短くしたやつ


「・・・、負けました」
やっぱり進藤先生は強いな、と目の前の相手は呟く。
「俺としちゃこの手は結構良い手だと思ったんだけどなあ」
読み違えたね、と言うと、
「そうそう読み違えた」
と頭を掻きながら石を動かす。
「ここはさあ、三段バネは強引過ぎだったよ」
「そうそういったん引くべきだった」
脇でずっと見ていたおじさんが口をはさんで、あっという間に検討が始まる。
「石片付けといてよ」
「分かった分かった」
おじさんは俺のいた席にどっかり腰を下ろして、碁盤から顔も上げずに答えた。
ちぇっ。俺も一応プロなんだけど。
ラーメンでも食べて帰るか、なんて考えながら帰り支度をしている時だった。
「(あれ、)」
俺と塔矢以外も学生が来てるのか。
よく見れば彼女が着ているのは、あかりと同じ制服だった。
真剣なまなざしで碁盤を見つめている。
けれど打っているのは彼女じゃない。
面白い局面なのかとそっと覗いてみたものの、まだ打ち始めだった。
「君、さっきあのおじさん達と打ってたね。勝った?」
とささやかれた声にうなずく。
「あ、うん」
俺が打ってたの気付いてたんだ。
「席料払ってないんだ。だからいろんな人の対局を見せてもらってたの」
「ふうん」
彼女がそっとその場を後にしたため、俺も一緒に離れる。
不思議な子ですね、と佐為が言った。
『どうして打たないんでしょう。せっかく来たのに』
「(さあ・・・あんまし自信ないのかもな)」
打たねえの、と軽く尋ねる。
するとちょっと困ったように笑って、
「今日はいいの」
と返ってきた。
「そろっと帰ろうかな。君はもう一局打っていくの?」
「ううん、俺も帰ろうと思ってたとこ」
「そっか。下まで一緒に行こう」
カーディガンの前を留めながら彼女は市河さんに声をかける。
「あら##NA背を向けて歩き出した。
進藤君デート?とモッズコートを羽織る俺に、にやにやしながら市河さんが声を掛ける。
「違うよ、だって今知り合ったばっかだもん」
「あらーそうなの?あの子ね、なまえちゃんて言うのよ。最近よく来るの、」
打たないでいつも見てるだけ、何でかしらね。
市川さんの呟いた言葉に、ふうんと俺はボタンを留めながら相槌を打つ。
何で打たないんだろ。
打てないのかな。
ねえ、と俺は彼女の後を追い掛け、「何で打たねえの?」と尋ねた。
「うーん、何となく」
進藤くん、だっけ、と彼女は首を傾げる。
「・・・もしかして、プロの人?」
「そうだよ。知ってんだ、」
「名前だけね、」
あんまり詳しくなくて、と申し訳なさそうに言うので、「名前、何?」と訊き返す。
「私、##NAME2##なまえ」
なまえで良いよ、とゆっくり階段を降りながら彼
「早くプロになった人って、そういう進路多いよね」
「言われてみればそうかも。塔矢って奴もいるんだけどさ、そいつも同い年でプロやってんだ」
プロかあ、と呟いた彼女の言葉が白い息となって冷えた空気の中に溶けていく。
「やっぱりすごいな・・・」
その一言に、俺はあれ、と思った。
「私、帰り道こっち」
と俺とは逆方向を指さす。
「進藤くんは?」
「ん、俺こっち」
また明日も碁会所に来るのかな。
ほんとは予定なかったけど、来てみようかな、なんて考えながら、変わったばかりの信号を渡り始めた。

次の日は、やっぱり碁会所に行くのが何となく躊躇われるような気がして、週末になるのを待ってから足を運んでみることにした。
「あ、いた」
彼女はカウンターに腰掛け、呑気に詰め碁の本をなどを捲ったりしている。
俺の声にふと顔を上げると、「あ、進藤くんだ」とそれを閉じ小さく微笑む。
「なまえちゃんてば、また見てるだけなのよ」
進藤くんちょっと打ってあげなよ、と市河さんがけしかけるのを彼女は苦笑いでかわす。
「うん、ねえ、俺と打とうよ」
なんなら席料俺が払うから、と提案すると、「別に席料けちってる訳じゃないよ」と彼女は慌てて否定した。
「もう、分かったよ」
確かに見てるだけじゃ何となく居心地悪いんだよね、となまえさんは立ち上がると碁盤の前に座った。
「にぎろうか?」
彼女の整えられた指先が白石に触れる。
「なまえさん棋力どのくらい?」
分かんない、と彼女は困ったように首を傾げる。
「ずっと叔父さんと打っていただけだったから」
そっか、と俺は頷き、「じゃ、とりあえず四子置く?」と答えも聞かずに並べる。
「うん、それでいい」
じゃ、お願いします。
何手か打ってみて、お互いの形がうっすらと盤面に浮かび上がる。
手筋が綺麗だ、と感じた。
ただ、その分先が読みやすい。
ああ、そっちに置いちゃうんだ。
サガるよりもかえってツケてしまう方が、切り合いになって攻防が複雑になるから面白いのに。
ふと視線を上げると、向かい合う彼女の真剣な表情は碁盤の一点を見つめている。
ああ、やっぱここで悩んでんだ。
活きるか死ぬかが、次の一手で決まってくる。
随分悩んでますね、と佐為が呟いた。
『ほら、ここ、ここですよ』
扇子の先で彼はちょいちょい、と指し示す。
『もー、佐為邪魔すんなよ』
『だって、こんなに悩んでいるんですよ。ヒカルだって昔はウンウン唸っていたくせに』
うるっさいなー、分かってるよ。
あ、
「・・・上手く活きたね」
ほんと?となまえさんはほっとしたように呟く。
「うん、ここ普通は何も考えずに二の一に置いちゃうんだよ。だけど、そうするとほら、」
こっちから石置かれるとコウ争いになって、結局ダメヅマリになっちゃうんだ。
「ああ、そっか」
でももう駄目だね、負けました、となまえさんは頭を下げた。
「結構強いじゃん。アマで初段くらい?」
「へえ、そういうのって分かるんだ」
一応プロやってるから、と笑うと、隣で『駆け出しですけどね』という声が聞こえた。
なまえさんは指の間から零れる石を拾いながら、「進藤くんはさ、夢とかある?」と尋ねた。
「え、夢?」
あ、そうか、と彼女は「もうプロだからそういうのないのか」と困ったように笑う。
「ん、まああるよ」
昇段してさ、いつかタイトルに挑戦してみたいかな。
「そんでゆくゆくは名人、本因坊」
七冠達成、なんつって。
「良いね。進藤くん強いから、きっと出来るよ」
「なまえさんは?将来やりたい仕事とかあるの?」
うーん、と彼女はしばらく考える素振りを見せるものの、「今はないかな、残念だけどね」と答えた。
「やっぱり寂しいよね」
「今って2年だっけ」
うん、そう、と石を片付け終わった彼女は頷く。
「じゃあまだ良いんじゃない?」
そんなに焦らなくてもさ、あと一年じっくり考えれば。
碁石を元の場所に置いて顔を上げると、「そっか、そうだね」となまえさんは笑った。
「今日はもう帰る?」
そう尋ねると、「ん、もう帰ろうかな」と立ち上がる。
「実は進藤くんが来る前から結構長居してたんだよね」
今日は席料良いわよ、とカウンターから市河さんが声を掛ける。
「え、マジ?」
「マジマジ。その代わり、ちゃんとなまえちゃんを送ってあげてよ」
なまえさんってさ、部活入ってる?
何気なくそう尋ねると、「ううん、帰宅部部長」という答えが返ってくる。
「何じゃそりゃ、」
うそうそ、と何もはめていない両手をコートのポケットにしまうと、
「でもバイトはしてるよ」
と白い息を吐いた。
「そうなんだ。毎日?」
「ううん、月木日の夜だけね」
ならさ、と俺は思いついた言葉を口にする。
「俺の手合いのない日、また今日みたいに打たない?」
ぽかんとした表情で俺を見つめるなまえさんに変なこと言ったかな、と慌てて「いや、もし良かったらだけど」と続ける。
「良いの?だって進藤くん、忙しくない?」
ほら、碁の勉強とかしたりするでしょ?
「ん、大丈夫。時間ならあるし」
すると彼女は「じゃあ、お願いしようかな」と笑って頷いてくれたので、その反応にほっとする。
『ヒカル、意外と積極的なんですね』
佐為が感心したように呟くのを無視
「あ、でも中学は海王だったよ。この近くの、」
そう言って信号の前で立ち止まる彼女の隣で足を止めながら、俺の中で海王、という単語がぐるぐる回る。
海王って確か、
「・・・あのさ、塔矢アキラってやつ知ってる?」
塔矢アキラ?となまえさんは首を傾げた。
「ああ、この間言っていたプロの人?」
どうかなあ。
「海王って人数多かったから。学年も違うし」
「そっか、そうだよね。ごめん変なこと聞いちゃって」
ううん、となまえさんは笑うと、「じゃ、またね。送ってくれてありがと」と笑って改札を降りて行った。
やっぱ分かる訳ないかー。
『囲碁に興味があれば知っていそうな気もしますけどね』
「塔矢に興味がないんじゃねえの、」
またそんなこと言って、と佐為の呆れたような声が、俺の中に響いた。



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