03
約束の時間まで、まだ少し間がある。カフェの中で待っていると、きっと店長やバイトちゃんの視線に耐えられそうもない。そう思った私は、早めにエプロンを外し、コートを羽織ると、そっと店の外へ出た。
カフェは、車通りがほとんどない静かな裏通りにある。隣には可愛らしい雑貨屋さんや小さな古本屋さんが並んでいて、夕暮れ時の今は、どこかノスタルジックな雰囲気に包まれていた。
お店の入り口に備え付けてある、年季の入った木製ベンチに腰を下ろす。ひんやりとした空気が心地いいけれど、私の心臓は期待と緊張で落ち着きなく脈打っていた。
(本当に、赤葦さんとこれから食事に行くんだ……)
しばらくして、通りの向こうから近づいてくる革靴の音に気づき、心臓が跳ねる。顔を上げると、凛とした声が降ってきた。
「お待たせしました」
すぐそばに赤葦さんが立っていた。カフェで見るいつも通りの、静かで落ち着いた雰囲気。
けれど、心なしか彼の表情も少しだけ硬いように見えるのは、気のせいだろうか。私は慌てて立ち上がり、「いえ、私も今終わったところです」と挨拶をした。
「あの…」
彼が少し言い淀むように口を開いた。
「いきなりすみませんでした、今日。その……お礼をすると言いながら、結局俺の都合に合わせてしまって。あなたのこと、ちゃんと考えていませんでした」
真面目な顔で、彼はそう言って頭を少し下げた。彼のそんな不器用なほどの誠実さに、私の緊張がふっと解ける。
「いえいえ! 本当に大丈夫ですよ!」
できるだけ穏やかに微笑んで返すと、彼はホッとしたように息をつき、「ありがとうございます」と小さく言った。
「出版社の近くに、いいお店を見つけたので、行きましょう」
「あ、はい。…でも、出版社の近くなら、私の帰り道の途中ですし、わざわざ迎えに来ていただかなくても、自分で駅からお店に向かったのに……」
気を遣ってそう言うと、彼は「いえ、お礼ですから」と、きっぱりとした口調で返した。その有無を言わさぬ響きに、もう何も言えなくなる。彼のこういう、静かだけれど譲らないところに、私は少し弱いのかもしれない。
その誠実さに、心がじんわりと温かくなるのを感じたけれど、それを悟られたくなくて、気づかないふりをして歩き出す。カフェから最寄り駅までの道のりを、二人で並んで歩く。
「先日は、本当に助かりました。あの書類、あの日の夜からの会議で必要で……」
「そうだったんですね。間に合ってよかったです」
「ええ。…普段はもう少し余裕を持って行動するようにしてるんですが」
少しだけ困ったように言う彼が、なんだか新鮮だった。
「編集者さんって、やっぱりお忙しいんですね」
「まあ、担当しているのが週刊少年誌なので、締め切り前は特に…。本当は文芸希望だったんですけどね」
少しだけ自嘲するように笑う彼に、私もつられて笑う。
「そうなんですね。でも、週刊誌ってすごいですね。赤葦さん、学生時代はバレーボールをされていたんですよね? 体力がおありだから」
「体力だけは、まあ……」と彼は少しだけ口ごもった後、続けた。
「あのカフェは、打ち合わせの前後に、ちょっと頭を整理したくて寄ることが多いんです」
彼はそう言うと、ふっと言葉を切った。何かを言いかけて、やめる。そんな一瞬の逡巡の後、少しだけ歩くペースを落として、私に向き合うように続けた。
「……それと、これは、ずっとお伝えしたかったんですが」
「え?」
「いつも、素敵な接客をありがとうございます。……その、自分みたいな、愛想笑いとかが得意でもない人間に、いつも丁寧に接してくださるので……つい、長居してしまうというか……」
赤葦さんは少しだけ視線を逸らしながら、大真面目な顔でそう言った。彼の口からそんな言葉が出てくるなんて思わなくて、私は驚きと、それ以上の嬉しさで胸がいっぱいになって、顔が熱くなるのを感じた。
「そ、そんな…! とんでもないです……!」
そんな会話をしながら歩いているうちに、カフェの最寄り駅に着いた。時刻はちょうど夕方の帰宅ラッシュが始まったばかりで、駅のホームは多くの人でごった返している。
「……タクシーで行きましょうか」
人混みを見て、赤葦さんが提案してくれる。今までの彼の性格を見ると、きっとタクシー代も払ってくれるつもりなのだろう。
でも、忘れ物を届けたお礼だけのために、これ以上お金を使わせるのは申し訳ない。それに、もう少しだけ、彼とこうしていたい、なんて思ってしまっている自分もいた。
「いえ、大丈夫です! 電車で行きましょう! 今は道路も混んでますし、タクシーより電車のほうがお店に早く着けると思いますので」
私が断ると、彼は少しだけ眉を寄せたが、「では、そうしましょうか」と頷いた。
ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。ぎゅうぎゅう詰めではないけれど、人と人との距離は近く、吊革に掴まらないと少しよろけてしまいそうだ。ドア付近に乗り込むと、人の流れに押され、気づけば赤葦さんの胸の前にすっぽりと収まるような形になっていた。
「わっ……」
思わず声が漏れる。目の前には彼のコートの胸元。慌てて見上げると、驚くほど近くに彼の顔があった。さっきまでの外の距離感とは全く違う、パーソナルスペースに彼がいるという事実に、心臓が早鐘を打ち始める。
「……大丈夫ですか?」
頭一つ分以上高いところから、彼が私を覗き込むようにして尋ねる。彼の声が近くて、吐息がかかりそうで、私はもう駄目だった。大丈夫なわけがない。
「だ、大丈夫です……!」
きっと顔が真っ赤になっている。彼に顔を見られたくなくて、私は慌てて俯いた。視界に入るのは、彼のスラックスと革靴。コートからは、ふわりと清潔な、淡い柔軟剤の匂いがした。
(いい匂い……)
そう思うだけで、さらに体温が上がる。電車の微かな揺れで、時折、彼の体に私の肩が触れる。そのたびに心臓が跳ね上がった。
赤葦さんの表情は見えないけれど、なんとなく、彼からも、この予期せぬ近さに戸惑っているような、緊張しているような気配を感じる。そう思うと、少しだけ救われたような、でもやっぱり恥ずかしいような、複雑な気持ちになった。
電車がゆっくりと動き出す。私たちは言葉を交わさないまま、お互いの心臓の音だけを聞いているかのような近い距離で、電車の微かな揺れに身を任せていた。