体育のバスケットボールの授業中だった。

「いった……!」

 隣のコートで試合をしていた男子が、不意にざわつき出して、コート外で出番を待っていた私にも、何が起こったのか伝わってくる。
 どうやら、パスを受け損ねたらしく、及川が左手を見つめながら顔を顰めている。見ると、中指の爪が少し欠けて、血が滲んでいるようだった。
 利き手ではないとはいえ、強豪と呼ばれる自校の正セッターが指を怪我したかもしれない、という事実に、体育館の空気がわずかに張り詰めた。

「うわ、最悪。爪欠けた…地味に痛い……」
「大丈夫かよ、及川」

 心配そうに集まる男子に囲まれている及川。私は保健委員だったので、先生に呼ばれて彼に声をかけた。

「保健室、行く?」
「えー、ナマエちゃんが一緒に行ってくれるの? 優しー!」
「……ほら、行くよ」

 ふざけた口調で言いながらも、私が促すと彼は素直についてきた。

 保健室には先生がおらず、少し躊躇したが、爪を押さえて眉間に皺を作る彼を見ると、放っておけなかった。救急箱を開け、消毒液と絆創膏を取り出す。キャスター付きの丸椅子に座る彼の向かいに腰掛け、そっと左手を取った。

 ──ああ、やっぱり、指が綺麗だ。

 消毒液をつけた脱脂綿でそっと血を拭う。彼の指が、ぴくりと震えた。至近距離で見ると、やはりただ綺麗なだけではない。鍛えられた関節のしなやかさ、肌の表面の硬さ。そして、その手に宿る意思のようなもの。
 爪の欠けた部分を整え、絆創膏を貼りながら、無意識に言葉がこぼれた。

「試合中じゃなくて良かったね。利き手でもないみたいだし。だけどしばらくは注意しときなよ」

 私の言葉に、及川の手が、今度ははっきりと硬直したのが伝わってきた。

「……どうしたの?」
「え?」
「なんか、すごくびっくりした顔してたけど」
「あー……ううん、なんでもない」

 彼は慌てて笑顔を取り繕ったが、普段の軽薄なベールが一瞬剥がれた気がして、少し不思議だった。絆創膏を貼り終え、「はい、終わり」と手を離すと、彼は自分の指をまじまじと見つめていた。

 その夜、彼氏と電話をしていると、今日あった出来事の話題になった。お互いにそれぞれの学校生活の話をしていたとき、ふと、今日の体育の時間のシーンが思い浮かんで、口に出す。

「今日、体育でクラスのバレー部の男子が指怪我してさ、手当てしたんだけど、指、すごく綺麗だったんだよね。バレーやってる人って、みんなあんな感じなのかなぁ」

 ただの感想のつもりだったのに、電話の向こうで、一瞬、空気が凍った。

「……なんで、そんなこと気にするの?」

 低い声で言われて、心臓が嫌な音を立てる。

「え?」
「他の男の指が綺麗とか」

 声のトーンが明らかに冷たい。ああ、嫌な感じの流れだ。ギュッとスマホを握る手に力がこもった。

「…いや、別に深い意味はないよ。保健委員だから手当てしただけで…」
「ふーん。そいつ、ナマエのこと狙ってんじゃないの?」
「えぇ、まさか」
「手当てされて嬉しかったんだろ、そいつ。わざと痛がったりしてさ」
「そんなわけ──」
「…ナマエもそいつのこと意識したの?」
「……え?」
「普通、彼氏いるのに、他の男の身体のこと、そんな風に言う?」

 ぐっと言葉に詰まる。彼の言う「普通」が、私を檻に閉じ込めようとしているように感じた。ただ今日の出来事を話したかっただけなのに、どうしてこんなふうに疑われなければならないんだろう。

「……ごめん」

 反射的に謝っていた。
 謝るようなことじゃない。そう分かっているのに、これ以上面倒なことになるのを避けたかった。

「……まあ、いいけど。次からは気をつけて」

 彼はため息混じりにそう言って、無理やり話題を変えた。いつものように学校のことやゲームの話を始めたけれど、通話を終えた後も、私の胸には鉛のような重たい違和感が居座り続けていた。

(私、なんで謝ったんだろう…)

 何かが、音を立てて軋んでいる。それに気づかないふりをするのは、もう限界に近いのかもしれない。



 夏のじっとりとした熱気がまとわりつき始める六月の放課後。私は校門近くのフェンスに寄りかかり、青く澄んだ空を見上げていた。その色の濃さと、視界に入る桜の葉の緑色のコントラストを見上げ、もうすぐ夏が来るなと、ぼんやりと考えていた。
 手には、スマホのトークアプリの画面が、開いたまま握られている。

『今日、どこ行く?』

 彼から届いた、いつものメッセージ。今日は、放課後に会おうと約束していた日だった。

『ごめん、なんか今日暑くてバテてるみたい。会うのはまた今度にしてもいいかな』

 そう返信すると、『そっか。無理すんなよ! じゃあ、ナマエが元気なときに!』と、すぐに優しい言葉が返ってきた。その優しさが、今はなぜか、胸の奥をざらつかせた。

(……嫌いになった、わけじゃない。でも……)

 何か、決定的なものが欠けている気がする。そう思いながら、スマホをポケットにしまった、その時。

「お、ナマエちゃんじゃん。奇遇〜」

 聞き慣れた、少しトーンの高い声。顔を上げると、及川が立っていた。今日は部活が休みなのか、スポーツTシャツやジャージ姿ではなく、制服姿だった。片手にはスポーツドリンク。もう片方の手にはスマホを持っている。

「何してんの? 誰か待ってるとか?」
「ううん、別に。今から帰るところ」

 曖昧に答えると、彼はパチパチと二度瞬きをして、「へぇー」と、どこか探るような相槌を打った。

「デートとかは?」
「……なんか今日は、そういう気分じゃなくて」

 何気なく漏らした言葉に、彼は一瞬、じっと私の目を見た。

「そっか〜……」

 妙に含みのある声で呟き、私の隣に並んで、同じようにフェンスに寄りかかる。微かに柔軟剤と、男子が使う香水のような匂いがした。

「その言い方、あんまり彼氏のこと好きって感じに聞こえないけど?」

 確信めいた口調で私に告げる。先日、教室でこの男に言われた台詞が私の中で重なる。やっぱり、及川から出てくる言葉は、私の気づいていない私の気持ちを、見透かされてるように感じてしまう。

「…………」

 ──そんなことない。
 そう反論しようとしたのに、言葉が喉に引っかかった。

 好きなはずだ。でも、最近彼と話していても、同じ場所をぐるぐる回っているような、そんな不安定な感覚ばかりが募っているのも事実で。
 黙り込んだ私を見て、及川は口角を上げて悪戯っぽく笑った。

「ねぇ、やっぱり俺にしときなよ。絶対、ナマエちゃんのこと飽きさせない自信あるし?」

 相変わらず、自分の見た目の良さを良く分かっている仕草をする男である。まあ、私には全く効かないのだけど。

「それだけは絶対にない」

 即答すると、彼は「ひどっ! 今、心折れる音したんだけど!」と喚いていた。なんだか、及川と話していると、彼の軽さに良い意味で乗せられてしまうような気がする。
 その他愛ないやり取りのなかで、彼がさっきスマホを横画面で持っていたのが気になった。

「さっき何か見てたの?」
「ん?」
「スマホ。なんか熱心に見てたから」
「ああ、うん。ちょっとね。バレーの試合映像」

 彼はペットボトルのキャップを開けながら、軽く頷く。

「自分たちの試合? それとも、どこか他のチームの?」
「他の。海外のプロリーグのやつ」

 意外な答えに少し驚いて見つめると、彼はペットボトルを口に含みながら「見る?」とでもいうように、スマホの画面を私に向けた。そこに映っていたのは、知らない国の、激しいラリーを繰り広げる選手たちの姿だった。

「うわ、すごい……。これ、英語? 及川分かるの?」
「いや、でも、動き見てるだけで、なんとなく言いたいことは分かるから」
「へぇ……」

 そういうものなのだろうか。
 正直、バレーボールについて詳しくないし、試合もテレビで日本代表がやってたら見る程度。だけど、素人目にも白熱した試合が繰り広げられてるのは分かった。

 及川は時折、指先で画面上の選手の動きをなぞる。まるで、そのプレーを自分のものにするみたいに。

「こことか、ヤバいんだよね」

 画面の一点を指さし、及川は少し身を乗り出した。さっきまでの飄々とした雰囲気が消え、瞳が輝いている。
 人を食ったような態度で周りを自分のペースに巻き込む性格と、その洗練されたスタイルと整った顔立ちから、クラスメイトの中でも大人っぽく見える及川。だけど、いま隣で無邪気な顔で笑う彼は、まるで幼い子供のようだと思った。

 画面の中では、ボールが吸い込まれるようにセッターの手に収まり、次の瞬間、アタッカーが最高到達点で待ち構える場所へと、ピンポイントで放たれていた。

「このセットアップ、マジで完璧。トスの高さ、スピード、スパイカーとのタイミング、全部がドンピシャ。しかもさ……」

 彼は再生を少し巻き戻し、スローモーションでもう一度見せる。

「相手のブロッカーの視線を一瞬こっちに引き付けてから、逆サイドに振ってるんだよね。この一瞬の駆け引きが、勝敗を分けるんだよ」

(……楽しそう)

 何かについて熱く語る人はいる。でも、彼のそれは、ただの「お喋り」とは明らかに違った。

 好きだから、もっと知りたい。知れば知るほど、もっと深く考えたくなる。もっと上手くなりたい。
 そういう渇望にも似た純粋な探求心が、彼の言葉の端々から溢れ出ていた。

「……なんで、そんなに夢中になれるの?」

 思わず、問いかけていた。及川は一瞬、動きを止めて私を見る。

「え?」
「バレーボール。どうして、そこまで頑張れるのかなって」

 彼は「んー……」と短く唸り、ペットボトルのキャップをカチリと閉めた。夕陽が彼の髪をオレンジ色に染めている。

「……負けるのって、普通にムカつくじゃん?」

 驚くほど、さらりと言った。そして、ペットボトルを軽く振る。残ったドリンクが、中でちゃぷんと音を立てた。

「それに、イメージ通りに決まった時とか、チームが勝った時とか……めちゃくちゃ、気持ちいいし?」
「気持ちいい?」
「そりゃそうだよ。こんなに面白くて、奥が深くて、熱くなれること、他にないもん」

 そうして笑う及川の目は、子供のようなきらめきで輝いていて、その光に吸い寄せられるように私は見入ってしまった。

「楽しいから。だから、やってる。ただそれだけ」
「……そっか」

 私が黙って彼を見つめていると、「あれ?」と小さく首を傾げられた。

「なんか、俺、変なこと言った?」
「ううん、そうじゃなくて……」

 ──ああ、こういうの、いいな。誰かに言われたからじゃない。評価されたいからでもない。
 ただ、自分の心が「楽しい」と叫ぶから、そこに全力を注ぐ。そういう確かな核を持っている人は、眩しく見える。

 私は、ポケットの中のスマホに触れた。そこには、彼氏とのやり取りが残っている。

『ごめん、なんか今日暑くてバテてるみたい。会うのはまた今度にしてもいいかな』
『そっか。無理すんなよ! じゃあ、ナマエが元気なときに!』

 彼は優しい。私の体調を気遣ってくれる。私を好きでいてくれる気持ちも、伝わってくる。でも、その優しさの奥に、何か息苦しいものを感じてしまうのはなぜだろう。

(私、この人のこと……本当にちゃんと、好きなのかな)

 及川がバレーを語る時のように、心が躍る瞬間が、彼との間にあるだろうか。彼との会話は心地よい時もある。でも、それは穏やかな水面を撫でているだけで、深く潜っていくような興奮や、心を揺さぶられるような発見がない気がする。

 ──私の心が、本当に求めているものは?
 そんなことを考えていたら、不意に及川がふっと息を漏らすように笑った。

「……そういやさ」
「なに?」
「この前、ナマエちゃんが保健室で手当してくれた時……『試合のときじゃなくて良かったね』って言ったでしょ」
「…ああ、言ったね。それがどうかした?」

 先日の保健室でのやり取りを思い出す。私には大して気になるような会話には思えなかったのだが、及川は違ったのだろうか。
 饒舌な彼にしては珍しく、言葉に詰まっている様子だった。

「いや…なんか、あれ、ちょっとびっくりしたっていうか……嬉しかった、かも」
「え?」

 スマホをポケットにしまいながら、及川は少し視線を落とした。夕陽のせいなのか、彼の頬が微かに赤らんで見えた。

「俺さ、怪我とかすると、大抵『痛そう』とか『大丈夫?』とかしか言われないんだよね」
「……まあ、それは普通じゃない?」
「うん、そうなんだけど、なんだろな…。俺って、大抵の人には、俺にバレーが付いてくるって見方されてるって思ってて……」

 少し考えるような間があって、手首を振ってペットボトルを回しながら、彼はポツリと言葉を続けた。

「でも、ナマエちゃんの中では、俺とバレーがセットというか、同じ位置にある、繋がってるって思ってくれてるのかなって。……それが、なんか、新鮮だった」

 冗談めかすかと思いきや、その口調は驚くほど真面目だった。少し照れくさそうに視線を外す彼を見て、なぜか私の胸の奥が、きゅっとくすぐったくなった。

(……そんなことで、そんな顔するんだ)

 私から見た及川の指は、バレーを極めてきたからこその美しさを秘めていると思っている。それくらい、彼の行動や言葉全てから、バレーを柱に置いて生活してきたんだと伝わってくる。
 だけど、もしかしたら及川自身は、その他の魅力が仇になって、バレーはW及川の副産物Wのような見られ方をされてきたのかもしれない。

 だから、いつもの冗談めかした素振りを見せずに、こんなにも真剣な顔で伝えてきたのだろうか。これは私の憶測だから、真実かは分からないけど。

「まあ……バレー部の選手なんだから、試合が一番大事でしょ? 当たり前だよ」
「そう言ってくれると、嬉しいけどさ」

 及川は短く息をつき、少し眉を下げて、柔らかく笑った。

「たまには、そうやってバレーやってる俺のこと、ちゃんと見てくれる人が、家族とかチーム以外にもいるって思うと……うん、なんか、悪くないかもなって思った」

 そう言った彼の口元が、ほんの少しだけ、緩んだように見えた。軽い調子は崩さないけれど、その奥に滲むのは、不意に見せた素顔と、どこか満たされたような色。気のせいかもしれない。でも、その一瞬の表情が、焼き付いたように心に残った。
 静かに微笑む彼の横顔を、ほんの少しだけ、長く見つめてしまった。

「……じゃあ、これからも怪我には気をつけなよ。大事な道具なんでしょ?」
「お? もしかして、俺の指の心配してくれるわけ?」
「するよ。保健委員だからね」

 あくまで「役割だから」と付け加えたけれど、及川はそれを聞いて、満足そうに目を細めた。

「へぇ〜、そりゃ頼もしいや。期待してるよ、保健委員さん」

 一瞬だけ見えた「素」の部分。いつもの彼とは違う、少しだけ真剣な、そして少しだけ無防備な顔。でも、彼はすぐに何事も無かったように腕を伸ばして、その場で軽く伸びをする。

「じゃ、俺そろそろ行くわ。ナマエちゃんも、あんまりここで油売ってると、悪い虫がついちゃうかもよ〜?」
「……余計なお世話だってば」

 軽口を叩きながら、彼はひらりと手を振って歩き出す。
 その背中を見送りながら、私はもう一度、胸の奥に生まれた小さな波紋を、無理やり意識の底に押し込めた。

 その夜、いつものように彼氏と電話で話していた。今日あったことを話す流れで、つい口が滑ってしまった。

「今日さ、学校でクラスの子にバレーの試合映像見せてもらったんだけど」

 電話の向こうで、彼の息を飲む音がした。

「……え? なんでまた、バレー?」
「なんか海外のプロの試合をすごく熱心に見てる子がいてさ。見せてもらったんだけど、動きとかすごかったよ」

 しばらくの沈黙の後、彼がため息混じりに言った。

「今日、体調悪いからって放課後のデート断ったじゃん。なのに、そういうことはやってたってこと?」
「あっ、いや、動画見せてもらったのは学校にいた時で…」
「……ナマエってさ、最近、ちょっと変わったよな」
「え?」
「前は、俺と話してる時、俺の知らない話とか、しなかったのに」

 その言葉の棘が、ちくりと刺さる。

「別に、変わってないと思うけど……」
「いや、変わったよ。なんかさ……最近、俺と一緒にいるより、他のことしてる方が楽しいんじゃないの?」
「そんなことないって」

 そう答えながらも、心の中で警鐘が鳴る。
「俺より楽しい」とか、そういう比較の問題じゃない。私の世界が広がること自体を、彼は快く思っていないのではないだろうか?

「なあ、ナマエはさ、本当に俺のこと、まだ好き?」
「え……?」
「好きならさ……もっと、俺のことだけ考えてくれたっていいじゃん?」

 耳に届いた言葉が、ずしりと重く、私の心にのしかかった。それは懇願のようでもあり、束縛の呪文のようで。

 その時ぼんやりと、「楽しいから」と、キラキラとした瞳でバレーボールを語っていた、クラスメイトの顔を思い出した。

初夏の風と、ざわめき



メランコリー