長いやつ1



「 、負けました」
いやあ、やっぱり強いな。俺としちゃこの手は結構良い手だと思ったんだけどなあ、と対局相手だったおじさんは頭を掻いて一人検討を始める。
「ここでしょ、俺何となく分かってたもん。読み違えたね、」
「そうそう読み違えた、」
立ち上がろうとすると、脇から「ここはさあ、三段バネは強引過ぎだったよ」と別の人の声が聞こえてきて、巻き込まれる前にその場から離れた。
「そうだ、片付けといてよ」
分かった分かった、そう言ってさっきまでいた俺の席に座ったおじさんが片手を上げて碁盤から顔も上げずに答える。
俺も一応プロなんだけど、呟いた声は聞こえなかったようで、もう帰ろうかと時計に目をやる。
あれ、あんな子いたっけ。
好奇心から、そちらへ顔を向けると、彼女が真剣な表情で盤面を見つめているのが分かった。
と言っても対局している訳じゃない。
俺の不躾だったかもしれない視線に気が付いたのか、ふと彼女は顔を上げた。
「(・・・うわ、)」
何て言うか、綺麗な子だと思った。
瞳も大きくて、切れ長、というよりもアーモンドに近いのかもしれない。
あまり見慣れない制服を着ているけれど、歳はそんなに変わらないのかな。
彼女はこちらへやって来ると、「君、さっきあのおじさん達と打ってたね。勝った?」とにこりと笑って訊いてきた。
突然の出来事に俺はしどろもどろにながらも、「あ、うん」と頷く。
「ていうか、気付いてたんだ、俺が打ってたこと」
うん、と彼女は一つ頷くと、
「私、席料払ってないの。だから見てただけ」
と答えた。
「何で?打てば良いじゃん、」
俺の疑問に彼女はちょっと困ったように笑って、「今日は良いの」と言った。
「もう帰ろうと思ってたし。君は、もう一局打つ?」
「ううん、俺ももう帰ろうと思ってたとこ」
そっか、じゃ下まで一緒に行こう、とカーディガンの前を留めると彼女は背を向けて歩き出した。
進藤君デート?とモッズコートを羽織る俺に、にやにやしながら市河さんが声を掛ける。
「違うよ、だって今知り合ったばっかだもん」
「あらーそうなの?あの子ね、なまえちゃんて言うのよ。最近よく来るの、」
打たないでいつも見てるだけ、何でかしらね。
市川さんの呟いた言葉に、ふうんと俺はボタンを留めながら相槌を打つ。
何で打たないんだろ。
打てないのかな。
ねえ、と俺は彼女の後を追い掛け、「何で打たねえの?」と尋ねた。
「うーん、何となく」
進藤くん、だっけ、と彼女は首を傾げる。
「・・・もしかして、プロの人?」
「そうだよ。知ってんだ、」
「名前だけね、」
あんまり詳しくなくて、と申し訳なさそうに言うので、「名前、何?」と訊き返す。
「私、##NAME2##なまえ」
なまえで良いよ、とゆっくり階段を降りながら彼女は言った。
「なまえってさ、歳幾つ?あんまり変わんないよね、」
俺の問いになまえは「君、何年?」とマフラーを巻き直す。
「えーっと、高1になんのかな。進学してなくてさ」
そっか、と納得したように彼女は頷く。
「早くプロになった人って、そういう進路多いよね」
「言われてみればそうかも。塔矢って奴もいるんだけどさ、そいつも同い年でプロやってんだ」
プロかあ、と呟いた彼女の言葉が白い息となって冷えた空気の中に溶けていく。
「やっぱりすごいな・・・」
その一言に、俺はあれ、と思った。
「ね、私、帰り道こっち」
と俺とは逆方向を指さす。
「進藤くんは?」
「ん、俺こっち」
あのさ、アドレス聞いちゃだめかな、と俺は意を決して口を開く。
初対面でこんなこと尋ねるの、初めてだ。
良いよ、と彼女は笑って頷いた。
「私ね、高2なの。だから進藤くんより一個上だね」
「え、じゃあやっぱり敬語使った方が良いじゃん」
携帯をしまいながら、「良いの良いの」と彼女は首を振る。
「今更敬語はやだな。それに進藤くんとはさっき友達になったつもりだったから」
うん、じゃあそれで良いや、と俺も笑って答える。
「じゃあね、」
「ん、じゃあ」
また明日も碁会所に来るのかな。
ほんとは予定なかったけど、来てみようかな、なんて考えながら、変わったばかりの信号を渡り始めた。

次の日は、やっぱり碁会所に行くのが何となく躊躇われるような気がして、週末になるのを待ってから足を運んでみることにした。
「あ、いた」
彼女はカウンターに腰掛け、呑気に詰め碁の本をなどを捲ったりしている。
俺の声にふと顔を上げると、「あ、進藤くんだ」とそれを閉じ小さく微笑む。
「なまえちゃんてば、また見てるだけなのよ」
進藤くんちょっと打ってあげなよ、と市河さんがけしかけるのを彼女は苦笑いでかわす。
「うん、ねえ、俺と打とうよ」
なんなら席料俺が払うから、と提案すると、「別に席料けちってる訳じゃないよ」と彼女は慌てて否定した。
「もう、分かったよ」
確かに見てるだけじゃ何となく居心地悪いんだよね、となまえさんは立ち上がると碁盤の前に座った。
「にぎろうか?」
彼女の整えられた指先が白石に触れる。
「なまえさん棋力どのくらい?」
分かんない、と彼女は困ったように首を傾げる。
「ずっと叔父さんと打っていただけだったから」
そっか、と俺は頷き、「じゃ、とりあえず四子置く?」と答えも聞かずに並べる。
「うん、それでいい」
じゃ、お願いします。
何手か打ってみて、お互いの形がうっすらと盤面に浮かび上がる。
手筋が綺麗だ、と感じた。
ただ、その分先が読みやすい。
ああ、そっちに置いちゃうんだ。
サガるよりもかえってツケてしまう方が、切り合いになって攻防が複雑になるから面白いのに。
ふと視線を上げると、向かい合う彼女の真剣な表情は碁盤の一点を見つめている。
ああ、やっぱここで悩んでんだ。
活きるか死ぬかが、次の一手で決まってくる。
随分悩んでますね、と佐為が呟いた。
『ほら、ここ、ここですよ』
扇子の先で彼はちょいちょい、と指し示す。
『もー、佐為邪魔すんなよ』
『だって、こんなに悩んでいるんですよ。ヒカルだって昔はウンウン唸っていたくせに』
うるっさいなー、分かってるよ。
あ、
「・・・上手く活きたね」
ほんと?となまえさんはほっとしたように呟く。
「うん、ここ普通は何も考えずに二の一に置いちゃうんだよ。だけど、そうするとほら、」
こっちから石置かれるとコウ争いになって、結局ダメヅマリになっちゃうんだ。
「ああ、そっか」
でももう駄目だね、負けました、となまえさんは頭を下げた。
「結構強いじゃん。アマで初段くらい?」
「へえ、そういうのって分かるんだ」
一応プロやってるから、と笑うと、隣で『駆け出しですけどね』という声が聞こえた。
なまえさんは指の間から零れる石を拾いながら、「進藤くんはさ、夢とかある?」と尋ねた。
「え、夢?」
あ、そうか、と彼女は「もうプロだからそういうのないのか」と困ったように笑う。
「ん、まああるよ」
昇段してさ、いつかタイトルに挑戦してみたいかな。
「そんでゆくゆくは名人、本因坊」
七冠達成、なんつって。
「良いね。進藤くん強いから、きっと出来るよ」
「なまえさんは?将来やりたい仕事とかあるの?」
うーん、と彼女はしばらく考える素振りを見せるものの、「今はないかな、残念だけどね」と答えた。
「やっぱり寂しいよね」
「今って2年だっけ」
うん、そう、と石を片付け終わった彼女は頷く。
「じゃあまだ良いんじゃない?」
そんなに焦らなくてもさ、あと一年じっくり考えれば。
碁石を元の場所に置いて顔を上げると、「そっか、そうだね」となまえさんは笑った。
「今日はもう帰る?」
そう尋ねると、「ん、もう帰ろうかな」と立ち上がる。
「実は進藤くんが来る前から結構長居してたんだよね」
今日は席料良いわよ、とカウンターから市河さんが声を掛ける。
「え、マジ?」
「マジマジ。その代わり、ちゃんとなまえちゃんを送ってあげてよ」

***

なまえさんってさ、部活入ってる?
何気なくそう尋ねると、「ううん、帰宅部部長」という答えが返ってくる。
「何じゃそりゃ、」
うそうそ、と何もはめていない両手をコートのポケットにしまうと、
「でもバイトはしてるよ」
と白い息を吐いた。
「そうなんだ。毎日?」
「ううん、月木日の夜だけね」
ならさ、と俺は思いついた言葉を口にする。
「俺の手合いのない日、また今日みたいに打たない?」
ぽかんとした表情で俺を見つめるなまえさんに気付いて、あ、やべ、もしかして変なこと言ったかな、と慌てて「いや、もし良かったらだけど」と続ける。
「良いの?だって進藤くん、忙しくない?」
ほら、碁の勉強とかしたりするでしょ?
「ん、大丈夫。時間ならあるし」
すると彼女は「じゃあ、お願いしようかな」と笑って頷いてくれたので、その反応にほっとする。
『ヒカル、意外と積極的なんですね』
佐為が感心したように呟くのを無視して、「そういえばさ、」と俺は気になっていたことを尋ねた。
「なまえさんの学校ってこの辺?」
もうちょっと先かな、と彼女は一旦言葉を切ると、「もう二、三駅先かも」と続けた。
「あ、でも中学は海王だったよ。この近くの、」
そう言って信号の前で立ち止まる彼女の隣で足を止めながら、俺の中で海王、という単語がぐるぐる回る。
海王って確か、
「・・・あのさ、塔矢アキラってやつ知ってる?」
塔矢アキラ?となまえさんは首を傾げた。
「ああ、この間言っていたプロの人?」
どうかなあ。
「海王って人数多かったからねえ。それに一個下だし、」
「そっか、そうだよね。ごめん変なこと聞いちゃって」
ううん、となまえさんは笑うと、「じゃ、またね。送ってくれてありがと」と笑って改札を降りて行った。
やっぱ分かる訳ないかー。
『囲碁に興味があれば知っていそうな気もしますけどね』
「塔矢に興味がないんじゃねえの、」
またそんなこと言って、と佐為の呆れたような声が、俺の中に響いた。

##NAME2##なまえ、って人知ってる?
進藤の問い掛けに僕は首を傾げた。
「いや、・・・なぜ?」
「や、ちょっと碁会所で知り合ったつーか。お前の中学の先輩なんだよ、海王って言ってたから」
「へえ、そうなんだ」
囲碁部の人?と尋ねると、彼は答えに詰まる。
「さあ・・・どうかなあ。碁は打つけど、部活に入ってたかまではちょっと」
ふうん、と思案してみるものの、やはり思い当たる人物はいない。
「##NAME2##、何て人だっけ」
なまえ、という進藤の言葉に頷くと、あの人なら分かるかもしれない、と一人の人物を思い浮かべた。

***

あらー塔矢じゃない。久しぶりね、元気?
受話器の向こうから、あの頃と変わらない明るい声が響く。
「お久しぶりです、日高先輩」
『やあね、ほんとに久しぶりよ。全然連絡くれないんだから』
でも、プロになって頑張ってるみたいね。なんて、上から目線みたいだけど。
彼女の言葉に、思わず小さく吹き出す。
「あの、日高先輩。##NAME2##、なまえ先輩って方をご存知ですか?」
『なまえ?ああ、もちろん知ってるわよ。どうして?』
進藤が碁会所で知り合ったそうなんです、と言ってから、この表現には語弊があるかな、とふと思った。
しかし彼女は『へえ、意外ね』と返事をする。
「意外、ですか?」
『そうよ。あの子、碁は打つけど碁会所に行くようなタイプじゃないから』
でも、久しぶりにメールしてみようかな。
近況、教えてくれてくれてありがとね。
先輩のあっけらかんとした言葉に、「いえ、こちらこそ教えて下さってありがとうございました」と答える。
『ん、じゃあね。何かあったらいつでも連絡して』
そう言って、頼り甲斐のあった囲碁部の先輩との久しぶりの会話は終わったのだった。
どうやら彼女は##NAME2##先輩という方と親しい仲らしい。
碁会所に行くようなタイプではないと言っていたが、部活動にもあまり積極的ではなかったようだ。
どんな人、なんだろう。
どんな碁を打つ人なんだろう。
僕もたまには市河さんの所に顔を出しに行ってみようかな。

偶然碁会所で知り合った進藤君に刺激されて、たまには碁を打ってみようかな、なんて考えて、しまってあった詰め碁の本などを引っ張り出してみたりしている。
久しぶりに指に触れた碁石の冷たい感覚は懐かしく、夢中になって叔父さんにせがんで打ってもらっていた時を思い出した。
そういえば、この学校にも囲碁部が存在するらしい。
噂によると、一年生の子が入学と同時に立ち上げたらしく、勢いってすごいな、なんて思っていた。
しばらく返すのを忘れていた本を抱えて図書館のカウンターに預ける。
ついでにまた何か借りてこうかな。
あ、
「へえ・・・」
詰め碁の本、なんて置いてあるんだ。
随分色褪せた背表紙のそれは誰も借り手がいなかったのか、本棚の隅に追いやられていたらしい。
発行、昭和なんだ。
手に取ってページを捲ってみると、結構面白い。
17時まで、そう決めて私は静かに角の席に腰を下ろした。

***

延長した本の二度目の催促を受けて、私は慌てて閉館時間が近い図書館へと足を速めていた。
廊下は静かに、という張り紙を横目に、小走りの足音が渡り廊下に響き渡る。
「先生、あの、」
これ、と呼吸を整えながら本を手渡すと、司書の先生は「あら、ありがとう」と微笑んで受け取ってくれたのでほっとする。
夕日に照らされた座席には、先輩と思しき人が静かに本と向かい合っていた。
『あれ・・・?』
あの本、見覚えがある。
確か、詰め碁の。
入学して初めて図書館を訪れた時に見つけて真っ先に借りた、
そこまで考えるよりも先に、私の足は動いていた。
「あ、あの、!」
上ずった私の声にその人はふ、と本から顔を上げた。
綺麗な人だと、思った。
「なに?」
その本、そう言うと彼女は「ああ、」と一瞬手の中のそれに視線を戻すと、
「借りる?」
と差し出した。
「いえ、・・・あ、」
すみません私、いきなり声なんか掛けて。
失礼ですよね、そう謝ると、彼女は立ち上がり、
「良いの、17時までのつもりだったから。もう20分も過ぎてる」
と笑って見せた。
私よりも少しだけ背が高い。
「あの、・・・碁、打つんですか?」
その言葉に先輩は何か思い当たる節があったらしく、しばらく考えてから「もしかして囲碁部の人?」と尋ねた。
「はい、」
いきなりなんですけど、囲碁部に興味ないですか。
不躾に思われるのを覚悟で、思い切って尋ねた。
「うーん、」
私、バイトしててね。
「ちょっと難しいかな」
「あ、じゃあ、時々来て顔を出してくれるだけでも、」
良いんです、そこまで言って、図々しいやつ、と思わず視線を伏せる。
「じゃ、保留ね」
シフト見て考えてみるね、という言葉に、
「っ、ありがとうございます!」
と頭を下げた。

「今日ね、後輩の囲碁部の子に誘われちゃった」
俺との対局にテンポ良く手を進めながら、楽しそうになまえさんは話す。
「へえ、良いんじゃない?」
部活レベルならなまえさん結構強いと思うよ。
そう言うと、「ほんと?」と彼女は嬉しそうに笑った。
「ほんとほんと。ただ、今のは悪手だけどね」
それだと取られちゃうからこっちね、と石を置き直してやると、
「またやっちゃった・・・もうちょっと考えれば良かったな」
と再び難しい表情で盤面に視線を戻す。
普通にしてると綺麗だし、笑うと可愛いんだよな。
そんなことを思っていると、うーん、なんて小さく唸る声が聞こえてつい吹き出してしまう。
「あ、笑ったな」
「ごめん、今のなし」
だめだなあ、負けました。
そう言って碁石を片付け始める彼女に俺は、
「そんなことないよ、ちゃんと強くなってる」
と言った。
「置き石の数も三つに減ったじゃん、」
ん、まあね、となまえさんはアゲハマを俺の方に戻すと、
「でも進藤くん手加減してくれてるし」
と肩をすくめた。
「・・・なまえさんってさ、」
結構負けず嫌いでしょ。
「・・・そう見える?」
「うん、だってプロの俺に本気で挑んでくるし」
本気、と彼女は呟くと、一瞬目を細める。
「そんなこと、ないよ」
「えー嘘だ、あるよ絶対」
よし、となまえさんは片付けた碁石を脇に置くと、
「進藤くん、ラーメン食べ行かない?」
と提案する。
「!行く行く、」
しかも私の奢り、なんて気前の良いことを言うものだから、「え、何で?」と思わず尋ねた。
「良いの?」
「バイト代入ったから。それにいつも囲碁教えてもらってるし、」
あらデート、悪戯っぽく声を投げかける市河さんに彼女は「そ、良いでしょ」と冗談めかして笑うと、席料を払って楽しそうに階段を降りて行った。

***

髪を乾かしていると、携帯が着信を知らせているのに気が付いた。
日高、由梨。
懐かしい名前、などと思いつつ、通話ボタンを押した。
「もしもし、由梨?」
久しぶりね、元気?
中学の時と変わらない、良く通る明るい声が響く。
「うん、元気だよ。由梨も相変わらずみたいね」
『まあね。あんたが公立選んだ時は寂しかったわ』
そうだ、塔矢から電話があったの。
「塔矢、…アキラ?」
そういえば、進藤くんも彼の名前を言っていたような気がする。
「ごめん、私その子のこと知らないんだよね」
すると、『あんた碁打つくせに塔矢のこと知らないの?』と由梨は驚いたような声を出した。
『進藤ヒカルのライバルって言われてるのよ』
進藤くんの、ライバル。
「へえ、」
『あんた碁会所で進藤と打ってるんでしょ?塔矢が言ってたよ』
塔矢くん、という彼に、どうやら私の情報は筒抜けらしい。
『ね、また碁、始めたんでしょ?』
「ああ、うん、まあね」
『水くさいじゃないの、どうして進藤じゃなくて私に教えてくれなかったのよ。囲碁部なのよ?』
ごめん、と受話器に向かって謝る。
「だって私、由梨より弱いし」
ばかね、由梨は呆れたように呟くと、『そんなの関係ないじゃないの』と続ける。
「そうだね、ごめん」
しばらくお喋りをして、近々会おうと約束をして携帯を置いた。
塔矢アキラという子は進藤くんから私の話を聞いて、たまたま自分と同じ学校の先輩と後輩だったから、部活で一緒だった由梨に何か尋ねたのかもしれない。
…何だか話が膨らんできちゃったなあ。
面倒事にならないと良いけど、思わず吐いたため息が、冷えた部屋の中で微かに白く色づいた。

帰り道、幼なじみの家の前を通る度、ヒカル元気かな、と考えてしまったりする。
中学卒業と同時にプロ棋士としての道を歩み始めた彼とは、しばらく会っていない。
公式の手合いや研究会などできっと忙しいのだろう。
ただ、以前は毎日学校で顔を合わせていたのが当たり前だった分、自分の日常の一部がぽっかりとなくなってしまったようで、少しだけ寂しい。
メール、してみようかな。
でももしかしたら碁の勉強中かもしれないし、などと考えると、迷惑であるように感じてしまい、いつも遠慮してしまう。
私に囲碁の楽しさを教えてくれた幼なじみとの繋がりを一番感じることが出来るのは、やっぱり碁を打っている時だった。
今でもこうして囲碁部など立ち上げて碁を続けているのは、彼と同じものを共有していることで少しでも繋がりを求めようとしているからなのかもしれない。
そうでもしないと、私とヒカルとの距離がどんどん離れていってしまうような気さえ感じる。
本当は自分でもこの感情が何なのか、気付いている。
幼なじみに対するものとは、違う感情。
やっぱり、連絡するのやめとこうかな。
ため息だけが、微かに部屋に響いた。

***

「え、お前先輩になまえさんのこと聞いたの?」
棋院の廊下で思わず立ち止まり、「何で、」と尋ねると彼は「同じ学年の囲碁部の先輩に知り合いがいたから」と答えた。
「でも、やっぱり囲碁部ではなかったみたいだね」
同じ部活なら僕も知ってるはずだもの。
自販機の前に立ち止まり、財布を取り出しながら塔矢は続けた。
「ふうん、そっか。でもさ、勿体ないよ、」
だってすげー筋が良いんだぜ。
俺の言葉に塔矢はお茶を取り出しながら、「僕もその人と打ってみたいな」と言った。
「えっ、」
驚いた俺の顔を怪訝に思ったのか、
「だってすごく筋が良いんだろ?」
と訝しげに彼は尋ねる。
「ああ、まあ、うん。そうだよな」
ちょっとメールして聞いてみようか。
そういえば、アドレスを交換してから、まだ一度も彼女とは連絡を取っていない。
「なまえさんてさ、夢がないんだって」
夢?と首を傾げる塔矢に、「将来やりたいこととか」と言い直す。
「進路に迷ってる感じ、なのかな」
まだ2年だし良いと思うんだけどな、そんなことを話した矢先、
「 、あー!」
突然上げた俺の声に驚きながらも、塔矢は「どうしたんだ」と覗き込む。
「間違っておしるこ買っちゃったよ、あーあ・・・」
そうだ、お前これいる?
そう言って細い缶を差し出すと、
「だってそれお餅入ってないし、良いよ」
と彼は首を横に振った。


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