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『あ、由梨』
受話器から、聞き慣れた声が聞こえる。
「ねえ、なまえ、あんた明日暇?急だけどほら、日曜だし」
こないだ近い内に会おうって言ったじゃん。
そう言うと彼女は可笑しそうに笑いながら、『良いよ、どうせ暇だし。遊ぼうか』と言った。
じゃあ10時ね、場所は駅前で、手短に場所と時間を決めて、後は明日話そうと早々に電話を切った。
そうだ、と先日久しぶりに連絡をもらった後輩の顔を思い出す。
もとはといえば、彼がなまえの名前を出したことで復活した交流だったのだ。
塔矢がなぜなまえのことを気にするのかは実はあまりよくは分かっていないが、明日どうせ会うのだし、連絡だけはしておこうか。
『もしもし、』
「あ、塔矢。元気?」
元気ですよ、と彼は明るい声で応じる。
「良かった。あのさ、私明日なまえに会うんだけど」
何か聞きたいこととか、ある?
そう尋ねると彼は一瞬の沈黙の後、『あ、・・・じゃあ、棋力はどれくらいですか?』と言った。
「うーん、そうねえ。定石は多分結構頭に入ってるわよ。弱点があるとしたら詰め碁かしらね」
もしかして、打つの?
いえ、と塔矢は言った後、
『打ってみたいとは思っていますけど』
と続けた。
「ふうん、そっか。あの子、筋は良いのよ。あとはやる気さえあればっていうか」
そういえば、進路に悩んでいるそうだと聞きました。
そう言った塔矢の言葉に驚いたものの、私はため息を吐いて答えた。
「あの子まだそんなこと言ってるのね」
受話器の向こうから、『まだ?』と彼が繰り返したのが聞こえて、私はついずっと胸の奥にしまっておいた言葉を口にする。
「そうよ。碁に打ち込まないのだってそう。
絶対才能はあるのよ。なのに何かと理由を付けて逃げるの」
『どういう、ことですか?』
なまえってね、努力が無駄になるのが怖いのよ。
負けず嫌いをこじらせたって言うのか、負けるくらいなら最初から挑もうともしないの。
「それでもそつがないっていうか、ある程度はこなせるんだけど」
器用貧乏って言うのかしらね、こういうの。
私の愚痴を真面目に受け取ったのか、塔矢は『本気になるのが怖い、ということですか?』と聞いてきた。
「かもね。ま、海王にいた頃からそんな感じだったけど」
流石に話しすぎたかな、と思い直して、私は短い挨拶を口にして電話を切った。
それにしても、会ったこともない相手に対する質問が棋力はどれくらいですか、なんて、塔矢もよっぽど囲碁漬けの日々を送っているらしい。
***
何か聞きたいこととか、ある?
そう尋ねられて、そもそも自分は##NAME2##なまえという人物と直接知り合いではないことに気が付く。
棋力はどれくらいですか、と言うと、先輩はあっさり答えてくれた。
進路に迷っているそうだ、などと会話を繋ぐために咄嗟に口から出た彼女の個人的な内容が、まさかその後の会話になるとは思いもしなかった。
本気になるのが怖い、という言葉が、理解出来ない、とアキラは思う。
今まで囲碁に対して情熱をぶつけた自分にとって、彼女が抱えている冷めた感覚がよく分からない。
勿論、努力がすべて報われると言ってしまえば嘘になる。
それでも、報われた一握りの人達は皆すべからく努力をしているのだから、そうしない理由などなかった。

電話、してみようかな。
明日は日曜だし。
でも、プロ棋士にはそんなの関係ないのかもしれないけど、
そんなことをぐるぐる考えていると、突然手の平の携帯がメールの受信を告げる。
「!」
おそるおそるフォルダを確認すると、見慣れた名前に思わず心臓がどきりと跳ねた。
”よっ、元気?”
短い経った一言だけのそれが、嬉しかった。
”うん、元気だよ。ヒカルは?”
ありきたりだなあと思いながらも返事を返すと、携帯はすぐに次の受信を知らせる。
”俺は相変わらずだよ。囲碁部、ちゃんとやってるか?”
”うん、何とかね”
”そっか。そうだ、今度打ちに行ってやろうか?”
突然の提案に、思わずメールを読み返す。
”本当?来てくれるの?”
緊張しながら返事を送る。
”良いよ。大体あかりを碁に誘ったのも俺だし”
・・・あかり、ってまだ呼んでくれるんだ。
”ありがとう。待ってるね”
”もうちょっと予定のめどが立ったらさ、またメールするよ”
ほう、と息を吐いて壁にもたれる。
嬉しいな。
ヒカル、来てくれるんだ。
会って、またいろんなこと、話せたら良いな。

***

「そだ、なまえさんさ、今度時間あったりする?」
打ちたいって奴がいるんだけど、と対局後の他愛もない会話をしている最中に俺は塔矢の言っていたことを思い出す。
「・・・それって、塔矢くん?」
「そうそう。なまえさんってなかなか筋が良いって言ったらさ、自分も打ってみたいって」
あのさ、と彼女は紅茶をテーブルに置くと、「塔矢くんに、・・・その、何か言った?」と尋ねた。
「・・・?何か、って?」
あ、そういやあいつ、海王ん時の囲碁部の先輩に聞いた、って言ってたかも。
そう言うとなまえさんは納得したように頷く。
「そうそう、その囲碁部の先輩と私、友達でね」
言葉を濁す彼女に、「塔矢、何か気に触るようなこと聞いてきたの、」と思わず訊き返す。
「ううん、そうじゃないけど。ただ、」
何か私の知らないところでいろんな話が出てるんだなあって思ってさ。
「それだけ。ごめんね、変なこと聞いて」
「いや、何か、俺もごめん。だけどよく打ってる、とかそんな感じ、普通のことしか言ってないよ」
そっか、なら良かった、となまえさんが笑ってくれたので、俺もほっとする。
「そういえばなまえさん、前に夢がないって言ってたじゃん」
まあ、と彼女はマフラーを巻きながら頷く。
「今んとこはね」
ならさ、プロ棋士目指してみるっていうのはどう?
俺の言葉に彼女はぽかんとして、動かしていた手を止める。
「プ、ロ棋士?」
私が?と首を傾げるので、「そう、どうかな」と俺は言った。
「無理だよ、だって弱いもん」
「そんなことないって!本気でやれば、絶対プロ試験受かるよ。俺がついて教えるからさ、」
でも、と口ごもる彼女に俺は、
「なまえさん囲碁嫌い?」
と尋ねた。
「そんなことないよ、ないけど」
慌てて否定するものの、「でもさ、高すぎる目標だよ。そんな山登れない」と呟く。
「あ、だけど今までみたいに進藤くんと碁は打ちたいかな」
駄目かな、立ち上がった彼女がごめんと一言謝るので、
「いや、俺もごめん。焦っちゃったっていうか、変なこと言ってさ。だけど、」
椅子を引いて立ち上がると、なまえさん絶対才能あるからさ、と言葉を続けた。
「・・・ありがとね」
帰ろっか、そう言って優しく微笑う彼女に頷くと、片付けた席を後にする。
「・・・なーんか、ちゃっかり青春してんじゃないの」
帰り際、市河さんの呟きに佐為が『ほーんと、気付いてないのは本人くらいのものですよ』と頷いていたのは誰も知らない。

今日はバイトの予定もなく、碁会所に行くつもりもなかったのでどこかに寄って帰ろうかな、などと考えながら階段を降りていた。
携帯をいじりながら歩いていると、すれ違いざま「あっ、」という声が聞こえて顔を上げる。
「・・・ああ、」
図書館で囲碁部に入らないか、と声を掛けてきた子だった。
「こんにちは、」
そう言うと、彼女はぺこりと頭を下げて「こんにちは、お久しぶりです」と言った。
「あの、いきなりですみません。今日ってお忙しいですか、」
おずおずと尋ねてくるので、何だか無下にも出来ないような気がして、「部活のお誘い?」と訊き返す。
「はい、あでも、一局だけでも良いんです」
私あんまり強くなくて、部員もほとんどいないし。
仕方ないな、彼女の言うとおり一局だけ付き合っていこうか。
良いよ、と頷くと、嬉しそうに「ありがとうございます!」と再び頭を下げた。
「あ、私一年の藤崎あかりです、」
二年の##NAME2##なまえ、よろしくね。
自己紹介を終えて、部室だという教室へ着いて行く。
コートは着たまま荷物だけを脇に置いて、古ぼけた折り畳みの碁盤の前に座った。
「結構使い込んでるね、」
はい、と藤崎さんは碁石を運んでくると、「中学の時に使っていたものを頂いたんです」と笑った。
ふうん、と私は頷く。
あ、この碁石欠けてる。
碁盤にも小傷が多いんだなあ。
でも、それだけ彼女達が真摯に囲碁に対して向かい合っていたことの証のようにも思える気がして、私の背筋は自然と伸びた。
「よろしくお願いします、」
よろしくお願いします、と彼女は小さく頭を下げた。

***
負けました、そう言うと藤崎さんは「先輩強いなあ、」と続けて呟く。
互戦で白石を持った私の中押し勝ちという結果だったが、負けたにもかかわらず彼女は満足そうな表情をしている。
「強い人に教えてもらっているからかな。でも、私もまだまだ勝てないんだけどね」
そうなんですか、と碁石を選り分け片付けながら藤崎さんは頷いた。
「私の幼なじみもプロなんですけど、最近は全然打ってなくて」
彼女の言葉に私は「へえ、すごいね」と相槌を打つ。
「幼なじみってことは、藤崎さんと同い年くらいでしょ?それでプロやってるってすごいじゃん」
藤崎さんはまるで自分のことを褒められたように嬉しそうに微笑んだ。
「まだなったばっかりなんですけど。今度、教えに来てくれるんです」
「そうなんだ。何て名前?その人、」
進藤ヒカルっていうんです、と彼女は片付けを進めながら答えた。
一瞬、私の手が止まる。
「進藤、ヒカル?」
はい、と藤崎さんは頷く。
「あ、もしかして知ってます?雑誌に名前とか載ってるみたいですけど、」
彼女の問いに私は、うん、まあ、と曖昧に笑ってみせる。
「私、もう行くね」
そう言って立ち上がると、引き留めるでもなく藤崎さんは「ありがとうございました、打って下さって」と入口まで見送ってくれる。

今度、教えに来てくれるんです。
嬉しそうな彼女の言葉が頭の中で繰り返される。
目の前のあの子が今度打つ日を楽しみにしているのに、私は毎週打ってるよ、なんて言える訳もなかった。


もやもやとした気持ちを抱えたまま、結局どこにも寄らず真っ直ぐ家へと帰った。
夕飯とお風呂を済ませ、ベッドに倒れこんでぼんやりと天井を見つめる。
やっぱり、面倒なことになっちゃった。
着信を知らせる携帯を手に取り表示を確認する。
あ、進藤くんからだ。
「もしもし、」
あ、なまえさん?と会ってもいないのにいつもと同じ明るい彼の声が聞こえて、思わず笑ってしまう。
「進藤くん、元気だね」
『はは、まあね。うん、別に用って訳じゃないんだけど』
何か連絡先とか交換したのに、一回も電話とかメールしてなかったからさ。
彼の言葉に、そういえばそうだった、と思い出す。
『今日は碁会所行った?俺は手合いで行けなかったけど、』
なまえさんはどうかな、と思って。
「今日は私も行かなかったよ。・・・ねえ、」
ごめん、しばらく行くのやめようかと思って。
そう言うと彼は、『えっ、何で?』と心なしか大きな声で尋ねた。
『テスト?バイト?』
そんなとこ、と曖昧に返すと、進藤くんはそっか、と呟いたので、少しだけ心が痛む。
『・・・それとも、こないだのこと?』
こないだのこと、と問われて思い出すのは、多分彼が私にプロ試験を進めてきたことだろう。
『俺さ、あれから考えたんだけど、やっぱりいきなり過ぎちゃったかなって。目指してる進路とか特にないって言ってたし、なまえさん碁の筋も良いから、さ』
だけど気に障ったんなら謝るよ、電話の向こうで見当違いの答えを出している彼に、私は慌てて否定する。
「違うの、そうじゃなくて。ね、私ほんとに嬉しかったんだよ」
だってプロがそう言ってくれたんだよ。
でもね、後は私の問題。
やっぱり自信がないの。
『・・・俺と院生の時一緒だった人達もさ、やっぱ落ちてるよ。一度や二度なんてもんじゃない人もいるし、』
でもさ、皆絶対諦めないんだよ。
だってどうしてもプロになりたいから、どんなに高い山でも、何度落ちても、もう一度挑戦するんだ。
『俺はたまたま運が良かっただけ、』
進藤くんの言葉に、私の薄っぺらい臆病さが反応する。
どうしよう。
私、揺らいでる。
だってきっとその人たちみたいに何度も落ちてしまう、一勝も出来ないかもしれない。
なまえさん、と彼は言った。
『明日、ちょっとだけ時間くれないかな』
秘密があるんだけど、教えてあげる。
秘密?と尋ね返すと進藤くんは、『そ、塔矢にも誰にも言ったことがないんだぜ』と楽しそうに答えた。
『お願い、駄目かな』
「良いよ。秘密ってなんだろ、」
『明日教えてあげるよ。それまでは駄目、』
学校が終わる時間に駅で待ち合わせ、と決めて、電話は終わった。
秘密、ってなんだろう。
一日の終わりに進藤くんの声が聞けて、嬉しかったと思ってる自分がいる。
それと同時に、彼の幼なじみだという、あの子の姿が重なって見えたような気がした。

あ、なまえさん、こっちこっち!
駅のホームで進藤君が手を振るのを見つけて、階段を駆け上る。
「お待たせ、」
ううん、大丈夫と彼は笑う。
いつもの碁会所で降りる駅を幾つか越え、彼のお祖父さんの家が一番近いという駅で待ち合わせをした。
「ここ、」
でね、見せたい秘密っていうのはこっち。
そう言って進藤くんは蔵の扉を開けて、私を手招きした。
埃っぽさと、長い時間を経た古い道具独特の匂い。
蔵の中の薄暗さの中に舞う埃に、扉の外の昼間の明かりが反射していた。
「これ、」
「・・・碁盤?結構古いね、」
進藤くんは「そ、」と笑った。
「この碁盤が見せたかった秘密」
そう言うと、愛しそうに微かに積もった埃を指先で払う。
「・・・俺がまだ小学生の時にさ、蔵の中でこの古い碁盤を見つけたんだよ。で、そしたら碁がすげー強い幽霊が俺に取り憑いたの、」
なーんて、ま、信じてもらえないのも無理のない話だけど。
「だけど本当なんだ。でそいつがさ、どうしても碁が打ちたいって言うから、俺が代わりに打ってやってたんだよ。そんな時たまたま塔矢と出会って、あいつ、俺に食ってかかって来てさ」
進藤くんは立ち上がると、碁盤を元の場所に戻した。
「あの時の塔矢、すげー真剣だった。あいつが本気で追いかけてるのが俺じゃないのが、段々悔しくなって」
俺だって最初はプロ棋士になんてなるつもり全然なかったんだよ。
成り行き、っていうか、気付いたら目指してた。
たまたまきっかけがあっただけっていうか、
「 、だからどうって訳じゃないんだけど」
うん、そんだけ、と進藤くんは困ったように笑ってみせた。
進藤くんが、囲碁を始めたきっかけ。
「・・・その幽霊の人、まだ・・・いる?」
いるよ、と彼は頷く。
「でも、見えないだろうけど、」
私は進藤くんから視線を僅かに背後に彷徨わせる。
ほんとに、いるのかな。
少しだけ指先を伸ばすと、僅かに空気が揺れたような気がした。
「・・・私ね、怖いんだ」
ぽつりと呟くと、進藤くんは怖い?と繰り返す。
「うん。負けるのが、怖い。・・・自分の努力が報われないのが、怖い」
勉強も、部活も同じ。
自分ではどんなに頑張ったつもりでいても、結果が伴わないって分かった瞬間が一番嫌いだった。
それなら最初から手を抜いてやって、それで駄目だったら、ほら、やっぱりね。そう自分に言い聞かせる。
「臆病だよね、ただの弱虫」
情けないよね、そう言うと同時に力無い苦笑が零れる。
「碁打ちの幽霊の人だって、きっと私のことそう思ってるよ」
そんなことない、進藤くんの言葉を、私は再び否定する。
「せっかくのプロ試験だって、乗り切る自信ないよ。ぽっと出の私なんかがどんなにやったって、絶対に無理。どうせ今まで頑張ってきた人が受かるに決まってる、」
自分の言葉に、安心する。
それと同時に、意識の奥底に眠る自己嫌悪が頭をもたげた。
どんなに私が頑張ったって、それ以上に努力して才能のある人が軽々追い越していってしまう。
どれだけ努力したって無駄だよ、そう言われているような気がした。
「じゃあ、なまえさんも頑張れば良いじゃんか!」
張り上げた進藤くんの言葉に、俯いていた顔を少しだけ上げる。
真っ直ぐな彼の視線を、受け止めることが躊躇われた。
「最後に受かるのは、頑張ってきた奴なんだよ。負けるのが怖いなら、負けないように何度でも積み上げて、自信を付ければ良いじゃん!」
進藤くんの一言一言が、私のちっぽけな自尊心を砕いてゆく。
彼はそう言った後はっとしたように、
「っごめん、俺つい、・・・あれ、」
なまえさん、泣いてる!?
「ううん、何でもない、・・・ごめん、」
その先が、こみ上げてくる息で塞がってしまい続かない。
我慢できずしゃくりあげる私をその場に残し、進藤くんは黙って外に出た。
少しだけ落ち着いて、頬を袖で拭うと、「ごめん。ありがと、」と遠慮がちに声を掛ける。
「あ、うん。あのさ、えっと、」
泣いてるとこ、見られるのいやかと思って。
「ほんとはハンカチとか借せたら良かったんだけど、持ってなくて」
ごめん、と進藤くんが謝るので、それが何だか可笑しくて、思わず小さく吹き出してしまった。
「あ、笑ったな!」
そんなに可笑しかったかな、進藤くんはそっぽを向いて呟く。
ごめん、ありがとね。
そう言うと、彼はほっとしたように「あのさ、」と口を開いた。
「俺、無理にとは言わないよ。なまえさんの言ってることも分かる気がするし。でもさ」
やってみるのは有りなんじゃないかな。
「・・・うん、」
私、頑張ってみようかな。
「もし駄目だったとしても、・・・多分無駄にはならないと思う」
駄目で元々かもしれない。
でも、結果がどうであれ、これを乗り越えられたらきっと、変われるような気がした。
「うん、」
俺、なまえさんのことすげー応援する。
「だから、だからさ。絶対、受かろう」
よし、決まり!そう言って、屈託のない表情で彼は笑った。

キッチンで夕食を作るエプロンの背中にねえ、と遠慮がちに声を掛ける。
なあに、とお母さんは振り向くと、
「あら、今日はバイトじゃなかったっけ?」
と首を傾げた。
「うん、今日は違う日」
最近彼氏でも出来たんじゃない?などと嬉しそうに言うので、訝しげな視線を向ける。
「彼氏?いないよ、」
「そう?でも結構帰り寄り道してない?」
あれは碁会所に行ってるの、そう答えると、碁会所?とお母さんは繰り返す。
「叔父さん最近寂しがってたわよ。最近なまえが打ってあげないから、」
あのさ、と私は口を開いた。
「私、プロ試験受けてみようと思う」
「プロ試験?なんの?」
囲碁の、そう言うとお母さんは手を拭きながら「どういうこと?」と尋ねる。
「碁会所で、プロの人と打ったの。私に受けてみたら、って勧めてくれて、」
それで、・・・なんて言えば良いんだろう。
簡単に受かる訳がないプロ試験を、受験が始まるこの時期に首を縦に振ってくれるんだろうか。
「・・・受けて、みたいと思ったの」
そう、とお母さんは少しだけ考えると、「良いんじゃない?」と言った。
「え、」
「なまえが自分からやりたいって、今まであんまりなかったものね。叔父さんだって少しは詳しいだろうし」
プロの人のお墨付きなんでしょ?頑張ってみたら、とお母さんは呑気に夕飯作りを再開した。

***

あのね、お母さんに言ったら、プロ試験受けても良いって。
電話の向こうで、進藤くんの『良かったじゃんん!』という声が響く。
「うん、あんまり普通にオッケー出すから、拍子抜けしちゃったよ」
ほんとは受験はどうするの、とか色々聞かれるのかと構えていた部分があった。
『これで心置きなく囲碁の勉強に集中出来るね』
そうだ、碁会所じゃとお金掛かるし、これからはうちで打とうよ。
「進藤くんの家で?」
『うん。あ、でも電車代のが掛っちゃうかな、』
ん、大丈夫、バイト先近いから余計に定期買ってあるし。
そう言うと、じゃ決まりだね、と彼は笑った。
「進藤くんはどうやってプロになったの?」
うーん、と彼は考え込む。
『最初は全然分かんなかったし、とりあえず囲碁部に入ったんだよね。それで大会に出たりしてさ、そうだ、将棋部の部長で加賀って奴がいたんだけど、碁も強くてさ。院生試験受ける時の三面打ちの相手の一人になってもらったんだ』
「院生試験?」
耳慣れない彼の言葉に、私は思わず訊き返す。
『そう、院生ってさ、プロ試験目指してる奴が通う塾みたいなとこかな。クラス順位とか、結構な頻度で入れ替わるんだよ』
なまえさんは外部受験になるけど、と彼は言葉を切った。
「ねえ、進藤くんさ」
ほんとに私に出来ると思う?
私の頭に、ふと彼の幼なじみだというあの子が浮かんだ。
一手打つ度に難しい顔で考え込んで、負けたのに嬉しそうにありがとうございました、って笑っていた。
進藤くんと碁を打つのを楽しみに待ってる、あの子。
『なまえさんなら大丈夫だよ、』
それに、プロ試験受けるってなまえさんが決めたんだから、と進藤くんは言った。
『だから、絶対大丈夫』
「ん、・・・そうだね」
私絶対に頑張る、そう呟いた言葉は、自分への宣言でもあった。
もしもし、・・・ヒカル?
躊躇いがちに発信ボタンを押すと、しばらくしてからあかり?と懐かしい幼なじみの声が聞こえた。
「うん、久しぶり」
『そうだな。どうかした?』
「この間、メールしたでしょ?そしたら何だか、声聞きたくなっちゃって」
何でもない風にそう言うと、彼は『そっか』と笑う。
『そういえば最近全然会ってなかったよな。家も近いのに、』
囲碁、やってるか?という問い掛けに、私は「やってるよ、」と顔も見えないのに頷く。
「すごく強い先輩がいるの。だけどアルバイトしてるみたいで」
でもたまに来て打ってくれるんだよ、そう言うと、ヒカルは『良かったじゃん』と答える。
『 、』
急に黙った電話の向こうに、「どうかした?」と尋ねると、彼は何でもない、と言った。
『お前さ、明日部活ある?』
あるけど、どうして?
そう聞き返すと、ヒカルはあっけらかんと、
『俺打ちに行ってやろうか?』
と提案した。
私は急に頭が真っ白になって、
「ほ、ほんと?」
と携帯を握り直す。
『ほんとほんと。もしかして、疑ってんの、』
ううん、そんなことない。
「ありがとう、」
『前から約束してたことだし、良いって』
16時にそっちに行くから、校門の前で待ってて。
そう約束すると、そっと携帯を置いた。
どうしよう、
「どうしよう・・・」
はあ、と小さく息が漏れる。
ヒカルが、明日打ちに来てくれる。
中学まではそれが当たり前だったのに、すごく嬉しい。
声が聞けたことも、ヒカル、変わってないな、なんて思ったりして。
「どうしよう、」
すごく、嬉しい。

***
何か、引っかかる。
上手く言えないけど、どこかで何かがもつれているような、そんな感じ。
「あかり、囲碁部、先輩・・・」
うーん、分っかんねえ。
「あーもうイライラするー!」
ねえねえヒカル、と佐為が声を掛ける。
「何だよ、」
『打ちましょうよ、』
あのなあ。
「今すげー難しいこと考えてんの、」
だからあとあと、そう言うと佐為は『意地悪、』と拗ねてみせる。
『あんなに気軽になまえちゃんの先生引き受けちゃって』
ヒカルなんかまだまだプロのヒヨっ子のくせに。
「お前なあ、」
なまえさん、の顔が頭をよぎる。
「あれ、」
何か、変だ。
なんだろ、
ていうかなまえさんの言ってた囲碁部の後輩ってもしかして、
「あか、り・・・?」
だったり、するのかな。

一日が終わったばかりの放課後の教室は、この後の時間をどう過ごすかといったざわめきがチャイムと同時に響き渡っている。
今日はバイト、と友達の誘いを断り、荷物を整え立ち上がる。
「 、」
進藤くん?
見慣れた姿を窓の外に見つけて、思わず彼の名前を呟く。
初めて会った時と同じモスグリーンのモッズコートを羽織って、校門の前で手持無沙汰に経っているのが見えた。
何でいるんだろう、そう考えて、もしかしてあの囲碁部の子かな、と思い当たる。
「・・・」
なんだろう、変な気分。
しかし、これでとにかく急いで帰ってしまうと彼に見つかり面倒なことになるかもしれないので、私はマフラーを外すと、図書館で時間を潰すことにした。
**
ヒカル、ほんとに来てくれた。
彼の姿を見つけて、急いで駆け寄る。
おーあかり、と軽く手を上げるその姿が、懐かしく思えた。
「ヒ、カル、久しぶり」
「そんな走んなくても良いのに」
ごめんね、と呼吸を整えていると、ヒカルは私の制服を見て首を傾げている。
「・・・どうかした?」
ううん、何でもないと彼は言うと、
「部室どこ?」
と笑う。
こっち、と案内しながら隣を歩くと、ヒカルは時折へえ、などと校舎内を見回したりする。
「何か、ほんと学校って感じ」
そりゃ学校だもの、そう言うと、「そっか、そうだよな」と彼は笑った。
「あ、」
この碁盤、と案の定ヒカルがそれに気付いたので、私はなんだか嬉しくなって「それ、覚えてる?」と尋ねてみる。
「うんうん、これ確か葉瀬中で使ってたやつだろ、」
ほら、ここんとこの傷、これ俺が付けちゃったんだよ。
でさー筒井さんに道具は大事にしろって怒られちゃったっけ。
「ほーんと、懐かしいよな・・・」
あっという間だった、そう呟いてヒカルの指先が小さな傷を撫でた。
「・・・よし、打つか」
うん、準備するね。
お前、ちょっとは強くなったか?と声を掛けるヒカルに「どうかな、強くなってると良いけど」なんて返事をしながら私は早速支度をする。
部室の外に静かに響く足音の主を、私は知らなかった。




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