「ただいま」
「ね、猫っ!…かわいい、そういえば熊谷先輩って、一人暮らしですか?」
「弟と住んでる。電車止まって帰れないから今日は近くの友達の家に泊まるってさっき連絡あった」
「そうなんですね、」
なら、二人きりか。家族がいても気まずいけど二人きりはもっと気まずい。
そして出迎えてくれた猫ちゃんを抱き上げる熊谷先輩に、可愛いが渋滞して直視できない。
「突っ立ってないでさっさと上がれ、先風呂使っていいから」
投げられたタオルを顔面で受け取る。
上着を脱いで濡れた髪を掻き上げる熊谷先輩に、ほんとは先入ってくださいって言いたかったけど。
あまりの色気に恥ずかしくなって、逃げるように脱衣所に駆け込んだ。
当たり前なんだけど、うち全体が熊谷先輩の匂いがして…落ち着かない。大学時代なら多分、昇天してる。
自分でも変態くさいと思いながらお風呂で温まって、洗濯機の上に用意されてた『荒ぶる鮭』と書かれた謎シャツに袖を通す。ダボダボで下のスウェットも引き摺りながら部屋の扉を開けた。
「お風呂、ありがとうございました。先いただいちゃってすいません」
「あぁ。ぶかぶかだな、上も下も」
「このシャツ先輩のですか?変わったデザインですね…」
「ほうか?別に普通だろ、ヤなら着なくてもいいんだぞ」
嫌、というか単純に、このシャツを買う熊谷先輩の姿がどうしても想像出来なくて。
「ドライヤーはそこの棚にあるから勝手に使え、あとそっちの布団も。俺ははち太のを使うから」
「は、はい!」
「待たないで髪乾かしたら先寝てろよ」
バタンッとリビングの戸が閉まる。
相変わらず面倒見がすごくいい。思わず部活の弓道衣姿の先輩が浮かぶくらい。あの頃はダメ出しも多かったけど、よく世話を焼いてもらった記憶がある。
色々な記憶が蘇りながら髪を乾かして言われた通りに布団についたけど、やっぱり眠れるわけがなくて。
再び開いたリビングの扉に体を起こした。
「あの、熊谷せんぱー…っ!?」
「なんだ、まだ起きてたのか」
「っ、なんで服着てないんですか!」
「なんでって、俺のうちだぞ。それに下は履いてる」
「だからって…っ、なんでもないです」
普通はこれくらいで照れないものなのか、恋愛経験ないからわからないけど。
熊谷先輩があまりにもずっと普通で、でもってほんとに子供の相手をしてるみたいな顔でこっち見て。
意識してるのは私だけで、なんだかさっきから一人でバタついてて馬鹿みたいに思えてきた。
頭から毛布を被って視界を塞ぐ。
期待したって何もないことなんて最初から、わかってたのに。
「おい、なに拗ねてんだ」
「拗ねてません。寝るだけですっ」
「お前がそういう態度取る時は大体いつも拗ねてんだよ」
勢いよく剥がれた布団、見上げた熊谷先輩の顔が歪んで見えた。
「昔から変わってねえな。言いたい事があんなら言え、今なら全部聞いてやるから」
「っ熊谷先輩こそ、変わってないです…っ。ガキに興味ないって言うなら中途半端に、ちょっかいださないでくださいっ!」
「ちょっかいなんて出してないだろ」
「無自覚なら余計にタチが悪いですよ」
熊谷先輩の眉間がぴくりと動く。
けど言いたい事言えって言われたし、もう終わりにしたい。今日で全部、
「構われると余計、辛くなりますっ。先輩の顔ばっか浮かんで」
今まで思い出にフィルターがかかってるだけだと思うこともあったけど、再確認してしまった。
…あの頃のまま変わらない先輩を見てると忘れるどころか私は、
「熊谷先輩じゃないと、ダメみたいなんですっ、わたし」
執念深く、やっぱり大好きだ。
「…諦め悪いやつだな、お前ってほんと。」
「…引きましたか?」
「今更だろ。お前みたいに馬鹿正直なヤツには、他にもっと良い相手がいるはずなのに」
「っなんですかそれ、」
「あの頃は俺が卒業したら社会人と学生、仕事しながらお前に構う余裕が俺にあったかもわからん。…普通に考えて、うまくいくわけない。だからフッた。」
「どうしていつもそうやって、勝手に決めつけるんですっ?」
淡々と言葉を紡ぐ熊谷先輩に、あの頃の私でも今の私でも多分、同じ事を言うと思う。
いつも何処かうまく交わされてるような気がして、ずっと辿り着けなかった先輩の本心。それが私は知りたい、
「私が熊谷先輩がいいって言ってるのに、他に良い相手がいるなんて先輩に言われたくないっ。それに付き合ってもないのに先のことなんて、何もわからないじゃないですか」
「その顔、…やめろ。ムカつくんだよ」
熊谷先輩の髪から落ちた水滴が私の頬を濡らして、見上げていた先輩と距離がなくなった。
押し当てられた唇に目を開いたまま固まって、先輩は一度離れてからそんな私を見て目を細めるとまた、キスをした。
「お前の真っ直ぐなその顔が、今まで何回もチラついた。…そういうとこが好きだった」
「え、っまっ、待って…!ももも、もももう一回、今の!」
「少しは空気読めよ」
「だって、!」
「二度も言ってたまるか。ただ、そんなに執念深く好きなら今度は素直に…お前のものになってやる」
負けを認める。
俺も執念深く、なまえのことが忘れられなかったから。
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露草