穏やかなコンパス



和谷夫妻は新婚だったが、不思議とそうでないような時がある。
たとえば。
ささいなことがきっかけで言い争いになった時、我慢強いのはいつも夫の義高のほう。
けれど、頑として譲れない局面を迎えた時に、折れるのはたいてい妻であるなまえのほうだということ。
うまくは言えないけれど、ここぞという場面で互いに折り合いをつけるのが上手なのだ。
気のおけない友だちのようなふたりの関係は、とても理想的なものに思えた。

***

「え?結婚?」
誰が?と聞き返すと、「俺だよ俺」と和谷はくり返す。
「誰と?」
「なまえに決まってんじゃん!ずっと付き合ってたんだから」
和谷が、結婚、なまえちゃんと。
「おーい。伊角さん?」
ひらひらと目の前で手を振る相手に、俺は勢い尋ねる。
「・・・いつの間に!?」
「いやー言うの照れくさくて。とりあえずみんなには事後報告」
俺だけじゃなかったのか、ととりあえず胸を撫で下ろした。
「式とか、挙げるのか?」
「たぶん・・・つっても大げさなやつじゃないよ。こじんまりとした感じにしようって話してるんだ」
「そうか。付き合って、どれくらい?」
「この世界入ってすぐだから・・・3年とか?」
月日が流れるのは早い。
その中で、和谷は人生における重要な決断を下したのだ。

***

今の俺にとって、結婚という二文字はまだまだ遠い未来の話だった。
そんな漠然としたイメージは、目の前のふたりによってリアルなものへと変化してゆく。
「なまえは、和谷と結婚して正解だった?」
「進藤・・・お前、いきなりそんな爆弾発言を・・・」
はは、と和谷も苦笑いを浮かべている。
「もちろん。大正解だと思ってるよ」
「お、」
なまえの返事に、進藤は「なんでなんで」と身を乗り出した。
「うーん、なんていうか・・・隣にいるのが当然、って感じがするのかも」
「へー。じゃ和谷は?」
「それ聞く?長くなるぜ」
こいつのろける気だ、と進藤は笑う。
けれど正直なところ、俺にも興味深い質問だった。
「こいつしかいねえ、って思ったんだよ」
あっさりとした答えが返ってくる。
「それだけ?」
「それだけって。伊角さんまで聞きたいの?」
んー、と和谷は考えこむ。
そして、
「棋士ってさ、手合いとか研究会とかで毎日遅いじゃん。しかも、地方もあるから帰れないことも多いし。なまえはそこんとこ分かってくれてるから」
そういえば、彼女も短い期間とはいえ院生だった。
自分の才能にさっさと見切りをつけた後は、進学し、別の道を選んでいる。
「気も合うし、料理も上手いし、掃除はちょっと苦手だけど」
内緒にしてよ、となまえが小突く。
いいなあ、と思った。
「じゃあさ、結婚って楽しい?」
進藤の問いに、ふたりは笑ってうなずく。
「楽しいよ、とっても」
「良い相手を見つければ、多分な」
なまえは、空になったマグにさりげなくお茶を注ぐ。
負けず嫌いだった院生時代の頃の姿を思い出し、出来た奥さんになったなあ、としみじみ感じた。
・・・なんだ俺、親目線か。
プロ棋士にはなれなかったけれど、きっと今いる場所は彼女にとって同じくらい満足のいくものなんだろう。

***

帰り道。
「俺さ。実はあんな家庭が理想だったりするんだよな」
「伊角さんも?俺も」
その言葉に驚いていると、進藤は「結婚かー」と口にした。
「進藤、まさか」
「ん?いやいや、まっさかー」
ないない、と彼は笑う。
そして、
「来週からリーグ始まるし、新婚ボケした和谷を負かしてやるんだ」
と力強く宣言した。


- 132 -

*前次#


ページ: