春雷



「うそ・・・ファッション誌じゃない・・・」
穴が開くほど書類を見つめるなまえを、同期はなぐさめる。
「まあまあ。とりあえず、キャリアを積むって考えれば良いんじゃない?」
「そんなこと言って、自分は希望が通ってるくせに」
うらみがましいなまえの視線を、彼女は苦笑して受け止めた。
その時、ばたばたとせわしなく階段を降りる音がしたかと思うと、スーツ姿の男性がふたりの前に顔を出す。
「どっちか、##NAME2##さんで合ってる?」
私です、となまえが手を上げると、彼は人好きのする笑顔を見せて言った。
「良かった。これから取材があるんだけど、一緒に来てくれるかな?」
「い、今から?ですか」
「そうだよ。ま、いろいろ大変だとは思うけどこれからよろしく」
そう言って踵をかえした相手を慌てて追いかけるなまえのことを、友人は面白そうに見送った。

***

棋院という建物の前で、先輩がどこかに電話をしている間、なまえは気まぐれに売店の雑誌を手に取って眺める。
ぱらぱらとページをめくるものの、そこに載っているのは憧れていたファッション関係の記事ではなく、白と黒の織り成す不思議な羅列ばかりだった。
「うーん、オセロなら分かるんだけどなー・・・」
すると、隣から吹き出す声が聞こえてきてなまえは顔を上げる。
「あ、」
すみません、と笑顔のままで謝る相手を見つめていると、彼は言った。
「棋院に来てるのに、囲碁が打てないのは不思議だなと思って」
「これが仕事なんです」
諦めたようになまえは答える。
「仕事?」
「本当は別の部署が良かったんですけど、こっちに回されちゃって」
先輩が電話を終えたのを見て、なまえは話しかけてきた相手に軽く頭を下げる。
「それじゃ、」
「はい。急に呼び止めてしまってすみません。お仕事頑張って」
会ったばかりの相手にそう言われたのに、なんとなく悪い気はしない。
ありがとうございます、と答えて棋院の階段を上った。

***

「いやあ、これから塔矢プロのインタビューなんだ。緊張するなあ」
「塔矢プロって?」
君って本当になんにも知らないんだなあ、と呆れたような口調の相手に「だって興味なかった世界ですし」と肩をすくめる。
「もともとはファッション関係志望だったんですよ。それなのに、」
「希望が通らないのはよくあることだよ。僕だって、本当はバイクとかそっちに出してたしね。だけど、いつの間にかすごく惹かれていったんだ」
そう言って目を輝かせる先輩に、なまえは首をかしげてみせた。
「分からないなあ。オセロじゃだめなんですか?」
「オセロって・・・あれは両面だけど、囲碁は同じ色の石だろう。全然違うよ」
「それじゃ、先輩は打てるんですか?」
すると、彼は「うーん・・・」と困ったような顔をする。
「ま、ちょぼちょぼってとこかな」
なまえが口を開きかけた矢先、ドアの向こうから音がして相手は居ずまいを正す。
仕方なくそれに倣って待っていると、やがて控えめなノックが聞こえて開かれた。
「塔矢プロ!今日はインタビューよろしくお願いします」
「よろしくお願いします。いつも来てくださって・・・あ」
あ、となまえが声を上げたため、間にいた先輩はふたりの顔を順番に見やる。
「さっきの!」
思わずそう叫ぶと、アキラは合点がいったように「ああ、そういうことね」と笑顔を見せた。
「塔矢プロ、##NAME2##と知り合いなんですか?」
「いや、そういうわけではないんですが・・・さっき待っている間にお話していて」
「プ、プロ?もしかして囲碁のってことですか?」
こら、と先輩は慌てたようにたしなめる。
「なんてこと言うんだ、」
「まあまあ。それより、始めてしまいましょうか」
なまえは後ろでふたりのやりとりを聞いているかたわら、こっそりネットで彼のことを調べる。
名前を塔矢アキラ、という彼は、長く囲碁の世界に身を置いているらしい。
若くしてプロ試験に合格し、その後は順調に段位を重ねているようだった。
すごい人なんだ、と心の中で呟く。
自分と歳も変わらない彼は、まったく想像もできないような人生を歩んできているのだ。
そんなことを考えていると、ふいに視線が重なる。
なまえが跳ねあがった心臓を押さえつけていることなど知らず、アキラは声をかけた。
「もし良かったら、ちょっとだけ教えましょうか?」
「え?」
「囲碁のこと。これからも、取材に来てくれるんでしょう?」
少しずつでも覚えられたら良いですね、そう言って笑顔を浮かべた彼に、なまえは「はい」とうなずく。
「でも、良いんですか。貴重なお時間なのに」
「そうですよ、こいつ本当にすっからかんの初心者で!」
先輩もでしょ、とむっとしてなまえは答える。
「ばかやろう、お前塔谷プロがどれだけすごいか知ってるのか」
「知ってますよ。中学でプロ試験合格、それからあっという間に昇段」
先ほどの知識の受け売りをとっさに口にすると、ふたたび吹き出す声が聞こえてくる。
「あ、すみません。どうぞ続けて」
「いや・・・続けられませんよとても」
困ったような先輩の隣でかしこまっている新人記者と、将来有望な若手棋士。
ちぐはぐなふたりの出会いは、こうして始まったのだった。


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