茹だるような夏の日差しが少し和らいで、秋の気配が教室を満たし始める九月末。開け放たれた窓から吹き込む風は少しだけ冷たくて、白いカーテンを時折、生き物のように膨らませた。
 放課後のざわめきは嫌いじゃない。部活へ向かう前の男子たちの声、まだ帰り支度をしない女子たちの弾むお喋り、黒板を消す几帳面な音──それらが混ざり合い、心地よいBGMになっている。私はテスト対策用に作っている自分のノートに集中しようとした、その時だった。

「ねぇ、ナマエちゃんって俺のこと、結構好きだったりする?」

 すぐ近くから、不意にかけられた声。反射的に顔を上げると、机の横に及川が立っていた。いつものように、腹が立つほど整った顔に、人を食ったような笑みを浮かべて。

「……本気で言ってるなら、相当バカだと思う」

 呆れた声が出た。それでも、無視できない自分がいて、ペンを置いて彼に向き直ってしまう。これも、いつの間にか繰り返されるようになった、日常の風景。

「ひどいなぁ」

 彼は私の態度を物ともせず、当然のように私の前の席の椅子を引き、勝手に腰掛けた。頬杖をつきながら、面白そうにこちらを見つめてくる。
 ふわっと、彼の使う爽やかな香りの香水が鼻を擽る。その近さに、ドキッと胸が高鳴ったことに気づけないほど鈍感では無い。

「…………」

 冗談だ。分かってる。彼のこういう言葉に、深い意味なんてない。いつもの軽口の一つだ。そう頭では理解しているのに──どうして、心臓だけがこんなにうるさく鳴るんだろう。
 不意に込み上げてきた熱を悟られたくなくて、わざとらしく視線を窓の外へ向けた。

「……部活、行かないの?」
「うん、行く行く。でも、その前にナマエちゃんの顔見て、やる気チャージしていきたくて」

 ほら、またそういうことを言う。悪戯っぽく笑う彼を、思わず軽く睨みつけた。

「何それ。ほんと、意味分かんないんだけど」
「俺もよく分かんない。でも、ナマエちゃんの反応見てると楽しいから、まあいっかなって」
「……意味不明すぎるんだけど」

 わざと冷たく言い放ち、ノートに視線を落とす。これ以上、彼のペースに乗せられたら、この妙な動揺が伝わってしまう気がした。
 及川はそれ以上何も言わず、クスッと喉の奥で笑うと、軽やかに椅子から立ち上がった。

「じゃ、そういうわけで、行ってきまーす」

 ひらひらと手を振って教室を出ていく、その後ろ姿。彼が完全に視界から消えた瞬間、私は張り詰めていた息を、そっと細く吐き出した。

 落ち着け。何でもない。ただの冗談。いつもの、及川の軽口。

 言い聞かせても、ノートに置かれたままの自分の手のひらが、じんわりと熱を持っていることに気づいてしまい、小さくため息をついた。
 秋が深まるにつれて、こんなやり取りが増えていった。そして私は、もう誤魔化しようもなく気づいてしまっていたのだ。「冗談だ」と必死で自分に言い聞かせているその裏で、彼の言葉一つ一つに、心が大きく揺さぶられているという事実に。



 昼休み特有の少し浮ついた空気で満ちる教室。購買で買ったパンを齧りながら、机を合わせて座る友達の他愛ない話に相槌を打つ。でも、私の視線は、気づけば教室の隅へと吸い寄せられていた。

 及川が、教室の入り口で隣のクラスの女子数人に囲まれて話している。
 それ自体は珍しい光景ではない。彼はいつもああやって、自然に人の輪の中心にいる。ファンとは言わずとも、あの明るくフレンドリーな性格と端正な顔立ちから、声をかけてくる女子が多いのは周知の事実だ。そんなこと、同じクラスになる前から分かっていた。
 女子の一人が、楽しそうに甲高い声を上げ、軽いノリで及川の肩をポンと叩いた。彼はそれを嫌がるどころか、むしろ余裕綽々の笑顔で何か言葉を返している。

 気にするようなことじゃない。
 頭では、そう、思うのに。

 パンを持つ手に、無意識にぎゅっと力が入る。なんでこんなに、胸の奥がざらつくんだろう。やがて会話が一段落したのか、及川が女の子たちへ「じゃあね」と手を振り、自分の席の方へ歩き出した。
 ──ちょうど、私の座っている席の真横を、通り過ぎようとした時。

「……ほんと、よくモテるよね」

 気づいたら、そんな言葉が口から滑り落ちていた。自分でも驚くほど、冷たくて、乾いた声だった。
 足を止めた及川が、きょとんとした顔で私を見下ろす。

「え、なに? ナマエちゃん、急にどうしたの」
「……別に。何でもない」

 誤魔化すようにそっぽを向いて、食べかけのパンに再び齧りつく。けれど、この男がそれで大人しく引き下がるはずもなかった。すぐに状況を理解したのか、意地の悪い笑みを浮かべる。

「あれれー? もしかして、ヤキモチ妬いてくれた?」
「はぁ!?」

 思わず裏返った声が出て、勢い余ってガタンと椅子を鳴らして及川を睨んでしまう。隣でスマホをいじっていた友達が、そのやり取りに「え?」と小さく声を漏らして動きを止めたのが、視界の端に映った。

「今、ちょっと拗ねてたでしょ、絶対」

 及川が、さらに追い打ちをかけるように面白そうに言う。

「妬いてないし! 拗ねてもないからっ!」

 ほとんど反射的に言い返したのに、及川は「ふーん?」と全く取り合わない様子で軽く受け流す。
 すると不意に腰を屈めて、椅子に座ったままの私の視線に、自分のそれを合わせるように顔を近づけてきた。
 
 吐息が触れそうなほどの、近さ。とくん、と心臓が跳ねて、一瞬、呼吸の仕方を忘れた。喉の奥がきゅっと詰まって、まるで心臓がそこまでせり上がってきたみたいな感覚に襲われる。

「な、なに…」

 かろうじて絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。

「ねえ、さっきのさ……」

 ふと、彼の声のトーンが、ほんの少しだけ低くなったのに気づく。いつもの悪ふざけとは違う響き。どこか微かな熱を宿したような、それでいて少しだけ掠れた、優しい声。

「『モテるね』って言った時の顔…拗ねてる彼女みたいで、すごく可愛かったんだけど」
「——っ!!」

 耳元で囁かれた言葉と、すぐ間近にある彼の真剣な瞳に射抜かれた瞬間、カッと顔に熱が集まって、全身の血液が沸騰したみたいに熱くなった。

「う、うるさいっ……!」

 それだけを絞り出すのが精一杯で、私は勢いよく顔を背ける。心臓が早鐘を打って、耳の奥までガンガン響いてくる。どうしよう、顔が熱い。きっと、茹でダコみたいにとんでもなく真っ赤になっているに違いない。
 そんな私のただならぬ様子を、及川は面白そうに微笑んで眺めていたけれど、やがて満足したのか、「じゃ、お邪魔しましたー」なんて本当に呑気な声で言い残し、ひらりと手を振って自分の席へと戻って行った。

 その大きな背中が完全に自分の席に着くのを見届けるまで、私は顔も上げられなかった。

「……」

 私と友達の間に、時が止まったような静寂が落ちる。いや、実際には教室の喧騒は続いているはずなのだけれど。
 まだバクバクと暴れる心臓をどうにか落ち着けようと、そっと息を吐き出した、その時だった。

「…………ねえ、ナマエ」

 隣から、固唾を飲んで一部始終を見守っていたらしい友達が、ようやくといった感じで声をかけてきた。その目は、爛々と好奇の色をたたえている。

「今の、何? 及川くんと、アンタ……もしかして、なんかあったわけ?」

 その問い詰めるような、それでいてどこか楽しそうな眼差しに、私はまた顔がカッと熱くなるのを感じた。

「な、何でもないよ」

 平然を装ってそう言い返したものの、声は上擦っている。
 このどうしようもない熱と、けたたましく鳴り続ける心臓の音は、本当に、しばらくは私の内側で暴れ続けそうだった。

からかいと本音の温度差



メランコリー