クビドの悪戯



あ、やっちゃった。
そんな声が聞こえたのは果たして夢だったのか現だったのか。
おぼろげな記憶を抱えながら目が覚めたところで、妙に胸が痛いような気がしたが、いつしか忘れてしまい朝の支度を整えた。
シャワーを浴び、お気に入りのコロンを付ける。
朝食にはサラダとバゲット、にんじんのポタージュ・・・それから予定通りの時間に、こうして執務室へご出勤というわけだ。
「・・・というわけだ、ではないわ!」
いらいらしながらシオンがにらみつけているのは、まるで恋に恋する乙女のようにぴったりと身を寄せているアフロディーテの姿だった。
それも、サガの隣に。
「なぜ、こんなことに・・・」
いわく、執務室でサガと目があった瞬間からおかしくなったらしい。
「おはよう、アフロディーテ」
何気なく挨拶をしたサガに対し、アフロディーテがかけた言葉は「おはよう」でも「ああ、今日も目が死んでるな」でもなく、「世界で一番君を愛している」というものだった。
あまりに突然の出来事に、サガもシオンも硬直する。
「は・・・?」
「おい、朝っぱらから気色の悪い冗談はよせ」
しかし彼はみるみる目に涙を溜めて、
「そんな、あんなに愛し合った仲じゃないか」
と言い放ったのだ。
「サガ、まさか貴様・・・?」
「ちが、違います!アフロディーテ、いきなりなぜふざけた真似を」
「ふざけてなどいない!私は誰よりも君を愛しているのだ!」
ただならぬ様子に呼びだされたなまえは、まるでギリシャ神話から抜け出してきたような彼らの姿に目を剥いた。
「ちょっと嘘でしょアフロディーテ、冗談だよね」
「冗談?まさか。私の心は甘い恋人、サガのものだよ」
ね、と悩ましく微笑みかけられたところで、サガにとっては嬉しくもなんともない。
いくら外見が美しくとも彼は男なのだし、鍛え抜かれた体で迫られるなどごめんこうむりたかった。
「お前の言う甘い恋人とはなまえのことだろう、そうであろうが?」
「いいえ。世界でただひとり、ジェミニのサガのことです」
きっぱりとそう宣言したアフロディーテに、なまえは目まいを覚える。
「嘘でしょ・・・」
「なまえ、気をしっかり持て!今アテナが調べて下さっているから」
ふたりのやり取りなどそっちのけで、アフロディーテはサガにささやいた。
「ねえサガ、私の薔薇園に行こうよ。そこでどれほど君のことを愛しているのか伝えたいんだ」
「それは遠まわしに死ねと言っているのか?」
宝石のような瞳から視線を反らしてげんなりとサガは呟いた。
「君の手にかかるなら本望さ・・・むしろ、私の心はとっくに君の愛なしじゃ生きられない薔薇のようだよ。そう、君の愛という泉の・・・ね」
一方的なとめどない愛の告白に「やーめーてー」となまえは思わず耳と目を塞ぐ。
もう聞きたくない、自分の恋人が男に愛を捧げるのも、こんなにセンスのない言葉を次々とのたまうのも。
「もうそのへんで勘弁してくれ・・・」
その時「分かりましたわ原因が!」と扉を開け放った女神の姿に、サガははっとして顔を上げる。
「アテナ!」
「クピドが間違えて天界から矢を落としてしまったのです。それが偶然にアフロディーテの元に」
そんなことってあるの、となまえは叫んだ。
「そうらしいのです・・・このセンスのない愛の言葉がその証拠です」
沙織は未だ熱の冷めないアフロディーテをちらりと一瞥すると、「そろっと語彙を現代版に改めてもらわないと・・・」とため息をついた。
「それで、このうっとうしい事態はいつ収まるのです」
シオンの問いに沙織は「今日が終われば元に戻ります」と答えると、アフロディーテの瞳を覗きこんで呟く。
「ああやっぱり、目の中にハートが入ってる・・・」
私はどうすれば良いのです、とおそるおそる尋ねたサガに、沙織はあっさりと答えた。
「今日だけはそのままでいて下さい。私はこれ以上なまえさんに傷ついてもらいたくはありませんから、一緒にお出かけしてきます」
でも、とためらうなまえの腕を引いて、沙織は「さあ、行きましょうなまえさん。心配しなくても明日には元に戻りますから」と微笑みながら部屋を出て行ってしまった。
「・・・シオン様」
「というわけだ。ま、頑張れよ」
そう言い残して無情にもシオンまでが姿を消してしまい、執務室にはふたりだけが残される。
「まったく、なんだってこんなことに・・・うん?」
サガ、とぐいと顔を引き寄せられ、思わず「ぐえ」と喉の奥から声が漏れる。
「痛いではないか、何をする!」
「ねえ、やっと二人きりだね・・・愛しているよサガ・・・」
その瞬間、ぞーっと背筋が寒くなる。
「・・・やっかましいわー!」
思わず彼を異世界に飛ばしてしまったことを、元に戻ったアフロディーテの毒薔薇が刺さっている今でさえサガは後悔していない。


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