放課後、帰り支度を終えて昇降口で靴を履き替えていると、同じタイミングで及川も昇降口にやってきた。心臓が、ほんの少しだけ跳ねたのはきっと気のせいだ。
彼の方もこちらに気づいて、軽い仕草で手を振ってくる。
「お、ナマエちゃん、奇遇だね〜。もしかして俺のこと待ってた?」
「待ってない。自意識過剰」
「冷たーい。ちなみに俺も偶然だからね。ストーカーとかじゃないよ?」
「疑ってないから、安心して」
いつものように軽口を飛ばしてくる彼に、こちらもいつも通り冷静に返す。特に約束したわけでもないのに、気づけば私たちは自然と並んで歩き出していた。最近、こういう偶然が多い気がする。
認めたくはないけれど、彼の隣は不思議と息苦しくなかった。
校門に差しかかる頃、楽しそうに手を繋いで歩く制服姿のカップルが視界に入った。微笑ましい光景のはずなのに、私の胸にはチクリとした何かが刺さる。
後悔とは違う。元カレが望んだように大切に出来なかったことへの申し訳なさと、彼から投げつけられた酷い言葉たちが、不意に蘇ってきてしまったのだ。ふと、隣を歩く及川がぽつりと聞いてきた。
「……あのさ。元カレから、連絡きたりする?」
あまりに唐突な質問に、一瞬だけ、心臓が跳ねた。けれど、彼の視線がまだそのカップルの後ろ姿を追っているのが分かって、なんとなくその問いの意味は読めた。
(……見られてたんだ)
さっき、私の表情が曇った、ほんの一瞬を。その、ずるいくらいの鋭さと、隠された気遣いは、さすがコート上の全てを見ているセッターだなと思った。
「来ないよ」
私は努めてあっさりとした口調で答える。
「お互い、ちゃんと納得して別れたから。もう未練とか、そういうのもないし」
「……そっか」
その短い返事の中に、ほんのわずかな間があった。
(……あれ?)
予想していた反応と、全く違った。てっきり、「じゃあチャンスじゃん!」「やっぱ俺にしときなよー」なんて、いつもの軽口が、すぐに飛んでくると思っていたのに。身構えていた私は、なんだか拍子抜けしてしまう。
及川の口調はいつも通り軽いのだけど、なんとなく声の色が違う気がした。彼の瞳から、いつも宿っている悪戯っぽい光が、すっと消えている。
たくさんの女の子に向けられる、いつもの軽い笑顔じゃない。人気者で、食えない男なのだとばかり思っていたのに。知らなかった一面を見せつけられたようで、彼のこういうところが、最近少しだけ、私の心を揺らす。
沈黙、というほどではないけれど、どこか静かな空気がふたりの間に流れた。アスファルトの照り返しが、じんわりと足元を照らしている。遠くで蝉が鳴いていて、ゆるく吹く風が肌をすっと撫でていった。私は少しだけ歩調を緩めながら、あの時の自分を思い返していた。
──楽しかった、最初は。彼も優しかったし、好かれているという実感もあった。私も、好きだった。でも、彼はいつからか、私の“世界”を少しずつ狭めようとした。私が夢中になること、新しく見ようとした景色に、「それって、何か意味あるの?」と怪訝な顔をするようになった。
私はただ、隣にいてくれればそれでよかったのに。同じ夢を見てくれなくてもいい。せめて、私が見ようとすることを、頭ごなしに否定しないでほしかった。
──でも。
もしかしたら、おかしかったのは、私の方だったんだろうか。恋人ができたら、自分の時間も、好きなものも、全部相手に捧げるのが「普通」で。自分の「世界」を持っていたいなんて願うのは、ただの私の、わがままだったんだろうか。
元カレとの息苦しい記憶が、私の中で「恋愛の普通」を、ぐちゃぐちゃにしてしまっていた。
「……ねえ、及川はさ」
「ん?」
「恋人と付き合うときって……相手の全部、自分のものにしたくなるタイプ?」
隣にいる、私とは全く違う世界の住人。彼なら、その答えを知っているような気がした。ふいに投げかけた問いに、及川は少し驚いたような顔をした。けれど、すぐに肩をすくめて、いつもの調子で、得意気に笑う。
「そりゃあね、好きになったら全部欲しくなるのが普通でしょ。特にかわいい子だったら、なおさら独り占めしたくなるじゃん?」
「……やっぱり、そういうとこだよね」
「え、何、急にダメ出し? 俺なんか悪いこと言った?」
──『独り占めしたくなる』
その言葉は、元カレが私に言った言葉と、表面上はよく似ていた。
でも、中身は全然違うように思えた。元カレの言葉には、私を支配しようとする、冷たい響きがあった。あの人は、自身に確固たるものが無かったから、私の世界を奪って自分の世界へ引き摺り込むことで、己を満たそうとしたのだろう。でも、及川は違う。
及川には「バレーボール」という、誰にも侵されない、あまりにも強固な自分の「世界」がある。そんな彼の独占欲は、空っぽの自分を埋めるためのものじゃない。まるで「大好きなおもちゃを誰にも貸したくない」と駄々をこねる、子供のような可愛らしいものに感じたのだ。
その事実に気づいた瞬間、張り詰めていた心が、ふっと軽くなる。私は、思わず笑ってしまった。どこか安心したのかもしれない。及川が、揺るぎない“及川のまま”でいてくれることが、今はちょっとだけ、ありがたかった。
「前にね、付き合ってた彼に言われたことがあるの。及川たちが出てるバレーの試合を見に行ったって話したら、『俺がいるのに、わざわざそんな男の試合見に行かなくてもいいじゃん』って」
「……へえ、そんなこと言われたんだ」
及川の眉が、ほんのわずかに動いた。声のトーンが少しだけ低くなった気がする。自分のバレーを馬鹿にされたことよりも、元カレの言動に不信感を抱いてるような雰囲気。
私は頷いて続けた。
「うん。私が純粋に興味を持ち始めたこと、彼にとっては“そんなこと”だったみたい。たぶん、自分が知らない世界のことだったから、彼なりに不安だったり、怖かったりしたんだと思う。でも、私は……誰かを好きになったとしても、自分の好きなものとか、自分の世界はちゃんと持っていたいって思ってる」
沈黙が流れる。でも、それは気まずいものじゃなかった。むしろ、心地よいとさえ感じている自分に少し驚く。湿気を含んだ風が二人の間を通り抜けていく。
隣を歩く及川がやけに静かなのが気になって、ふと、彼の横顔を見上げた。
彼は、前を向いたまま、オレンジ色に染まり始めた空を、どこか眩しそうに見つめていた。そして、その唇の端には、いつもの人をからかうような笑みとは違う、もっと柔らかくて、楽しそうな微笑みが浮かんでいる。
私の真剣な話が、彼には滑稽に聞こえたのだろうか。そう思うと、わずかに胸がチクリと痛んだ。
「……なに?」
少しだけ、拗ねたような声が出てしまったかもしれない。私の声に、彼はゆっくりとこちらを向く。その瞳は、驚くほど優しかった。
「いや、ごめんごめん」
彼はそう言って、まだ楽しそうに笑っている。
「めちゃくちゃ、いい恋愛観だなって」
「……茶化してる?」
「いや、本気で思ってるって。ごめん、あまりにもナマエちゃんらしすぎて、素敵だなって思っただけ。でもそれ、ちゃんと大事にしてくれる人と付き合わなきゃダメなやつだね、絶対」
自分に向けられた真っ直ぐな肯定が少し気恥ずかしくて、私は慌てて話題を変える。
「…じゃあ、及川はどうなの?」
「俺?」
「うん。付き合う時、どうしたいの。どんな関係が理想とか、あるわけ?」
及川は少しだけ考えるように、色を深くしていく空へと再び視線を泳がせた。風の音と、遠くから聞こえる部活帰りの生徒たちの声、自転車のブレーキ音が、その沈黙を埋める。
「……うーん、難しいな。俺、なんか今まで、あんまり深く考えなくても“付き合えてきた”感じだからさ。ちゃんと相手と向き合ってたかって聞かれたら……正直、わかんないや」
そう言って、及川がふいに顔をこちらに向けてきた。
「……ナマエちゃんはさ、今、好きな人とかいるの?」
軽く尋ねるような声だったけれど、その響きにはどこか、普段の彼とは違う真剣さが滲んでいた。ふざけているようでいて、その実、私の答えを探っているような。私は、歩きながらも顔を上げて、彼の目をまっすぐ見返した。
「……なんで、そんなこと聞くの?」
「なんとなく。ちょっと気になっただけ」
「…いないよ、今は」
そう答えると、及川は「そっか」とだけ言って、目を細めた。夕陽を浴びたその横顔は影になっていて、どんな表情をしているのかまでは読み取れなかった。
ただ、少しだけ、ほんの少しだけ、安堵したような色が滲んでいた気がしたのは、私の思い過ごしかもしれない。
「俺さ、まあ、何人か付き合ったことはあるけど——」
いつもの軽い調子。でも、その声には先ほどまでの冗談めかした響きとは少し違う、何かを含んでいる気がした。私は黙って彼の言葉の続きを待つ。
「大体、最後は振られるんだよねえ」
あっけらかんとした、まるで他人事のような言い方だった。それが当たり前のことであるかのように。
「……そうなんだ」
そう返しながらも、胸のどこかが妙にざわついた。
──いつも女の子に囲まれていて、モテる代名詞のような及川が、振られる?
一瞬、信じられなかった。けど、少し考えれば分かることだった。
多分、彼のことだから、なんとなく相手に好意を寄せられて、なんとなく付き合って、そして、お互いの気持ちが本当に深く交わる前に、なんとなく終わることが多かったんだろう。
ふわっと始まって、気づけば終わってるような、そんな関係。でも、そんな「なんとなく」で始まる関係に、本気なんて熱量が宿るものなんだろうか。
私はもう一度、その笑おうとして、失敗しているような、少しだけ寂しそうな横顔を見た。
(……ああ、同じだ)
その顔は、よく知っていた。向き合うのが怖くて、本当の気持ちを伝えられなくて、そうやって大切なものから逃げてきた、昔の私と、同じ顔だ。
この人も、ずっと一人で、傷つくことから逃げてきたのかもしれない。その考えに至った瞬間、彼への見方が、また少し変わった。
「……ねえ」
私はふと立ち止まり、彼の少し影になった横顔を見上げた。
「本気で、誰かと向き合いたいって思ったこと、ある?」
及川の足音も、私の少し前で止まる。
「……え?」
顔をこちらに向けたその目は、私の言葉の意味を探るように、ほんの少しだけ驚いたように揺れていた。いつもの自信に満ちた光が、一瞬だけ、かき消える。
「バレーが一番大事なのは、見てればわかるよ。でも……たとえば、付き合った人に『この人とずっと一緒にいたい』って思ってもらう努力とか、そういうのって、したことある?」
彼は何か言いたげに口をわずかに開いたけれど、言葉は出てこなかった。ただ、その瞳が、痛いところを突かれた子供のように、居心地悪そうに揺れている。私は少しだけ視線を落としながら続ける。
「私だって、うまくやれてたわけじゃない。向き合うのが怖くて、ちゃんと伝えようとしなかったこと、あるから。でも──」
少しだけ間を置いて、彼を見上げた。
「気持ちだけじゃ、きっと伝わらないんだよ。近くにいるだけじゃ、相手を安心させることなんてできない。……私、そう思うようになったの」
私の言葉に、彼は少し目を伏せた。その仕草が、いつも見ている自信に満ちた彼とはまるで違って見えた。いつもの不遜なくらいの自信も、人をからかうような余裕も、そこにはない。
それがなんだか、見てはいけない、彼の心の柔い部分に、触れてしまったような気分にさせた。
「……多分、俺、そういうの、本気で考えたことなかったんだろうな」
ぽつりとそうつぶやいた彼の声は、自分自身に言い聞かせるような、静かな響きだった。私は重ねて問う。
「本気で、誰かに『選ばれたい』って、心の底から思ったこと、ある?」
一瞬、風の音すら遠くに聞こえた。及川は、ただまっすぐこちらを見ている。その瞳が、今度は戸惑いだけじゃない、もっと深い、何かを見つけようとするみたいに、私を射抜いていた。
「……なんだよ、それ」
声が、少しだけ低く、掠れている。冗談を返すでもなく、怒るわけでもなく。それは、見透かされたことへの驚きと、どうして分かったんだという好奇心、そして、図星を突かれたことへの純粋な動揺が、ぐちゃぐちゃに混ざり合った声だった。彼に、こんな顔をさせるつもりはなかったのに。
「…なんとなく、いつも及川は“選ぶ側”にいたんだろうなって、思っただけ」
強い風が私たちの間を吹き抜けた。ざわめく木の葉の音、どこか遠くで、烏の鳴く声がした。
「……ナマエちゃんさ」
ぽつりと、彼が呟く。
「なんで、そんなことまで分かるわけ」
「分かんないよ。ただ、なんとなく、及川は、そういう風に女の子と向き合ってた気がしただけ」
「……」
言葉を選ぶように、彼はしばらく黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「別に、好きじゃなかったわけじゃないんだよ。ちゃんと、その時は好きだったつもり、ではいたし、相手にそう言われるのは嬉しかったし……」
「……うん」
「でも……誰かと本気で向き合うのって、どこか怖かったんだと思う」
私は思わず彼の顔をまじまじと見た。その目は夕焼けの強い光を反射して、痛々しいほどに、どこか脆さを孕んでいるように見えた。
いつもは強気なその瞳が、今は心細げに揺れている。
「どこまで頑張れば相手にとって“十分”なのか、分かんないし。期待されすぎると、なんか、苦しくなっちゃうし……だから、いつの間にか、軽いままでいた方が、自分が楽だったんだと思う」
その、あまりにも正直な告白。それは、まるで昔の自分を見ているかのようだった。
(ああ、やっぱり。この人も、怖かっただけなんだ)
「……そうだね。どこまで頑張ればいいか分からないって、すごく苦しいよね。私も、相手に“こうしてほしい”って期待ばっかりされて……疲れちゃったことあったから」
彼の痛みに、自分の痛みが重なる。どこか懐かしい感傷に、自分の声が少しだけ震えた。
「でも、だからこそ思うんだ。“軽く”付き合えば…相手に向き合わずに、合わせるか、合わせてもらうような恋愛をすれば楽なのかもしれないけど……でも私は、自分を大事にしてくれる人とは、ちゃんと向き合いたい。傷つくことがあっても、最後まで“本気”でいたいって思うから」
「……はは、かっこいいなあ、ナマエちゃん」
自嘲するように苦笑するその横顔。そんな彼の表情を見ている自分の胸が、きゅっと締め付けられるのを感じた。それでも視線を外せなかった。苦しいのに、どうしてだろう。
「じゃあさ」
彼は、一度ふっと視線を落とし、何かを覚悟するように、もう一度、今度は真っ直ぐに、私の目を射抜いた。
「もし俺が、本気でナマエちゃんから“離れない努力”をしたら……ナマエちゃんは、俺から離れないでいてくれる?」
「……な、にそれ」
思わず顔を上げて彼を見つめ返す。
彼は少しだけ意地悪そうに笑っていたけれど、さっきまでの自嘲の色は消えていて、その目の奥には強い何かが灯っているように見えた。冗談みたいな口調だったのに、その目だけが、どうしようもなく真剣だった。
(本気で? この人が? 私の、ために? 離れない努力を?)
言葉の意味が、じわじわと、でも確実に胸の奥に広がっていく。それは、今まで感じたことのない種類の熱を帯びていて、私の心臓を不規則に打たせた。
「……知らないよ、そんなの」
精一杯の強がりでそう答えて、私は逸らした視線のまま、再びゆっくりと歩き出した。頬が熱いのは、きっと夕陽のせいだ。彼は、ふっと笑みを漏らして何も言わずに隣に並んで歩き出す。
さっきまでの空気が、ほんの少しだけ、でも確実に変わったような気がした。でも、その変化に名前をつけるには、まだ少しだけ時間がかかりそうだった。隣を歩く彼の気配が、さっきよりも、ずっと大きく感じられる。
この距離感が変わってしまうことへの戸惑いと、心の奥底で芽生え始めた、小さな違和感。そのどちらにも気づかないふりをして、私はただ前を向いて歩いた。
夕焼けが、目に染みるほど綺麗だった。