チョークを持つ指が黒板の上を走る。その軌跡だけが妙にまぶたの裏に鮮明に残っている。私にとっての及川徹は、まずその「手」の記憶から始まった。

 クラス発表の掲示板の前で、知った名前、知らない名前を目で追いながら、新学期の喧騒に少しだけ気圧されていた。二年生になったばかりの春のことだった。
 その中に、「及川徹」の名前を見つけた。

 県内でも強豪と呼ばれるうちの高校、青葉城西のバレー部のセッター。確か、北川第一中出身。その華やかな見た目で女子からの人気も高く、黄色い歓声が彼を追いかけていくのを何度も見ている。常に人の中心で笑っているような人間だ。

 正直、ああいう目立つタイプはあまり得意じゃなかった。だから、クラスが同じだと知っても、「ふーん」くらいにしか思わなかった。実際に教室で彼の姿を認めても、特に意識もしない。
 教卓に貼ってある座席表を見て、指定された席に座る。前の席には、昨年も同じクラスだった女子がいて、少しホッとしながら他愛もない会話をした。
 担任が来るまでの時間、及川は教卓の近くで友人たちと談笑しながらも、何かを確認するように黒板にさらさらと自分の名前を書き始めた。その時、不意に、彼の手に目が吸い寄せられた。

 ──指が、綺麗な人だな。
 それが、及川徹に対する、本当の意味での第一印象だったのかもしれない。

 白いチョークを握る、長くしなやかな指。関節の動きは滑らかで、骨張っているのに、無駄な力みがない。手入れのされた形の良い爪、手首へと続く筋の流れ。それは単に「整っている」という言葉では足りない、何か特別な均衡を感じさせた。

 ──ボールを、意のままに操るための手。
 何千回、何万回とボールに触れ、トスを上げてきたのだろう。その繰り返しが、彼の指を、まるで何かを生み出すためだけに存在する、洗練された道具のように見せる。
 それは憧憬に近いのかもしれない。
 その瞬間、ちくり、と胸の奥で何かが刺さった音がした。

(……ずるいな)

 悔しい、というのとは少し違う。羨ましい、とも違う。ただ、彼の手が、彼自身が「及川徹」であることの証明のように見えたから。バレーボールという確固たるものが、彼の手を、彼自身を、こんなにも強く形作っている。
 きっと彼は、「この指がなければ、今の自分じゃない」と、迷いなく言い切れるのだろう。

 ──じゃあ、私は?
 この手で、何かを掴んできた? 何かを成し遂げると、胸を張れるものが?

『これがないと、私は私じゃない』

 そんなふうに思えるものが、今の私にあるだろうか。
 考えたこともなかった問いが、不意に心をざわつかせる。別に、彼のことを知りたいわけじゃない。クラスメイトというだけで、それ以上でも以下でもないはず。そう自分に言い聞かせて、慌てて視線を逸らした。

 深く考える必要なんて、ない。ほんの一瞬、気を取られた。でも、それだけ。
 新学期のざわめきに、胸の奥が引き攣っただけだと、その時はそう思った。



 新年度が始まって一週間程度経った頃、席替えで及川の隣になった。彼は初めてまともに会話をする私にも、驚くほど気さくだった。
 新しいクラスが動き出して、まだあまり日は経ってないのに、及川は既にクラスの中心にいた。壁を作らず、誰にでも明るく話しかける様子が頻繁に見られた。
 同時に、その見た目の良さからクールな二枚目と思いきや、すぐ調子に乗って男子から「残念イケメン」と突っ込まれている場面も目に入った。

「ねぇ、ナマエちゃんって、彼氏いるんだっけ?」

 ある日の現代文の授業中。先生の指示通り、お互いに向き合って、教科書に書いてある物語の、作者の意図について意見を出し合っていると、及川がニコニコと人好きのする笑みを浮かべて、そんなことを聞いてきた。
 普段から、男女問わず人に囲まれている彼のことだ。これもコミュニケーションの一環なのだろう。適度な距離を保てばいい。

「うん、いるけど」

 そう答えたものの、ほんの一瞬、言葉が喉の奥で引っかかった気がした。
 彼氏とは中学が同じで、別々の高校に進んでから告白されて、付き合い始めた。週に数回は会っているし、彼が私のことを大切に思ってくれているのは伝わってくる。私も、彼を大切にしているつもりだった。
 だけど──最近、ほんの少し、心の奥にひっかかるような違和感を覚えることがある。

「えー、マジかー。つまんなーい」

 及川は大げさに肩をすくめた。その反応に、私は眉をひそめて訝しげな顔を作る。

「…何がよ」
「いやー? 可愛い子が隣になったから、俺、ちょっと期待してたんだけどなー」

 悪びれもなく、悪戯っぽい笑みを浮かべる。これは及川のいつものノリだ。

「残念だったね」

 努めて冷静に返す。他の女子はどうだったか知らないが、別に私は、この男とどうこうなりたいという気は微塵もない。私の冷めきった反応に、彼はニヤリと口角を上げた。

「いやいや、まだ諦めてないからね!」
「は? 何を?」
「ナマエちゃんが、その彼氏と上手くいかなくなるの!」
「……最低」
「ははっ、冗談だって。ほら、そんな怖い顔しないの。ちなみに彼氏どんな人?」
「…別に普通だけど」

 言いながら、また小さなモヤモヤが胸の内側で泡立つ。本当は、もっと「こういうところが好き」って言えるはずなのに。なぜか言葉が浮かばなかった。

「ふーん、俺とどっちがイケメン?」
「…イケメンかどうかはさておき、彼氏のほうがタイプかな」
「ええ、ショックー」

 彼はいつもこうやって、ふざけた言葉で相手の懐に入ってくる。女の子の扱いに慣れているのは明らかだけど、不思議と嫌味な感じはしなかった。

「ま、俺にしとけば、絶対楽しいと思うけどな〜?」

 その声は冗談めいていたはずなのに、不思議と胸の奥がちり、と焼けるように熱くなった。否定すればいい。なのに、口を開こうとした喉が、何かを押しとどめるように固まってしまう。

(……また、こういうこと言う)

 彼の軽口は、もう聞き慣れている。隣の席になってからというもの、毎日のように投げかけてくる、一方的な好意を含んだ言葉。だけど、今日はほんの少しだけ、心の表面を撫でていく感触が違う。

「……私は遠慮しとく」

 思ったよりも、硬い声が出た。拒絶するつもりはなかったのに。
 及川は一瞬だけ目を細めてこちらを見た。けれどすぐに、「残念ー、フラれたー」と唇を尖らせ、いつもの軽い調子に戻る。

「俺、意外とガラスのハートなんだからね?」
「絶対嘘でしょ」
「ほんとほんと。傷ついちゃった。慰めて?」
「はいはい、お大事に」

 適当に流していると、先生から意見交換を終了するよう声がかかった。ガタガタと椅子を動かす周りに倣って、私も視線を教科書へ落とす。彼の冗談にいちいち反応していたらキリがない。そう、いつも通り──のはずだった。

「ねぇ、ナマエちゃん」

 不意に、少しだけトーンを落とした声で呼ばれた。さっきまでのふざけた響きはない。横目で窺うと、彼は頬杖をつきながら、じっとこちらを見ていた。

「その彼氏のことさ、話してる時、あんまり楽しそうじゃないよね」
「……え?」
「いや、なんとなくだけど。……ごめん、余計なお世話か」

 思わず眉を寄せた私を見て、彼はニコと微笑み返す。それ以上は何も言わず、カチカチとシャープペンを鳴らしてノートに視線を戻す。私はその横顔を盗み見て、何も言わずに自分のノートを開いた。
 なんてことない、ただの会話。それなのに、「楽しそうじゃない」という言葉が、妙に耳の奥に引っかかっていた。

隣の席の、苦手な人



メランコリー