もしもシリーズ2



<もしも魚が髪を切ったら>

双魚宮に入った瞬間、なまえは思わず絶句する。
「切っちゃったの!?」
「やあ、そうなんだ。どうかな?」
すっかり軽くなった頭を軽く振って、アフロディーテは照れたように笑った。
「けっこう気に入ってるんだ」
驚いた、そう言ってなまえはさまざまな方向から眺める。
肩よりもわずかに短くなり、片側だけ耳にかけている髪型は彼によく似合っていた。
「とっても素敵。前も良かったけど、今もすごくね」
「それなら良かった」
なまえは、ふと彼の首筋に赤い痕が付いたままであることに気づいて顔をくもらせる。
「それ、付けたまま切りに行ったの?」
「それ?・・・ああ、忘れてた」
なんとなくその場所に手を触れたアフロディーテは、「良いじゃないか」と答える。
「悪いものでもなし」
「そうだけど、そうかもしれないけど・・・」
きっと美容師に気まずい思いをさせたのではないかと考えると、自分もなんとなく恥ずかしいような気持ちになる。
そんなことを知ってか知らずか、アフロディーテは彼女に朝食の席をすすめた。
「しかし、短いってほんとに楽だな。デスマスクもシュラも伸ばさないはずだ」
焼き立てのパンをちぎりながら、「それにあいつら絶対似合わないしな」と真面目な顔をして語るのがなんだかおかしくてなまえは笑顔を浮かべる。
「それ、本人たちが聞いたら怒るんじゃない」
「さあね。どうだって良いさ」
どうせあいつらもいない所でなにかしら言っているんだから、と彼は肩をすくめた。
香ばしいローストしたクルミがたっぷり入ったパンの上で、バターがあっという間に溶けてゆく。
「でも、どうしていきなり短くしたの?」
「別に、理由はない。ずっと長いままでいたからね。気分転換、それだけ」
ふうん、となまえは頷く。
「長いのも短いのも、やっぱりかっこいいなあ」
「惚れ直した?」
ばか、と照れたように答えると、アフロディーテは微笑む。
そして、思いついたように言った。
「実は、私は君の恋人ではないんだ」
「ほんと?じゃ誰なの?」
双子の弟、という適当な答えに乗っかってなまえも尋ねる。
「名前は?」
「名前?あー・・・ジャック」
あまりにも適当なネーミングを聞いて思わずふき出した。
「おい、笑いすぎだよお嬢さん」
「だって、ジャックって・・・!」
「昨日観ていた映画の主人公さ」
そう言って彼も笑いだす。
そしてなんとなく毛先を触ろうとして、それがないことに気がつくと、ゆるやかな仕草で髪を耳にかけた。


<もしも魚が花粉症だったら>

気持ちのいい朝だった。
散歩がてらカフェに寄ろうと決めて、なまえはうきうきと双魚宮を訪ねる。
数回ノックをしたものの、なんの反応も返ってこない。
ひょっとして、すでにひとりで散歩に行ってしまったのだろうか。
しかたなく、来た道を戻ろうとした時だった。
うっすらとドアが開かれ、かすれた声が返事をした。
「なんの用・・・?」
「おはよう、アフロディーテ。よく晴れたし散歩に行かない?待ってるから」
散歩?と彼はくり返す。
「・・・行かない」
「そっか。寝不足?」
「いや、そうか・・・君はまだ知らなかったんだな。まあ良い」
とりあえず入りなよ、そう言って双魚宮に招き入れた彼の姿になまえは目を丸くした。
パジャマ姿で、マスクをした彼の眼鏡の奥はしょぼついている。
「もしかして風邪でもひいた?」
「いや。毎年こうなんだ」
気だるそうにティーセットを用意しようとする彼を「あ、無理しないで」と引きとめる。
「ところで、何の用だったかな」
「散歩の誘いだったんだけど、無理みたいね」
「やめといたほうがいい。最悪の天気だ」
なまえは首をかしげる。
「雲ひとつない快晴だよ」
「だからだよ。せめて雨ならなあ」
不思議そうな顔をしているなまえにアフロディーテは言った。
「花粉症なんだ」
それを聞いて彼女はようやく納得する。
言われてみれば、室内にはいくつも加湿器が焚かれ、窓には目張りがされている。
「年々ひどくなるばかりでさ。この時期だけはどうしようもない」
次の瞬間、彼はくしゃみを連発した。
「それじゃ、どうやって過ごしてるの?」
「あんまり頭も働かなくないし、寝て過ごすか・・・寝て過ごしてるな」
もしも聖戦がこの季節に起きていたとしたら、きっと大惨事だっただろう。
そう言うと、アフロディーテは嬉しそうな顔をする。
「それが大丈夫なんだ。サガとミロ、それからミーノスとルネも仲間だから」
今年はとうとうバレンタインも発症したらしい、と彼は言った。
「ふうん・・・あ、ねえ。だったら海界に行ってみるのはどう?」
「海界か、いいね。いっそ住みたいくらいだ」
海闘士になっちゃわないでよ、となまえはくぎを刺す。
「なるものか。それだけは心配いらないよ・・・と、来客か?」
「私が出る。アフロディーテは休んでて」
「ああ、悪い」
ため息をついて、彼はソファに深く沈みこんだ。
「はーい・・・デスマスク」
「悪いがちっと通らせてくれって伝えてくれよ」
「了解」
「ところで、なんでお前はこんな朝っぱらからこいつの宮にいるんだ?」
それはね、となまえが説明しようとした矢先、盛大なくしゃみの声が聞こえてきた。
「ああ?あいつ風邪か?」
「デスマスク、貴様それ以上こっちへ来るな!」
「うっせ、執務なんだよ」
花粉症なんだって、となまえが言うとデスマスクは、
「はァ?・・・黄金のくせに花粉症〜?」
と呆れてみせた。
「サガとミロと、それからミーノスとルネ、だったかな。とにかくみんなかかってるんだって」
「おいおい、天下の聖闘士ともあろう者が花粉なんかにやられるのかよ」
近づこうとしたデスマスクの足元にシュッと薔薇が刺さる。
「うおっ、なんだよいきなり!」
「うるさい、花粉を持ってこっちへ来るな」
なまえは疑問を口にする。
「だけどアフロディーテ、いつも薔薇の世話をしているじゃない?」
「毒薔薇の香気は私にとって空気みたいなものだ。でもスギはだめ」
そこまで言ってふたたび「くしゃん!」と反応した彼は天を仰いだ。

<もしも魚の字が汚かったら>

執務室の奥に位置するシオンの部屋から、「今度という今度は許さん!!」とどなる声が聞こえた。隣のデスクのアフロディーテとどちらともなく目くばせを交わす。「なんだかすごいね」「怒髪天を突くというやつだな」バン!と乱暴な音を立ててドアを開けたのはデスマスクだった。「おいアフロディーテ!」「なんだ」今にも掴みかからんばかりの相手に「どうでもいいことに巻き込むな」と彼は言った。「どうでもいいことだと?」怒りに燃える目で相手をにらみつける。
「どうしたんだ、そんなぼろぼろになって」
「どうしたんだ、そんなぼろぼろになって」
「誰のせいだと思ってんだよ!」
「?さあ」
デスマスクは無言で一枚の紙を目の前に突きつけた。
「なあに、これ?」
「お前、これ読んでみろ」
ギリシャ語に不慣れななまえは困惑したが、とにかくそれを眺めることにする。
一本の線が波のように引かれ、ところどころアクセントのように点や横棒がかさなる。
ひょっとして、” i ”や ” t ” を表わしているのだろうか。
なんだ、と隣でアフロディーテはこともなげに言った。
「私の書いたメモじゃないか」
「えっ」
「そのメモのせいで、俺は今こうなってるんだが?」
わけが分からないといったように彼はただ肩をすくめた。
その時、奥の部屋から顔を出したシオンがため息まじりに重く発した。
「アフロディーテよ」
「はい、なんでしょうシオン様」
居ずまいを正す彼に、シオンは告げる。
「お前はもうすこし、字の練習をするがいい」
「は?」
きょとんとしている相手の目の前で、シオンは先ほどのメモにさらさらと赤ペンを入れはじめた。
「よいか。I はこう、それから P はこうだ」
「あの、シオン様・・・?」
「あと!数字はきちんと書け!」
そうだそうだ、とデスマスクも大きくうなずいてみせる。
「お、お待ちください!その・・・なぜ私のメモは添削されているのでしょう」
「それはだな、アフロディーテ。お前の字があまりにも下手だからだ」
あぜんとしていた彼は、しばらくしてようやく「な、んですって・・・?」と聞き返した。
「だから、オメーの字が汚くて読めねえって言ってんだよ!」
「そんなの嘘だ」
嘘ではない、とぴしゃりとシオンは答える。
「なまえよ、この数字を読んでみよ」
彼の示す先にある文字がそもそも数字であるのを、なまえは初めて知った。
これが小文字の L でも I でもないとするなら、
「えーと・・・1?それとも7かも」
「どっちにも見える。が、俺はこれを7だと読んだ」
「そして私は1のつもりでことづてを頼んだ。おかげで私は6時間もこやつに待たされたというわけだ!」
午後1時と午後7時。
大変な間違いにちがいない。
そうかなあ、とアフロディーテは手にとってまじまじと見つめる。
「午後1時に白羊宮の前でシオン様と待ち合わせ。・・・こんなに分かりやすいのに。そう思わないか?」
「内容はいいと思うけど・・・うーん」
デスマスクはうんざりしたように言った。
「こいつの書く字ときたら、1は7、7は1だし、8は&、小文字の Q やら A やらは数字の9との区別もつかねえんだよ」
「そんなの文脈で理解しろよ、ばかだな」
「その文脈にたどりつくまでが難解すぎるんだよ!ヒエログリフのがまだマシだわ!」
とにかく、とシオンは命じる。
「明日ドリルを買ってくるから、しっかり勉強するがいい」
「ド、ドリル・・・」
思わずよろめいたアフロディーテをにやにや笑っているデスマスクに対し、シオンは、
「お前は7時の待ち合わせのつもりで7時半に来るな!」
と怒鳴った。
「いや、あの、それはですね、こちらにも事情というものが・・・」
「やかましい!貴様には私が自らマナーというものを叩きこんでくれるわ!」
むんずと襟をつかまれ、ふたたび執務室の奥へと引きずられてゆく姿を見つめながらアフロディーテは呟いた。
「屈辱的だと思ったが、私はドリルの刑で良かったなあ・・・」
「本当にね・・・」


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