湿原の春風

木々の茂る山の奥でふわり……と柑橘系の匂いが鼻をついた。気持ちが覚醒するような…けれど嫌じゃない、そんな香り。匂いに引かれ歩いていると、周りの大木に圧倒されるようにぽつりと佇む背の低い木に、蜜柑らしきまだ青い実が成っていた。
群生でないことから人の手で植えられた物だと分かる。わざわざこんな山奥に。

その木の傍に寄ると、背後から草をかき分ける音が聞こえた。ゆっくり振り返ると、そこには同年代位の娘が立っていた。旅の荷物を持っていない事から近くに住まいがあるのかもしれない。

「こんにちは」
「…この近くはよく鬼が出る。1人で居たらあぶないから、とっとと人里に引っ越しでもしなよ」

挨拶も返さず、初対面の相手に表情を変える事なくそう言い放った。
普通、知りもしない人間にそんな事を言われたら
ムッとするか不思議がるかするだろうに、この娘は口角を上げてにっこり笑った。

「その木の実、いい香りでしょう」

娘も木の側に駆け寄って、自然と2人の肩が並んだ。

「これ、なんの実?」
「わかんないんです」
「え?……なんで?」

聞けばこの木は、娘の両親がこの場に植えたもので、成る実が何か聞かされないまま両親は旅立ってしまったそう。両親の遺言で『あの木の世話してほしい』と託された為、娘は人里離れたこの山奥に留まっているらしい。

「ばかみたい」
「えっ」
「木なんてほっといたって育つのに。人間の手なんていらない。山の風と雨で十分だよ」

そう言いながら、ふと自分が木を切る仕事をしていた事を思い出した。
 昔家族で住んでいたのは、ここみたいに深い山奥だった。けれど、僕は1人ぼっちじゃなかったなあ。

「寂しくないの?」
「………」
「こんな山奥に1人で」

問われた娘は、またにっこり笑った。

「あなたの名前は?」
「…時透無一郎」
「無一郎さん。私は●です」
「別に聞いてないよ」

●は、たしかにと口元を隠して笑い、無一郎から目を逸らすように実の成る木を切なげに見つめた。

「無一郎さん、また…ここに来てくれる?」
「………いやだよ」

そういうと、無一郎は来た道をズンズン歩き出した。●は無一郎の背中を切なげに見送ると、拳を胸の前に当て、俯いた。

「………いい香り」





それから毎日のように無一郎は●の元を訪れるようになった。何をするでもなく、ただあの木を眺めて、●が挨拶をすると帰っていく。側から見れば、訪れた少年がただ少女の顔を見て安心して帰っていく…、そんな風に見える。
●も、もう来ないと言っていた筈の無一郎に毎日会うのが唯一の楽しみになっていた。

この日も、木の側にいた●の前に無一郎が現れた。空が荒れる雨風が強い日だった。

「あれ、生きてたんだ」

いつも無言なくせに、今日は珍しく無一郎が●に話しかけた。

「えっ!生きてますよ。こんにちは、無一郎さん。傘は…」
「すぐ隣の山で鬼が出た。いよいよここも危ないよ」

そこで鬼を切ってきたのか、雨に濡れる無一郎の顔や服にはすこし泥がついていた。それでも疲弊した様子も無く、服にさえ傷らしきものは無いようだ。●は無一郎に駆け寄り、自身の傘を傾けて雨を遮る。

「あの、家すぐそこなのでお茶でもどうですか?」
「人の話聞いてる?」

●は無一郎を自分の住う小屋に案内した。雨風はなんとか凌げるものの、ギシギシと家鳴り
がする。無一郎は不安そうに天井を見上げた。●は気に留めることなく慣れた手つきでお茶を入れた。

明日には鬼がこの山に来てもおかしくないのに、この人はそれを全然分かってないな。

その時、ドーンと大きな地鳴りがした。外はまだ風も雨も強いままで2人のいる小屋はさらに軋む。

「わ!?な、なんの音?土砂崩れ?」

音に驚いた●が窓から外を覗いたが、降り頻る雨のせいで遠くまで見渡すことは出来なかった。

「ねぇ、今日このまま泊めてくれない?」
「ここに?」
「ここに」

●は外が暴風雨な為、こんな中追い出す訳にはいかないと無一郎の願いを聞き入れた。簡単な食事を用意し、急いで押し入れの中の布団を引っ張り出した。雨に濡れた無一郎の為に父が着ていた着物を用意したが、明らかに大きい。

「私のでいいかな。でも柄が…」

●は自分の着物の中で一番女性っぽくない物を選び、無一郎に渡した。着替えている間に無一郎の濡れた服を絞って部屋の中に干しておく。

「明日までに乾くといいけど…」
「ねえ、この着物誰の?」
「私のだけど」
「やっぱり」

無一郎はすこし窮屈な着物をすんすんと嗅ぐ。柑橘系のあの木の匂いがした。
雨風が収まらない中、2人はそれぞれ布団の中に入る。蝋燭の火を吹き消そうとする●を、無一郎がじっと見つめた。

「なんでかなあ。放っておけないんだよね」
「え?私のこと?」

●は蝋燭を吹き消そうとする手を止め、無一郎を振り返り、自然と2人の視線が合わさる。

「うん。本当は泣きたいのに無理に笑ってるみたい。気持ち悪くて」
「…………」
「親の意思でしか動いてない。自分の気持ちは話さないよね。…それ変だよ」

「……………」

無一郎は立ち上がり、●の正面に座る。
2人の横顔を蝋燭が照らし出す。真っ直ぐ見つめてくる無一郎の瞳に本心を見透かされているように感じ、たまらず目を伏せた。


「私の事薄情って思うかも…」
「話して」

●はゆっくり話し始めた。
●には両親の記憶が無いこと。顔や声、共に過ごした日々さえ。覚えがあるのは遺言のみ。故にあの木だけが、両親とのただ一つの繋がりだと。

「あの木だけが、親が居たという証明なんです。だから…」
「………」
「私の頭って、記憶が消えちゃうのかな?おかしいよね」
「僕の名前は、覚えてる?」

無一郎は●の両頬を包むように手を添え、自分の方へ引き寄せた。額と額がコツンと当たり、2人の吐息が混ざり合う距離。大きくなる心臓の音と共に、顔が火照ってくる。
●は、自分の頬に優しく触れる無一郎の手に恐る恐る手を重ねた。

「言って」
「…無一郎くん」
「覚えてるね」

無一郎は両手を肩に滑らせ、ビクリとする●の首元に顔を埋め、目を閉じ深呼吸した。
とても落ち着く、いい香りが胸いっぱいに広がった。

「もう少しこうしてていい?」
「恥ずかしいし、こしょぐったいです…」

そう言いながらも無抵抗なので、無一郎は●の香りに包まれながらいつの間にか眠りついた。


次の日の朝
無一郎が目を覚ますと雨はすっかり止んで、外で小鳥が鳴いていた。窓から雨上がりの匂いがする。

上体を起こして隣の布団を見ると、綺麗に畳まれた布団があるだけで●の姿は無かった。
小さな小屋内を見渡すが、気配すらない。
無一郎は立ち上がり、すっかり乾いた隊服を着ると草履を履いた。
●がどこに居るか、察しがついていた。
あの木の場所だ。


少し歩くと、●の後ろ姿が見えたので話しかけた。

「おはよ」
「………」
「昨日の雨のせいかな」

●の目の前には、根が剥き出しの状態で倒れているあの木があった。柑橘系の香りは弱まっていて、泥の匂いが強い。立ち尽くした●に表情はなく、ただ倒れた木を見つめるのみだった。

2人がしばらく木の前に立っていると、背後から草をかき分ける音がした。

「時透様!こちらでしたか」

わらわらと数人の『隠』達が現れた。どうやら無一郎を探していたらしい。

「屋敷からの用事で」
「ちょうどよかった。この木、運んでくれる?」
「…は?」
「えっ?」

雨による土砂崩れで倒れた木は、状況を理解しきれていない隠達の手によって、無一郎の屋敷に運ばれた。
そしてそのまま、庭の小さな池の側に丁寧に植えられた。
ずっと世話してきた木を、されるがまま見守っていた●は、この状況に開いた口が塞がらない。木と無一郎を交互に見る。

「え……っと…?」
「今日からここが家だよ」

無一郎は植えられた木の青い実を、つんと突きながら言った。

「●の香り、落ち着くから好きなんだ」
「あ……名前……」
「ここに僕と居てくれない?」

無一郎は横目で●を見、頬を赤く染めた。言葉を理解した●の瞳から涙がぶわっと溢れ出た。

「えっ?なんで?」

自身で涙を拭う素振りも見せず、ただ涙だけが溢れる瞳。驚いて焦りはじめる無一郎だったが、優しく●の涙を手で拭った。

「この木…の、お世話しろってこういう事だったのかな…」
「え?」
「無一郎さんが、迎えに来てくれるまでここにいなさいって」

そういうと、●はそんなわけないかぁと泣きっ面に微笑んだ。ありのままのくしゃくしゃな笑顔に無一郎もつられて笑った。

そんな笑い合う2人を、ふわりとあの木の香りが包み込んでいく。


***
大好きなフォロワーさんから教えて頂いた曲を聴きながら書き綴った物語です。
夢主の香りに絆されるようなふわりとした物語が書きたかった…です!!
2021.11.23

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