墨染の桜、鯉の庭



にこにことほほえむ母親の言葉に、アキラは「はあ」と曖昧にうなずく。
「お見合い、ですか」
「そう。楽しみね」
そう言っている彼女のほうが、うきうきとした表情を浮かべていた。
「行洋さんのお知り合いの方のお嬢さんなんですけど、どうかってお話を頂いて」
この脈絡のない見合い話に、まさかあの厳格な父が関わっていることに驚く。
「お母さん、すみませんが僕にはまだ」
「分かっています。でもね、アキラさん」
それほど悪いお話じゃないと思うの、と母は急に真面目な顔をして言った。
「プロ棋士としてやっていくのであれば、一番そばで支えて理解してくれる相手は必要よ」
確信ともとれるまなざしに、アキラは「そんなものですか」と戸惑いながら聞き返す。
「そんなものですよ。気楽にかまえていて下されば良いわ」
インターホンの音が鳴り、母は立ちあがって玄関へと向かった。
すいっと丸で囲まれた日にちをぼんやりと眺めていたアキラは「大安だ」と胸の中で呟く。
結婚、などというものは今の自分には関係がないと思っていただけに、今回の話はとても唐突な印象だった。
恋愛というものにもさほど興味がなく、短い時間とはいえ囲碁ではなくひとりの女性と向き合わなければいけないのだと思うと、億劫になる。

***

午前中と昼食をはさんで解散、ということは、その間にいくつ詰め碁を解けるだろうか。
そんなどうでもいいことを考えながら、タクシーに揺られ窓の向こうを眺める。
着いた場所は、静かな料亭だった。
外観から格式が高いことが伺い知れ、離れに通されるまでの庭は、初夏の花が美しく咲いている。
「アキラさん、緊張なさっている?」
美しく化粧をした母に尋ねられ、彼は首を横に振る。
「いいえ。庭がきれいだなと思っていました」
座布団に座りその時を待っていると、ふすまが細く開いてゆくのが見えた。
その奥から、着物姿の女性が楚々として、母親に付き添われてやってくる。
「(あれ、)」
相手の顔に見覚えがあるような気がした。
彼女のほうでもそうらしく、伏せていた目を大きく開いてこちらを見つめている。
母親同士がにこやかに会話をしている横で、ふたりはすっかり固まってしまっていた。
「では、後はごゆっくりとなさってね」
それからしばらくして、アキラはそっと尋ねる。
「・・・##NAME2##さん?」
「うん。塔矢くん、だよね」
うなずくと、彼女は言った。
「足崩してもいい?」
「あ、どうぞ。楽にしていいよ」
良かったー、と彼女はため息をつく。
どうやら、そうとう頑張って耐えていたらしかった。
その姿に、学生時代の面影を感じて親近感を覚える。
「中学の卒業式以来だね。久しぶり」
「ほんとだね。覚えてる?最後の席替えで初めて隣になったの」
覚えてるよ、とアキラは答える。
まさか、彼女とこんなご縁があったとは。
「##NAME2##さん、結婚考えてるの」
「ううん、全然。だってまだ卒業したばかりじゃない?だけど、なんだか盛り上がってるから」
塔谷くんは?と聞き返され、アキラは首を振る。
「僕も、正直あんまり興味がなくて。だから、##NAME2##さんがそう言ってくれて良かった」
もしかして今のは、すこし失礼な物言いではなかっただろうか。
そう考えてアキラは「あの、##NAME2##さんにってわけではなくて」と付け足す。
「分かってる、結婚に、ってことでしょ。律儀だなあ」
そういえば私の下の名前覚えてる?と彼女は言った。
「・・・なまえさん?」
「わ、すごい。覚えててくれたんだね」
海王は生徒数が多かったため、もちろん全員ではない。
けれど、気さくに話しかけてきてくれる彼女のことはよく覚えていた。
「よかったら少し外に行かない?庭がきれいだったから」
アキラの提案に彼女は立ちあがる。
「足、大丈夫?」
「うん。もう平気」
板張りの床を歩いて、地面へ降りる。
きらきらと光を反射する水面から、時折ぷくぷくと泡が昇っていた。
「あ、見て!鯉がいるよ」
なまえの言葉に覗いてみると、色鮮やかな鯉がすいすいと泳いでいるのが見えた。
「錦鯉だね。大きいな」
たくさんいると豪華に見える、という彼女の感想がなんだかおかしくて、アキラは思わず吹き出す。
「あ、笑ったな」
「##NAME2##さん」
また友だちでいてくれる?そう尋ねると、彼女はぽかんとした表情を浮かべた。
「・・・友だちでしょ?」
「え。あ、うん」
「もう。お見合い、憂鬱だったんだけどなあ」
楽しくなっちゃった、という言葉は、アキラも賛成だった。


- 136 -

*前次#


ページ: