを拾って「はい」と手渡す。
「なんだ」
「これを私に投げてください」
再び元の位置について身構えた私の顔の横を、ものすごい速さの何かがかすめていった。
「え・・・」
おそるおそる振り返ると、かわいそうなほどフェンスを歪ませてボールが挟まっている。
「ふん。どうやら金網の方が優秀なようだな」
ヒルメスさんは鼻で笑っている。
この人と良好な意思疎通を図るのはまだまだだと痛感した。

***

すっかり日が暮れた頃。
キャッチボールとは名ばかりの不毛な投げ合いはこれで最後にしようと諦め、軽くボールを放る。
ゆるやかな放物線を描いたそれは、やがてヒルメスさんのグローブの中にぽすんと入った。
「うそ・・・」
呆然としている私に、ヒルメスさんはボールを効き手に持ち替えながら「俺はな」と口を開いた。
「これでも、貴様のことをそれなりにかっているつもりだ」
言葉の意味を知ろうと首を傾げている私に対し、ヒルメスさんは苦々しげに叫んだ。
「だから!・・・感謝していると言っている!」
口調とは裏腹に、空中にゆっくりと弧を描いてボールはぽかんとしている私のグローブに収まった。
「ヒルメスさん・・・」
「・・・ふん」
不器用だけど、きっと本当は心のあたたかい人なんだ。
ありがとうございました、と頭を下げる。
「いやー有意義な休日でした」
「それは結構なことだな」
並んで歩いていても、夕闇が異邦人の姿を守ってくれる。
今夜はヒルメスさんのためにとっておきのバスソルトを入れてあげよう。


きっかけは、ザンデの一言だった。
「ヒルメス様、最近いつも楽しそうですね!」
「なに?」
俺のどこが楽しそうだというのだ、と不機嫌もあらわに言い返すと、彼は焦って答える。
「いえ、これは失礼を。・・・ですが、笑っているように見えたもので」
「笑う・・・この俺が、か・・・?」
負の感情を糧に生きてきた自分の姿が、他人の目には一瞬でも幸福そうに映るとでもいうのだろうか。

***

「ふん、くだらん!」
いきなりどんという音がしたので振り向くと、ヒルメスさんがテーブルの上でこぶしをきつく握りしめている。
「なんだか今日は荒れていますね」
「当然だろう・・・待て」
貴様には俺がそう見えるのか、と問われ、私は曖昧にうなずく。
「まあ・・・今日はいつにも増して不機嫌そうだなって程度ですけど」
「そうか、そうだろうな!」
今度は笑みを浮かべるので私にはわけが分からない。
「おい、茶を出せ」
「それくらい自分で動いてください」
「貴様、この俺が誰だか分かっているのか」
「パルスの正統な王位継承者のヒルメスさんでしょ」
「ふん。分かっているのならそれで良い」
そう吐き捨てると、ヒルメスさんは立ち上がった。
「ついでに私の分もお願いしますー」
「貴様!・・・一度だけだぞ」
意外な言葉に思わず見上げると、ヒルメスさんの横顔はどこか嬉しそうだった。


- 144 -

*前次#


ページ: