満開の桜を眺め、そろそろ帰るかと立ち上がった瞬間、ふと懐かしい香りがした。実弥が振り向いてみても、もたれていた桜の大木があるだけ。懐かしい香りを掻き消すように、春一番が吹き抜けた。
その風に乗って、どこからか市女笠が飛ばされていく。実弥は少し歩いて市女笠を拾い上げると、辺りを見渡し持ち主を探した。
自分がもたれかかっていた大木の反対側に、女が同じようにもたれかかっている。
実弥は女に歩み寄るが、眠っている女は微動だにしない。
女は僧侶のような格好をしていて、手には数珠が何重にも巻かれていた。風になびいた髪の毛のせいで顔はよく見えない。もう日が傾いているのに一向に起きる気配の無い女に実弥は声をかける。
「オイ」
「…………んー」
「お前…は………」
●は、ゆっくり目を開けた。
寝ぼけ眼に髪の毛が被って視界が悪い。
目の辺りの髪の毛を雑に払った。
目の前には、蹲み込んで驚いた顔でこちらを見つめる実弥が見える。すごく…大きくなった?
まだ夢の中か………
実弥……
「……ごめんね…」
「…………」
朦朧とした意識の中で再び目を閉じると、市女笠を乱暴に頭に押し付けられた。
「わ!なに……」
「●」
驚いて市女笠を取ると、さっきよりもはっきりと実弥の姿が見えた。目の前の実弥は●を見つめたまま泣きそうな、寂しそうな表情に変わっていく。
「●」
「……実弥…?」
「●…」
実弥は、何度も名前を呼びながら●の頬に手を伸ばそうとする。あと少しで触れる…という瞬間、何かを思い出したように咄嗟に手を引っ込めた。●の正面にあぐらをかいてどすんと座ると、俯いて自身の顔を片手で覆った。
「…………………」
実弥は何も喋らない。
「………おはよう」
「何がおはようだァ……」
実弥は顔を覆ったままハア…と息を吐いた。
「…………」
「…………」
2人の間に再び沈黙が続いた。
何から話せばいいのか分からない。
会いにはいかなかったけれど同じ鬼殺隊同士、いつか仕事で会う事になるとは思っていた。しかし、まさかこんなに早く会うとは。こんな時なんて言えばいいのか、回転の悪い寝起きの頭では、言葉が出てこない。
●が遠慮がちに実弥に目をやると、体格も大きくなり、柱として申し分ない風格の彼が、なんだかやけに弱々しく見えた。
「……元気だった?」
「…………」
「……顔を上げてよ」
「何でテメェはそんな普通で居られんだよォ」
実弥は顔を上げた。その瞳は少し潤んでいるように見える。
「ごめん……」
「………」
実弥が●の髪の毛についた桜の花びらを払おうと手を伸ばすと、●はピクリと身体を震わせる。
「……そんなに警戒すんなァ。何もしねェ」
実弥は●の髪に付いていた花びらを取って見せた。
「あっごめん……」
「悪かった」
「え?」
実弥は真っ直ぐ●を見てそう言った。
「あの夜のこと…悪かった」
「わ、私こそごめんなさい。酷いこと言って…」
実弥はそれを聞くと、安心したように少しだけ微笑んだ。それを見て、●も微笑む。5年前のあの夜から止まっていた2人の時間が再び動き出した様だ。
昼間は暖かくても、日が傾くと一気に寒くなるこの時期。●はぶるると身体を震わせた。
「お前帰る家はあんのか?」
「うん。住むところが決まるまでは産屋敷様の所で」
「お館様に迷惑かけるんじゃねェ。俺の屋敷に来い」
「えっ」
「別に何もしねェよ」
「そうじゃなくて、家族とか恋仲の人とかいるんじゃ」
「いたらなんなんだァ」
「えっ悪いよ突然押しかけたら」
「………いねェよ」
家族、恋仲と問われ頭に浮かんだのは●なのに、●の中では違うのかと思うと面白くない。
実弥は不機嫌そうに立ち上がると、●に手を差し伸べた。●は遠慮がちにその手に捕まり、立ち上がる。
「背伸びたね。私と同じくらいだったのに」
「お前が縮みやがったんだろォ」
身長は関係ないと分かっていても、同じ高みへと願って聖地へ出たのに実弥にどんどん先を行かれている気がする。
身長は関係ないよ、●……ないない。
●は、心の中でそう自分に言い聞かせた。
●は、夕陽に照らされる実弥の横顔をじっと見つめた。
いつも夢の中で見る彼が、いま目の前にいる。
懐かしい場所に居るせいか、実弥の隣にいるせいか、●は気が抜けるような安心感に包まれた。
ああ、ここが私の帰って来たかった場所なんだ。
●に見つめられている事に気付いた実弥の頬がほんのり赤くなる。
「…なんだァ?」
「実弥……ただいま!」
そう言って子どもの頃のような屈託のない笑顔を実弥に向けた。
その笑顔を見た実弥はたまらず●を胸に抱きしめた。柔らかな●の懐かしい香りが身体中に染み渡る。
「実弥………」
「遅ェよ馬鹿野郎がァ。俺がどれだけ待ったと思って……」
「…………」
●は目を伏せて遠慮がちに実弥の背中に手を回す。
「会いたかった………」
もうすぐ辺りが真っ暗になる。そんな頃、2人は、実弥の屋敷への道を歩いていた。
「実弥」
「あァ?」
実弥は名前を呼ばれ、少し後ろを歩く●を振り返って見た。●は片手を実弥に差し出した。
「昔みたいに手繋ごうよ」
「あァ!?そんな事出来るかよォ」
「暗いし、誰も見てないよ」
「…………」
実弥はふいっと前を向くとそのままずんずん先に進んでいく。●は急いで実弥を追いかけた。
やっぱり、大人になって柱ともなれば昔のようにはいかないか。
●は諦めて手を引っ込めた。
しばらく歩くと突然実弥がぴたりと止まって、再び●を振り向いた。
「今日だけだからなァ」
「え?」
実弥は頬を染め●の手をギュッと握ると、またずんずん歩き出した。●は実弥に引っ張られて小走りになる。
「さ、実弥、速いよ」
「…………」
実弥は何も答えず●の手を握ったまま歩く。実弥の手は大きくて温かい。
「子供の頃よくこうやって歩いたよね」
「…………」
●は実弥の後ろを歩きながら、空を見上げた。綺麗な半月が出ている。
実弥とまたこんな風に歩ける日が来るとは思わなかった。私は実弥に酷い事を言ってしまったんだ…。
「実弥」
「あァ?」
「大嫌いなんて嘘だよ…」
「…………」
実弥は黙って●を振り返った。
「ずっとずっとだいす」
「それ以上言うな」
実弥は咄嗟に●の言葉を遮った。
「俺はお前がいいって言うまで手を出さねェって決めた」
「え?」
「だからこれ以上俺の覚悟をォ……俺を揺さぶるんじゃねェ」
「手を出さない…え?」
実弥と●は、手を繋いだまま綺麗な月を見上げた。どこからか風に乗って流れてきた桜の花びらが雪のように舞い、とても綺麗だ。
その間、●は1人でもんもんと考えていた。
手を出さない……手を出さない……
それってどういう意味?
身体に触らないってこと?
「あれ?でもさっき……」
「あァ?あれはお前が悪い」
「え?」
「…………」
実弥は片方の手で顔を覆うと、「行くぞ」と言ってまた歩き出した。手はずっと繋いだまま。
「実弥…私刀じゃ駄目だったけど…」
●は、実弥の大きな背中を見つめた。
「私、強くなれたかな。実弥に追いつけるかな」
「お前は強ェよ」
最初から、俺が思ってるよりずっとずっと強い奴だった。お前にはかなわねェ。
「本当?実弥に言われると嬉しいな」
●は頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
やっと会えて、仲直りできた。
話したいことが山ほどある。今からでも遅くない。あの夜からの空白の時間を全部…埋めたい。
実弥は●の一回り小さな手を握る手に力を込めた。
「おかえり」
***
2021.10.29確認
夢主がいいと言うまで手を出せない実弥と、焦らしまくる夢主の続編はお声が多く上がれば書きたいと思います。
2020.03.14