「ねえ、ナマエ今日暇? 体育館でバレー部が練習試合やるらしいよ。及川くん出るみたいだし、せっかくだから観に行かない?」

 放課後、教科書を片付けて帰宅の準備をしていると、クラスメイトにそう誘われた。バレー部の試合を見たことはない。バレー自体も、テレビでやっていて試合の流れが面白そうだったら見る程度。
 だけど、少し興味が出た。あんなに及川を熱中させるものが、どういうものなのかを。

 普段はあまり足を踏み入れない体育館の二階席。上から見下ろすコートは、いつもより少し狭く、そして神聖な場所のように感じられた。
 単なる練習試合のはずなのに、会場には異様な熱気が満ちている。
 その多くは、及川目当ての女子生徒たちのものらしかった。コートに現れた彼が軽く手を振るだけで、甲高い歓声が体育館に響き渡る。
 私たちは、その喧騒から少し離れた隅の席に座った。

 試合開始のホイッスルが鳴る。

 その瞬間、コートの空気が一変したのを、肌で感じた。そして──私は、彼の動きから目が離せなくなった。

 お調子者で、いつもふざけているような男。でも、ボールを持つ彼は、まったくの別人だった。

(すごい……)

 柔らかく、しかし寸分の狂いもなくセットされるボール。それはまるで、スパイカーが最も打ちやすい一点へと、意志を持って導かれているようだった。
 彼の手の中で、ボールが生き物のように躍動する。仲間たちの動き、相手のブロック、試合の流れ、その全てを把握し、最適解を導き出す。鋭いサーブ、的確な指示、仲間を鼓舞する声。

 何気なく見ていたはずなのに、気づけば身を乗り出していた。

 彼の指先から放たれる一本のトスが、ゲームの流れを劇的に変えていく。その様に、鳥肌が立った。
 プレーの合間、ほんの一瞬だけ、及川が悔しそうに唇を噛むのが見えた。得点が入れば、誰よりも喜びを爆発させる。
 勝ちたい、絶対に負けたくない──その剥き出しの感情が、痛いほど伝わってきた。

『楽しいから』

 そう語っていた先日の及川の横顔を思い出す。ああ、彼が自分とバレーを繋げて見てほしい気持ちが分かった。これだけバレーを愛しているのだから。

 試合が終わる頃には、私の中にあった「及川徹」という存在は、確実にその輪郭を変えていた。彼はただの人気者なのではない。自分の全てを懸けて戦う、一人のアスリートなのだ。

 その夜、彼氏から電話がかかってきた。

「今日、何してたの?」

 いつもの何気ない問いかけ。でも、私は少しだけ躊躇してから、正直に答えた。

「練習試合、見に行ってた」
「試合?」
「うん、バレーボールの。クラスの友達に誘われて」

 電話の向こうで、彼が息を飲む気配がした。

「へぇ……」

 それだけ? と思った矢先、彼は刺々しい声で続けた。

「……なんかさ、ナマエ、ほんと最近、俺の知らないところで楽しそうだよね」

 まただ。この前と同じ、責めるような響き。でも、今日の私には、それがもっと深く突き刺さった。

「……どういう意味?」
「だってさ、俺がバレーに興味ないって知ってるくせに、わざわざ友達と見に行くとかさ…」
「え…?」
「しかも、バレー部って、この前から言ってる男のクラスメイトがいるんだろ?」
「…別に、それは関係なくない? 誘われて行っただけで…」
「なんか、俺が知らないところで、俺の知らないものに夢中になって……そういうのって、なんか、裏切られてるみたいじゃん」

 その言葉が聞こえた瞬間、胸の奥が、急速に冷えていくのを感じた。

「……私が何に興味を持って、何を見たいと思うかは、自由じゃないの? それに、あなたと会う時間を削って観に行ったわけじゃないよ?」
「自由とかそういう問題じゃなくて…。俺がいるのに、わざわざそんな試合、見に行く必要あった?」
「そんな試合…?」

 あの熱気を、あの真剣なプレーを、彼は、たった一言で『そんなの』と切り捨てるのか。

「俺がいるんだからさ。俺との時間だけ、大切にしてくれればいいじゃん」

 その言葉が、最後の一押しだった。

 私が心を動かされたものを、彼は理解しようともしない。私が新しい世界に触れることが、彼にとっては自分がないがしろにされている証拠でしかない。
 私が見ている方向と、彼が見ている方向は、もう決して交わることはないのだと、はっきりと悟った。

 そのあと、彼となにを話したかは、覚えていない。



 翌朝、教室のドアを開けると、朝の挨拶や昨日の出来事を話す声でざわめきが満ちていた。自分の席へ向かうと、隣の席の男がすでにノートと、おそらくバレーボール関連の雑誌か何かを広げているのが目に入った。
 私は静かに椅子を引き、腰を下ろしながら、何気ないふりを装って及川に声をかけた。昨夜の彼氏との電話で感じた、心のささくれを紛わらしたい気持ちもあったのかもしれない。

「昨日の練習試合、お疲れ様」

 本当に、ただの労いのつもりだった。彼が顔を上げ、少しだけ意外そうな表情で私を見る。

「え、ナマエちゃん、見てたの?」
「うん、まあ、誘われて。…でも、見てよかったと思ってる」
「へえ? もしかして、俺の華麗なプレーに惚れちゃった?」

 いつもの調子で、彼は得意げに目を細めて意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「それはないけど」

 迷いなく即答すると、彼は「えーっ、ひどい!」と大げさに落ち込んだ顔をして机に突っ伏する。教科書を取り出すふりをして、私は彼から視線を外した。

 ──ここで会話を終わらせてもよかった。いつもなら、そうしていただろう。

 でも、昨日の体育館で見た及川の姿と、昨夜の電話での彼氏の言葉が、私の内側で奇妙なコントラストを描いていた。
 気づけば、私は再び口を開いていた。及川のほうは見ないまま、ポツリと呟くように。

「でも……本気なんだなって、思った。勝つために、全部懸けてるんだなって。昨日の及川、すごく真剣な顔してたから」

 私の言葉に、彼がノートの上で走らせていたペンの動きが、ぴたりと止まった。
 教室のざわめきが、一瞬遠のいたような気がした。

「……そりゃあね」

 ややあって返ってきた声は、いつもよりも少しだけ低く、落ち着いた響きを持っていた。横目で彼を窺うと、彼は視線をノートに落としたまま、どこか遠くを見るような目をしている。

「負けるのなんて、死んでもごめんだし」

 そう言った彼の口元には、自嘲とも取れるような、かすかな笑みが浮かんでいた。負けるくらいなら、死んでもいいと。ただの部活に、まるで命を懸けているような雰囲気が滲んでいる。
 その目の奥には、昨日コートで見たときと同じ、揺るぎない強い光が宿っているように見える。軽く言い放ったように聞こえる言葉の裏に、どれほどの覚悟と努力が隠されているのだろう。

 本気で勝利を渇望している人間の、偽りのない表情だった。

 冗談めかした「惚れた?」がすぐに飛んでくると思っていたのに、彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、自分の言葉を確かめるように、その長い指で静かにペンをくるりと回す。

 何気ない朝の教室での、ほんの短いやりとり。

 それなのに、彼の真剣な横顔が、私の胸に深く刻まれた。
 それからしばらく、始業のベルが鳴るまで、及川は珍しく静かだった。まるで、私が放った言葉の意味を、彼自身の中で反芻しているかのように。

 ──そして、私自身もまた、彼のその言葉と表情を胸の中で繰り返しなぞりながら、ある決意を静かに固め始めていた。彼氏との関係について、もう見て見ぬふりはできない、と。

 私は膝の上でスマホをキュッと握ると、意を決してトークアプリを開いた。


 日が落ちて、空が茜色と藍色のグラデーションに染まる頃。私は彼氏と会うために、駅前の公園のベンチに座っていた。
 やや遅れて彼がやってきて、隣に腰を下ろす。いつもなら自然と触れ合っていたはずの肩が、今日はやけに遠く感じられた。

「……お前、俺のこと、もう好きじゃないんだろ」

 静かな問いかけだった。責める響きはない。ただ、事実を確認するような、諦めに似た声。
 私は言葉に詰まった。『好きじゃない』とは、少し違う。でも、『好きだ』と胸を張って言える自信も、もうなかった。

「……わからない。でも、このまま付き合っていくのは、たぶん、違うんだと思う」
「違うって、何が?」

 困惑した表情で私を見る彼に、昨日の体育館の光景が蘇る。
 バレーに全てを懸ける選手たちの姿。執着のようにも思える勝利への努力。及川の、あの真剣な眼差し。そして──。

『俺がいるのに、わざわざそんなの見に行かなくてもいいじゃん』

 彼の言葉が、冷たく響く。
 その言葉が私の心の中を芯から冷やしていた。私が大切だと感じ始めたものを、彼は"そんなの"と言った。私が新しい世界に踏み出そうとすることを、彼は"裏切り"だと感じた。

「……私たち、お互いのこと、分かっているようで、何も分かっていなかったのかもしれないって思ったの。あなたにとっての『好き』は、きっと、相手の全てを自分のものにして、一番であり続けることなんだと思う。でも……私にとっての恋は、たぶん、そうじゃない」

 私は私の世界を持ちたい。好きなものがあって、夢中になれるものがあって、考えたいことがあって──その上で、隣に誰かがいてくれたら嬉しい。そういう関係が理想だった。
 でも、彼はそれを許してくれなかった。

「……それは、もう好きじゃなくなったってことじゃなくて?」

 重ねて問われ、私はゆっくりと首を横に振った。

「…ちがう。でも、今はもう、一緒にいても、前みたいに心が弾まないの。楽しいよりも、苦しいって感じることの方が多くなった」

 しばらくの沈黙が、重くベンチの間に落ちる。やがて、彼は力なく笑った。

「……そっか。…うん、なんか、そんな気はしてた。お前が、どんどん俺の知らない話するようになって…置いてかれる気になってた。それが怖くて、嫌なこと、たくさん言ったよな。ごめんな」
「……ううん」
「俺さ、多分、お前が彼女でいてくれるのが嬉しくて、自分のことばっかで、お前のことちゃんと見えてなかったな」

 そう言って、彼はふっと寂しそうに笑った。

「……今まで、ありがとな」
「え?」
「好きでいてくれて。…嬉しかったよ」

 その言葉に、不意に涙が込み上げそうになる。でも、ここで泣くのは違う気がして、ぐっと唇を噛んだ。

「……私も、ごめん。…あなたの気持ち、考えられなくて、無神経なこと、色々やったよね」
「…そんな」
「あなたが望むような彼女になれなくて、ごめんね」

 素直な気持ちだ。今は苦しいと思えても、告白してもらえたときはとても嬉しくて。なによりも大切な存在だった。愛されてるのも分かってた。だからこそ、その想いに上手く応えられないことがつらかった。

「………」

 沈黙が続く。
 彼は何かを言いかけて、でも言葉にはならず、代わりに深い息を吐いた。

「──じゃあな」

 そう言って、彼はゆっくりと立ち上がる。

 一度も振り返ることなく、公園の出口へと歩き出した。夕陽に照らされた彼の背中が、急速に小さくなっていく。

 引き止めたいとは思わなかった。寂しくないと言ったら、きっと嘘になる。今までの楽しかった、幸せだった思い出が頭に流れてきて、胸も痛む。だけど、これでよかったのだと、不思議なくらい冷静な自分がいた。

 恋が終わる瞬間は、想像していたよりもずっと静かだった。ぶつかり合うことも、涙を流すことも、大きな声で罵り合うこともなく、ただ、お互いが「もう違う道を行くべきだ」と静かに悟るだけ。
 それでも、後悔はなかった。

(……これで、いいんだ)

 そう自分に言い聞かせながら、彼とは反対の方向へ歩き出す。湿った夏の始まりの風が、火照った頬を撫でていった。暦の上ではもう七月に入ろうとしているのに、いつもより、少しだけ肌寒く感じる。

 帰り道、なんとなくスマホを開く。トークアプリの履歴には、当たり前のような彼とのやり取りが並んでいる。それがもう過去のものになったという実感が、まだ湧かない。
 指がスクロールする先に、及川徹の名前があった。
 別に、連絡するつもりなんて全くない。なのに、なぜか、その名前を無意識に目で追ってしまっている自分がいた。

「……何やってるんだろ、私」

 小さくため息をついて、スマホの画面を閉じた。でも、心のどこかで、明日から見える景色が、今日までとは少し違っているかもしれない、という予感がしていた。



 翌朝、教室の扉を開けると、聞き慣れた声が飛んできた。

「おはよー、ナマエちゃん。もしかして昨日、彼氏とデートだった? いつもと違う駅で降りてくの、見かけちゃった」

 自分の席に向かいながら、及川が隣の席から軽い調子で話しかけてくる。

 そうか。つい昨日まで、私は「彼氏持ち」というカテゴリーにいたのだ。一瞬だけ足が止まる。けれど、すぐに平静を装って、鞄を机に置いた。

「……昨日で、終わり。彼とは別れたよ」

 淡々と告げると、及川が目を丸くした。予想以上に驚いた顔。まるで、私が壮大な冗談でも言ったかのように。だけど瞬時にその結果に納得したように、苦笑いする。

「え? マジで? …あー、でも…うん、やっぱりね」
「……え?」
「だってナマエちゃん、彼氏の話する時、いつも話したくなさそうに壁作ってたでしょ? それに、この前の校門で会った時、あの顔見てて分かったよ。なんか上手くいってないんだなって」

 先日の、及川との放課後のやり取りを思い出す。

 ──『なんか今日はそんな気分じゃなくて』

 そう答えた時の、自分の心の曇り具合を。 私のあの曖昧な返事と隠しきれない表情を、この男は見逃さなかったんだ。
 あの時から、もう答えは出ていたのかもしれない。ただ、それを認めたくなくて、必死に蓋をしていただけで。私が必死で取り繕っていたはずの心の壁を、この男はそんなにもあっさりと見抜いていたというのか。

「……なんで、そんなことわかるのよ」
「えー? そりゃ、俺は常にクラスのかわいこちゃんの変化には敏感だからねー」

 いつもの及川らしい、人をからかうような笑顔。だけど今日のその笑顔は、どこか少しだけ柔らかくて、私の答えを待っているようにも見えた。
 まるで、本当はもう分かっているけど、私の口から聞きたい──そんな風に。

「……で? 後悔とか、してる?」

 及川の問いに、窓の外の、陽光を浴びて輝く緑を見つめながら、少し考えて、答える。

「……してない、と思う。……うん、してない」
「ふーん、そっか」

 及川がどんな顔でその一言を返したのかは分からない。だけど、なんとなく、少しだけ微笑んでいるのだろうと分かった。会話がふっと途切れる。教室の喧騒が、少し遠くに聞こえた。

(私は、ちゃんと自分で決めたんだ)

 心の中は、驚くほど凪いでいた。泣きたいわけでも、胸が締め付けられるわけでもない。空っぽになったわけでもなく、むしろ、詰まっていた何かが取り払われて、風通しが良くなったような、不思議な解放感があった。

「じゃあさ」

 沈黙を破ったのは、及川だった。

「次は、俺にしとけば?」

 ──唐突すぎる言葉に、思考が停止する。外を見ていた視線を教室内に戻すと、及川が目を細めて口角を上げている。

「……は?」
「だから、彼氏。ほら、俺って優しいし? カッコいいし? 絶対楽しいよ」

 自信満々に、人差し指で自分を指差す。顔立ちだけは整っているのを認めざるを得ないこの男は、世の女の子全員が自分を好きになってくれる、とでも勘違いしているのではないのだろうか。

「……あんた、バカじゃないの」

 呆れてそう言い返すと、及川は「ちぇーっ、またフラれたー」とわざとらしく唇を尖らせて、肩をすくめた。
 日常になった隣の席の騒がしさにため息が溢れる。だけど、その、あまりにもいつも通りな軽いノリが、なんだか妙に、今の私には心地よかった。

(……変なの)

 つい昨日、大切だったはずの関係を終わらせたばかりなのに。目の前のこの男の、底抜けに明るい軽薄さが、今は少しだけ救いのように感じられる。

 授業が始まるまでの短い時間、及川は隣で他愛ない話を続けていた。私はそれに適当に相槌を打ち続ける。昨日までと変わらないやり取りのはずなのに、彼の言葉が、以前とは少し違う響きをもって聞こえる気がした。


 放課後、家までの帰路を一人で歩きながら、今日の教室でのやり取りをぼんやりと思い返す。

 彼氏と別れたことを告げた時の、及川の反応。そして、あの冗談めかした『次は俺に』という言葉。

 自分の中で、何かが静かに、でも確実に変わり始めているのを感じる。それが何なのか、まだはっきりとは分からない。ただ一つ、確かなのは。

 まるでパンケーキにじんわりと染み込んでいくメープルシロップみたいに。甘くて、少し複雑で、気づけばもう分かち難くなっている、そんな存在感で。
 及川徹という人物が、私の日常の中に、少しずつ、でも確実に、その色を濃くし始めているということだった。

染み込み始める



メランコリー